そらみ

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 兵士は苦しかった。
 長い長い戦争がようやく終わりを告げ、兵士の仲間は皆死んでしまった。兵士もまた大怪我を負い、飢餓と孤独に苦痛を覚えながら、どことも分からない道程をひたすら歩き続けている。
 そこらじゅうに散らばっているのは、瓦礫か、人間か。確かめる気も更々起きない。それが生きているのか死んでいるのかも、正直どうでもいい。
 兵士は何のために生きているのだろうと自問した。
 家族も、友人も、大切な人は皆いなくなり、国は荒れ果て、助けてくれる者などいない。
 こんなに苦しい思いをしてまで、命を繋いでいく意味は果たしてあるのだろうか。あったとして、それを誰かが教えてくれたとて、自分は納得できないのではないか。
 ならどうして、今この道をずっと歩いているのだろう。
 どこに向かっているのか。何を求めているのか。
 兵士は逡巡したが、答えには辿り着けない。考える気力も体力も、もう残ってはいないからだ。
 それから、どれぐらいの時間が経ったのか。
 気づけば兵士は夜の森を彷徨っていた。月明かりは届かず、風と虫だけが静かに歌っている。
 兵士は明かりを探して顔を上げた。
 ひとつ、煌々とかがやくものがあった。家だ、可愛らしい民家が一件建っている。
 兵士はその光に吸い込まれるように、足を運んだ。
 しかし、途中で膝が抜けてしまった。どさりと重たい鎧が地面に崩れ落ちる音がする。
 ああ、もうすぐそこだというのに。結局、自分の手はいつも欲しいものに届かない。
 立ち上がれないまま、家の明かりをぼんやりと眺めていると、突然その扉が開き、誰か出てきた。
 少女だ。深い湖色のローブを身につけて、ランタンを手にこちらを振り向く。
 あどけない顔は驚きを浮かべて、すぐさま駆け寄ってきた。
 大丈夫ですか、という問いかけに上手く答えられない。少女は返事を待たずして、兵士に肩を貸してくれた。重たい足を引きずるように、兵士は少女の家へと歩いていく。
 少女は見ず知らずの兵士に、献身的に接してくれた。鎧を脱がせ、傷の手当てをし、自分のベッドを貸してくれる。嫌な顔ひとつせず、ただ優しさを兵士に与えてくれる。
 兵士は泣きたくなった。涙は出なかったが、こんなに無条件に優しさを享受するのは、もういつぶりか思い出せないくらいで。ただ、嬉しかった。
 数日が経ち、兵士はようやく歩けるようになった。
 ふとキッチンを覗けば、少女が何かを作っている。
 少女はまともに食事ができなかった兵士に、お粥など消化にいいものをいくつか作ってくれた。それはどれも彼女に似た優しい味で、とてもおいしかった。けれど、今作っているのはしっかりした料理のようだ。
「よし、あとは仕上げだけ」
 ご機嫌に、少女は戸棚から何か小瓶を取り出す。
 と、その様子をこっそり見ていた兵士を振り返り、にんまりと悪戯っぽく笑った。
「これを最後にいれます。さて、なんでしょう?」
「え……と、怪しい薬……?」
「失礼だなぁ、仮にも君の命を救った恩人に対して」
「す、すみません」
「ふふ、冗談、冗談。これはね、愛だよ」
 ポン、と軽快な音を立てて、小瓶の蓋が開く。
 中に入った透明な液体を、鍋にゆっくり注ぐ。それをかき混ぜながらひと煮立ちさせて、少女は火を止めた。
 ふたりぶん、器に盛って食卓へ持っていく。
「魔女の特製ポトフ! 召し上がれ」
 愛、とはどういうことなのか、聞こうとしてやめた。目の前のポトフがあんまりおいしそうで、疑問がどうでもよくなったからだ。
 匙で掬って、少し冷まして。ひと口。
 熱かった。舌の先をやけどして、痛くて。喉を通り過ぎた優しい味のスープが、じんわりと心を温めていく。
 ――どう、おいしい?
 懐かしい声が、聞こえる。
 生まれ育った家。下がり眉の、母の笑顔。おかわりをねだる下のきょうだいたち。誰よりも料理を絶賛する、おおらかな父。
 忘れていた、家族との大切な思い出。
 きっと、頬を生暖かいものが伝ったのは、やけどの痛みのせいだ。
 もうひと口、またひと口。だんだんと、熱さは旨味に変わっていく。ぽかぽかと、身体中が温まる。
「ふふ、泣くほどおいしかった?」
「っな、泣いてない……」
「強がりさんだなぁ」
 少女は楽しそうに笑って、兵士が食べる様子を見ていた。自分は食べていないのに、満足そうな顔をして。
 あっという間に食べおわり、兵士はお礼に食器を洗った。ようやく動けるようになった身体だ。命を助けて、看病してくれたお礼を、きちんとすべき時だ。
 兵士は考えたが、少女にとって何がいちばん嬉しいかは、本人に聞くのがいいだろうと思った。さっそく尋ねると、返ってきたのは意外な言葉。
「これを君に預かってほしいんだ」
 手渡されたのは、さっきの小瓶だった。
「これ……結局、何?」
「だから、愛だってば。君もさっき感じたでしょう? 料理にこめられた愛」
 愛。少女の言葉に、心の奥がじんわりと温もりを帯びる気がする。
「今度は、君の番」
 少女は靴音をコツン、と鳴らして、ローブを翻す。
「私が君にしたようにさ。今度は、君が誰かにその愛を注いであげてよ。それが、私にとっていちばん嬉しいこと」
 振り返った彼女は、やっぱり悪戯っぽく笑っていた。
 よくわからない。兵士はそう思った。
 わからないけれど、それが少女の答えなら、自分は誠実に全うするべきなのだ。
 兵士は小瓶を大事にしまって、必ず恩を返すことを誓った。
 それから数日後。傷の癒えた兵士は、少女に何度もお礼を伝えて、森を去っていった。
 深く、深く、息を吸って、吐いて。

 少女は苦しかった。
 何十年にいちどの大干ばつが村を襲い、少女はひとりぼっちになった。死んでいったものたちは皆、顔も名前も好きな食べものも全部知っていた。
 泣いて、泣いて、すっかり涙も枯れてしまって。少女は酷く後悔した。喉は焼けるように痛いのに、潤してくれる水はどこにもないからだ。
 割れた地面に身を伏せて、少女は目を閉じる。これは全部悪い夢で、目が覚めたら昔のように、祖母がおいしいご飯を作っていてくれるのではないか。
 そんな期待と、絶望を胸に、眠りに落ちて。
 目が覚めた時、少女はベッドに寝ていた。けれどそれは、使い古した自分のベッドではなくて、見慣れた自分の部屋でもなかった。
 そこにいたのは、祖母ではなくて。名も知らぬ青年だった。
 目が覚めたね。青年は涼やかな声でそう言って、何かを持って少女のそばへとやって来る。
 お腹が空いているかと問われ、少女は素直に頷く。すると膝上におぼんが乗せられ、お粥の入った器と匙を置かれた。
 青年はポケットから徐に小瓶を取り出し、ポン、と軽快な音を立てて蓋を開ける。中には、怪しげな透明の液体が入っていた。
「これをお粥にいれます。さて、なんでしょう?」
 青年は、どこか悪戯っぽく笑った。

12/13/2024, 2:02:55 PM