僕のクラスには、白杖を持った女の子がいる。
話したことはほとんどなくて、たまに挨拶を交わすくらいの仲だけど、真面目で良い子なことは何となくわかる。
明日までに書いて提出するように。
そう言って先生から配布された、小さな進路希望調査票を手に、眉をひそめる。先生、いくらなんでももう少し、考える時間をくださいよ。
そんなことを思ってるのは僕だけなのか、周囲からは友人同士で進路について聞き合う声が飛び交う。
やれ進学だの、やれ就職だの。いったいいつそんなことを考える時間があったのかと、問いかけたくなる。
必死に今を生きている自分には、未来のことを考える余裕なんて残っていないのに。
ふと、彼女のことが気になって視線を向ける。
隣の席の友人に、かわりに書いてもらっている様子だ。彼女ももう決まっているのか。そう思ったとき、なぜだか寂しさを感じた。
終業のベルが鳴り、各々が荷物をまとめて目的地へと動き出す。部活に行く者、委員会に行く者、そして帰路に着く者。
僕も荷物をまとめ終わり、帰宅組に混じろうとして、ふと思い出す。そうか、今日はバイトも休みだし、弟の迎えは祖母がかわりに務めてくれるから、放課後に時間があるのか。
いちど席に着きなおし、数秒経ってから、僕はひとり廊下に足を踏み出した。
ポロン
柔らかな音色が、静寂にこだまする。
温かみのある木目、いつ切れるかわからない弦、身体の大きさにちょうどフィットするサイズ感。
今は誰にも使われていない、旧音楽室に僕はいる。
ひとりだけ、普通に話せる先生がここを管理していて、時間があったら使っていいよと鍵の場所を教えてくれていた。
貴重な放課後。遊びに行く友人もいない僕は、弾けもしないアコースティックギターをここで、ひとり鳴らす。
ほこりの匂いが、鼻腔をツンと刺激した。この寂れた空気が、今はお気に入りだった。
カコン、と扉の方で何か、音がして驚く。
廊下に倒れた白い杖。膝をついて必死に探す、女の子の姿。
彼女だ。何となく放っておけなくて、ギターを置いて立ち上がる。
足音に気がついたのか、彼女が顔を上げた。僕は何も言わずに杖を拾って、彼女の手に握らせる。
ありがとう、とぎこちないお礼が、彼女の唇から紡がれた。そういえば、声を聞いたのは久しぶりかもしれない。
うん、とだけ返して、教室に戻ろうと踵を返せば、けっこう強い力で裾を引かれた。
「待って、和宮くん」
これにも驚いた。どうして自分だとわかったのかも不思議だし、何より名前を覚えられていたことが衝撃だった。
彼女――朝倉さんは白杖を頼りに立ち上がると、ちょっと恥ずかしそうに呟いた。
「ここで、聴いててもいいかな。あの、もちろん邪魔はしないから……」
どうして、と聞こうとして、飲みこんだ。理由を聞こうが聞かまいが、特に断る理由もないからだ。
いいよ、と答えて、朝倉さんを近くの椅子まで誘導する。ちゃんと座ったのを確認して、自分もギターが待つ椅子へと戻った。
ポロン
相変わらず、気の抜けるような下手くそな音色が響く。
今になって少し気まずくて、朝倉さんを横目に見た。楽しそうに、笑っている。その笑顔が、嘲笑ではないことを願う。
良い音だね、と彼女は呟いた。直後、素人耳だけどと焦ったように付け加える。
「何の曲を練習してるの?」
その問いに、返す言葉を悩む。何となく、幼い頃に母が歌ってくれた曲を思い浮かべてはいたけれど、タイトルも知らなければ、うろ覚えだからだ。
上手い言葉も見つからないので、仕方なくそのまま答える。すると彼女は、お母様に聞いてみないのか、と不思議そうに問うてきた。
「……残念だけど、空の上まで聞きには行けないから」
少し気取った言い回しに、自嘲した。格好つけて、朝倉さんを困らせてどうするんだ。現に、彼女からの反応はない。
気まずさをかき消すように、弦を弾く。
しばらくして、小さな謝罪が鼓膜を震わせた。
ああ、やっぱり。真面目で良い子だ。
「こっちこそ、言わせてごめん。何も気にしてないから、朝倉さんも気にしないでほしい」
「わ、わかった」
気にしない、と独りごちるように、彼女は繰り返す。
「その、聞いてもいいかな」
「うん」
「和宮くんは、音楽の道に進みたいの?」
これにも、悩んだ。
いや、悩むことでもないか。僕の将来なんて、きっと母を見送ったあの日から、決まっているのだから。
まだ幼い弟がいて、身体の弱った祖母がいて。頼れる大人もいない家で、僕だけが命綱であって。
どうして、悩んだのだろうか。わからない。
でも、朝倉さんの問いに、なぜか何も返せない。
「……朝倉さんは、さ。もう決まってるの、進路」
口をついて出た疑問で、悩みを無理やり覆い隠す。
彼女は苦笑を浮かべながら、進学したい、と答えた。やっぱり、予想通りだった。彼女はいつも成績上位にいる優等生で、僕とは正反対の子だから。
前に一度だけ、朝倉さんの両親を見たことがある。職員室に訪ねていた。育ちの良さそうな、穏やかな人たちだった。ああ、彼女を生み育てた人たちだと、すんなりと理解した。
家庭に恵まれ、友人に恵まれ。真面目で優しい人柄が、いつも周りを惹きつけて、彼女自身の道を開いていく。
ずるい。僕がそう思えないのは、今も彼女が両手に抱えるその、真っ白な杖のせい。
その存在だけが、僕に優越感を与える。朝倉さんを見下す要因になりえる。
ようやく理解した。あのとき、彼女が進路を決めているのだとわかったとき、寂しいと感じた理由を。
勝手に同じところにいると思っていたんだ。生きることに人一倍苦労して、今を見ることに精一杯で、余裕のない心を抱えて孤独でいるんだって。
そうじゃないと、面と向かって言われたようで。置いていかれたようで、寂しかった。
何を勝手に、人の人生をわかったように。
誰も僕のことを理解できない。なら、僕だって人のことなんて理解できない。
勘違いも甚だしい。彼女は、朝倉さんは、僕と正反対の場所で笑っている。
ブツン、と嫌な音がした。
「あ……」
朝倉さんと声が被る。弦がひとつ切れてしまった。古いギターだ、無理もない。張り替える弦なんてないので、ため息を零す。
ふと顔を上げれば、窓の外はオレンジ色に染まっていた。いつの間に、こんなに時間が経っていたのか。
早く帰って、夕飯の準備をしないと。
帰るね、とひと言告げて、ケースに木目調の楽器をしまう。
「終わらせないで」
よく通る、綺麗な声が寂れた空間にこだました。
それはまっすぐに僕の鼓膜を突き刺して、思わず手が止まる。
ギシ、と古い椅子が音を立てる。朝倉さんは立ち上がって、探るように向かってくる。
無意識に、手が伸びていた。白く細い彼女の指先が、僕の荒れた手を捉える。
「私、私ね。好きだよ」
朝倉さんの瞳の中に、僕の見慣れた顔が映る。
「和宮くんのギターの音。たまに弾いてたの、こっそり聴いてた。ちょっぴり寂しくて、でも温かくて。生きる勇気をもらってた。本当だよ、大袈裟じゃない」
何だ、それ。素直じゃない自分が、まっすぐに心を射抜かんばかりの彼女の歌を、跳ねのけようとする。
「だから、だからね。終わらせないで。まだ聞いていたいから、その音を止めないで」
なんて、勝手な。
僕のことなんて、何も知らないくせに。
そんなに綺麗な笑顔で、心を惑わせないで。
夕日を映した瞳で、僕を映さないでよ。
こんな彼女のことなんて、知らなかった。
こんな綺麗な世界なんて、知らなかった。
朝倉さんの歌は、素直じゃない僕を押しのけて、心の中に土足で踏みこんできた。
それが嫌じゃないと思えた理由は、今でもよくわからない。
けれど僕の部屋には、古びたアコースティックギターがぽつんと、立てかけられている。
十年前のあの言葉は、まるで呪いのように僕の背中を押し続けてくれるから。
11/29/2024, 4:50:07 AM