そらみ

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 『将来の夢』
 小学生の妹が見せてきた作文用紙には、そんなテーマがひと言書かれていた。
 なんでも、秋の授業参観日に発表するため、この夏休みの間に書かなければならないらしい。
 あんまりわからない、と妹は困っている。
 何かいい案はないかと問われるも、こればかりは本人のポキャブラリーから引き出さなければ意味がないだろうと、私も困る。
 じゃあ聞き方を変えるね、と妹は言った。この子、私より十も下だというのに、時おりこうやって大人な一面を覗かせるので、鳥肌が立つ。
「お姉ちゃんは将来の夢、なんだった?」

 十年前。
 臨月の母は病院に行ったきり、家に帰ってこなくなり、私は事情を理解しながらも、決して受け入れられずにいた。
 当然といえば、当然。小学四年生なんて、そんなものだろう。自分の都合のいいことしか、頭にいれたくないのだ。
 情けないことに、大人にもそういう種族がいることを、十年後の私は悟ってしまうのだけれど。
 それはさておき。あからさまに口を聞かなくなった娘の私相手に、父はずいぶんと困った顔をしていた。
 いつも私が自分から話しにいくのは母のみで、父に対しては不慣れな面も大きかった。仕事の忙しさから、休日でもほぼ一日中寝ており、家では滅多に顔を合わせず、どこかに遊びに連れて行ってもらった経験も皆無に等しかったと思う。
 そんなことだから、正直顔を合わせたとて、何を話せばいいのかわからなかった。ので、私は無口を決めこんだというわけだ。
 ふたり寂しく、夕食の席。父が慣れない手で頑張って作ってくれたご飯。今となっては感謝しかないが、当時の幼い私にとっては微妙な味をしていた。
 父は一生懸命、私に話しかけてくれていたと思う。思う、というのも、どうも右から左でほとんど聞いてなかったから覚えていない。なんて薄情な娘だこと。
 聞いていないので当然、返事はうん、とかううん、とかもうあまりにも適当で。キャッチボールをはなからする気がなかった。父が全力投球するのに対し、それが体に当たろうが何だろうが、絶対にバットを振ったりしない。
 あれ、キャッチボールというよりそれは野球では。
 さておいて。氷のような食事を済ませるなり、早急に自室に戻る私。金魚色のランドセルの中から宿題を取り出し――しまう。
 私は優等生ではないので、宿題は気が向いたときしかやらなかったし、プリント類はほとんどファイルにいれっぱなしだった。
 だからまあ、すっかり忘れていた。授業参観日のお知らせを、父に渡すことを。
 当日。クラスメイトの家族が教室に来ているのを見て、ようやく思い出したほどには忘れていた。渡さなかったのは自分だというのに、あろうことか私は参観に父が来ないことを恨めしく思っていた。
「では、作文をひとりひとり、読んでいきましょう」
 さすがというか、家族の目にも怯む様子を見せない、熟練教師のおばあちゃん担任。実に普段どおりの声色で、ゆったりと授業を始める。
 挙手制で、各々が事前に済ませておいた作文課題を読み上げていく。発表を終え、拍手が響くと彼らは決まって、後ろを振り返る。そして家族からのグッドサインを受け取ると、満足気に席に着くのだ。
 私は手元の用紙に目を落として、ため息を吐いた。
 『将来の夢』
 用紙には、印字されたそのひと言だけが顔を見せている。文字枠の中に、鉛筆の粉は刻まれていない。
 どうか、時間切れか何かで当たりませんように。
 そんな私の願いも虚しく、おばあちゃん先生は容赦なく私の名前を穏やかに呼んだ。
 驚いて辺りを見渡せば、なぜか誰も手を挙げていない。そして当てられた私へと全視線を向けている。
 次に目に入ったのは、黒板に吊るされた日直当番表。マーカーペンで綴られているのは、紛れもなく己の名。
 すべてを理解して、一気に血の気が引く。大勢の鋭い視線をなるべく視界にいれないように、がたりと重々しく立ち上がった。
 しん、と静寂に覆われる。なぜか突っ立ったまま口を開かない私に、児童も保護者も皆怪訝そうな空気を漂わせた。
 どうしました、と先生も心配そうに問う。何か、何かを言わなくては。焦れば焦るほど、真っ白な用紙が心臓を握りつぶしてくるようだった。
 気持ち悪い。胃の中のものすべて出てきそうだ。
「……保健室、行ってきます」
 小さくそれだけ吐き捨てて、私は誰の顔も見ないようにうつむいたまま、教室を飛び出した。
 これだから、自分が嫌いなのだ。
 正直に言えばいい。書けませんでした、だから発表できません。そう、ありのまま打ち明ければいい。
 それが、できない。したくない。
 面倒くささと、変に高いプライドが、私の臆病心を掻き立ててしまう。
 廊下の角を曲がり、保健室へは行かないまま、途中で立ち止まって壁によっかかる。
 右手に持って出てしまった用紙を、横目で睨んだ。
 こんなもの、もう必要ない。見たくない。
 臆病心が最高潮に達すると、私はすべての事象から逃避するかのごとく、それをビリビリと破り捨てた。
「アカネ?」
 聞きなじみのある低い声に、心臓が跳ねる。
 ボロボロの紙が、私の手に貼りついた。
 よれたスーツ、寝ぐせのままの髪、私とよく似た日本顔の父が、すぐそばに立っている。
 どうして、なんでいるの。
 その問いは出てこない。まともに顔を見ることもできずに、拗ねた幼児のように顔を逸らす。
「びっくりしたよ、急に教室を出ていってしまうから。体調が悪いのか? ならお父さんと一緒に保健室に……」
「ほっといてよ」
 父の声が、ぴたりと止んだ。
 私の心臓も止まる。今、自分が何を言ったのか理解できない。
 勝手に、飛び出てきてしまった言葉。こうなればもう、歯止めが効かないことを察してしまった。
「なんだっていいでしょ、どっか行ってよ」
 顔を見れないまま。冷たそうな廊下を見続けながら、私は一心不乱に言葉を当てる。
「てか、なんでいんの? お知らせ渡さなかったじゃん、わかんない? 来んなって言ってんの! それくらい察してよ」
 違う、違う違う。
 そんなこと思ってない、考えてない、私の本音じゃない。
 でももう、止まらない。
「いまさら父親面してさ、何がしたいわけ。ご飯はまずいし、部屋は汚いし、洗濯ものはぐちゃぐちゃだし、話はつまんないし、臭いし、だらしないし! あんたなんか認めない、父親じゃない! 大っ嫌い! お母さんを返してよ!」
 ぱん、と痛々しい破裂音が廊下に響いた。
 それが、自分の頬から発せられたものだということに、気づくまで時間がかかった。じんわりと痛みを帯びていく。
 視線を上げた先には、くしゃりと歪んだ父の顔。
 とたんに心臓がギュッと掴まれたように苦しくなって、視界がぼやけて見えなくなった。
 まるで赤ちゃんみたいに、みっともなく、情けなく私は大声を上げた。嫌い、嫌い、大っ嫌い。それしか言えないロボットみたいに、ボロボロな心を削るみたいに、罵りまくって激しく泣いた。
 こんなに涙を零したのは、いつぶりかさえわからなかった。ずっと、ずっと溜めこんできたものが、全部溢れ出してくるのを感じる。
 父は何もしなかった。声をかけることも、頭を撫でることも、抱きしめることもせず、ただ泣きじゃくる私をずっと見ていた。
 そのときの私は、そんな父をより一層憎らしく思った気がする。

「お姉ちゃん?」
 壊れた? と怪訝そうに見上げてくる妹に、へらりと笑ってみせる。
 ちょっと昔を懐かしんでた、と言えば、おばあちゃんみたいと毒舌を吐かれる。失敬な、こちとらまだ二十歳のピッチピチハリツヤお肌だぞ。
 あれ、そういえば何聞かれてたんだっけ。
「だから、将来の夢何だったのって」
 呆れ混じりにもう一度問われ、改めて振り返る。
 正直なところ、なりたかったものなんて覚えていないけれど。まあ、記憶から考えるなら、きっとあのときの私には未来を夢見る余裕なんてなかったのだろう。
 お腹の妹に母親を取られたような、好きでもない父親に嫌われたような、そんな孤独を勝手に感じて、今この世界にひとり取り残されたような気がしていた。
 だから、前に進む気が起きなかった。のでは、なかろうか。
「強いて言うなら、何かあるでしょ」
 素直に事実を伝えると、妹は心底不満そうにそう吐いた。この子、なかなかしぶとい。意地でも私から何かを引き出したい様子だ。
 こう全力でこられては、私も意地を見せるしかない。
 強いて言うなら、強いて言うなら……必死にない頭脳を巡らせる。
 結局、あのあと私は。
 将来の夢を破り捨てた私は、どうしたのだったか。

 母は豪快に笑った。
 まさか私がいない間に、そんなことになっていたとは。大きく貼られた白いガーゼを目に、楽しそうにそんなことを言う。
 痛かったかと問われたので、強がって首を横に振れば、ものすごく感心された。
「すごいね。私もお父さんに叩かれたことあったけど、めちゃくちゃ痛かった覚えあるよ」
「え! あの人、お母さんも叩いたの?」
「昔の話ね。大喧嘩したとき、思いっきり。まあ、百倍くらいに返り討ちにしてやったけど」
 またもや、豪快に笑う母に私は若干引いた。
 入院中の母は、想像していたよりも元気で。お腹が大きいことに変わりはなくて、それがなぜか私の心をすっと軽くしてくれたように思う。
 久々に、色々な話をして。楽しい時間はあっという間に過ぎて、空は茜色に染まった。
 父が私を迎えに来たので、げんなりとしながら母に別れを告げる。
 立ち去ろうとした私の未熟な腕を、母がつついた。
「お父さんね、ちょっと後悔してたよ」
 振り返った私の耳に、そんなことを囁いて、母はぎゅっと両目をつむった。
 たぶん、ウィンクをしたつもりなのだろうけど。残念ながら、梅干しを食べたような顔になっている。
 それが何だかおかしくて、私は小さく吹き出した。
 不思議そうな父に着いて、私たちは家路を辿る。
 母と話したおかげで冷静になった私の心は、罪悪感と緊張感で押しつぶされそうになっていた。隣を歩く父の顔を、より一層見れない。
 しかし、やはり謎に高いプライドが邪魔をして、なかなか自分からは謝罪の言葉が出てこなかった。
「ごめんな」
 だから、頭上からそんな言葉が降ってきたとき、あんまりびっくりしすぎて顔を上げたことを覚えている。直後、慌てて下を向いたけれど。
 今にして思えば、何か言いたげな私を察して、うながしてくれたのかもしれない。
「寂しい思いさせてて、すまなかった。お父さん、お母さんの代わりにはなれなかったな」
 ズ、と濁った音が鼓膜を刺す。それは、鼻をすする音に似ていた。
 穏やかで、優しい声。先日の、鬼のような形相とは正反対の、いつもの父。それが、引き絞られた心をふっと緩めるものだから、私は溢れだすものをまた堪えることができなかった。
 ごめんなさい。酷いこと言って、ごめんなさい。
 そう言ったつもりだけれど、たぶんほとんど伝わっていなかったと思う。それでも、父は頷いて、その大きな手でようやく頭を撫でてくれた。
 それが温かくて、嬉しくて、私はやっぱり赤ちゃんみたいに声を上げて、泣きじゃくった。
 精一杯のごめんなさいは、私色の空に溶けていった。

「なんだ、そんな昔のこと覚えてないぞ~」
 ビールの泡ヒゲをつけながら、相変わらずだらしない格好の父がへらりと笑う。
 私も今日まで忘れてたからね、と言えば、そりゃ当然かと笑いあった。あの日、あの頃の刺々しさが嘘のように、私と父は一緒にお酒を飲む仲だ。
 ぬか漬けをポリポリとつまみながら、父はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、なんかお菓子作ってくれたことなかったか? なんだっけ……テ、テトリスみたいな」
「ティラミスね。なんだ、覚えてんじゃん。ちょうどその頃だよ、仲直りの印にって私が作ったやつ」
 そうか、そうかと父は嬉しそうに頬を染めた。あれは人生一おいしかったな、なんて言うものだから、私まで顔が熱くなる。
 ティラミスと言ったって、本当に不格好なものだった。材料だけが器に入れられた粗末なもので、あの綺麗な層など欠片もできていなかったけれど、確かに父は本当に喜んでくれたように思う。
 あとから知った。父は、甘いものが得意ではなかったらしい。
「私の頑固さって、なんかお父さんからな気がする」
「おっ、ようやく気づいたか~」
 ばっちり遺伝子継いでるな、と冗談めかして笑う。
 私も笑った。でも、全部はきっと受け継げなかったんだ。半分の中に、運悪く頑固さが入っていただけ。
「ちょっと、お酒くさいんですけど」
 不機嫌そうに眉をひそめながら、妹がリビングに降りてきた。お前も一緒に飲むか、なんて父のダル絡みに、舌打ちしそうな勢いでため息を吐く。
「ねぇ、お姉ちゃん。結局質問の答えなんなのさ」
 麦茶を飲みながら、妹は私に矛先を変えた。
「ふふ、わかったよ。私の将来の夢」
「お、なんだなんだ。面白そうな話だな」
「お父さんには聞いてないから黙ってて」
 妹の牙に、酔っ払いは小さく萎む。
 その様子におかしくて笑いながら、私は改めて妹に向き直った。
「私の、将来の夢はね……」

『そう、喜んでくれたの』
 よかったね、とウィンクの音が受話器の向こうから聞こえてきそうな、祝福の言葉を贈られる。
「まあ、ほら。喜ばないほうが変じゃん……」
 私の照れ隠しは、笑いで一蹴されてしまった。
 父も寝静まった夜のリビングで、固定電話に張りつく私。病院の公衆電話から、楽しそうに笑う母。
 きっと、つかの間のひとりじめだ。幼心に何となく、私は悟っていた。妹が産まれれば、きっと私はまたやさぐれてしまうんだろう。
 だから今のうちに。母の愛を、全部覚えてやるんだと。夜のハイに任せて、私は電話越しに他愛もない話をした。
 しばらく喋って、ふと思い立って、私は父がちゃんと寝ていることを確認する。
「あのね、お母さん」
『うん?』
「私ね、将来の夢できたよ」
 少し驚いたような声がしたあとに、聞かせてよ、と期待が向けられた。
 あのとき、発表できなかった、私の夢。
 今ならもう、迷いなく言える。

 ――な、なんだって? テトリス?
 ――……うん、おいしい。おいしいよ、アカネ。すごいな、こんなものまで作れるようになったんだな。
 ――ありがとう。

「ありがとう、と……ごめんなさいが、言える大人になりたい」

12/8/2024, 5:31:01 PM