愛が溢れる家庭を築いていきたいです。
今日、寿退社した同僚が、皆への挨拶の場でそんなことを言っていた。
愛が溢れる家庭、というのは何だろう。
そもそも、愛ってどういうものなのか。
ふだん考えることもしなかった視点で、私の脳内はいっぱいになった。
そんなことを尋ねられるような友人もいないので、疑問を抱えたまま仕事を終わらせ、帰路に着く。
下校・退勤ラッシュで満員の電車。降りたホームから見える満天の星。星座や天体のことは詳しく知らないけれど、人混みに押しつぶされて疲弊しきった心が澄んでいく気がするので、晴れた夜空は好きだ。
途中のコンビニで、小パックの牛乳とわかめおにぎりを買いつつ、ちょっと足を休めて。
十分も歩けば、真っ暗な我が家に帰ってくる。
電気を付けて、ガスストーブを付けて、冷えきった部屋ごと心身を温める。
しばらく床に大の字で寝っ転がった後、おもむろに起き上がり、買ってきた夕食を口にする。冷めていようが、少なかろうが、疲労で縮んだ胃にはちょうどいい幸福感を味わえる。
ひとり用の古い冷蔵庫から、おととい買った缶チューハイと、おやつカルパスを取り出したところで、スマホがカバンの中からバイブレーションを鳴らし、アピールしてきた。
画面を開けば、幼なじみの名前。
もしもし、と聞き慣れた低い声がした。カルパスを齧りながら返せば、ちゃんと喋れと呆れ笑いが聞こえてくる。
ふたつ年下の幼なじみ。小学校、中学校と何だかんだ一緒に登校して、高校で離れてからも何だかんだ連絡を取り合って。腐れ縁みたいなものだが、貴重な縁だ。
他愛もない話を二、三ほど交わした後、ふと思い出して疑問をぶつける。
愛って何だと思う?
いきなり何だ、哲学かと茶化して笑う友人に、つられて苦笑いを零す。いかにも自分らしくない言葉だ。
何でもいいから、思ったことを言ってみろと催促すれば、友人はおそらく何かを食べながら逡巡する。
しばらく経って、缶チューハイをプシュッと開けたところで何かが鼓膜を震わせた。
安心、みたいな。
そう言った。恋愛っていうよりは、家族愛のようなイメージがあるのだと。
家族愛、という言葉を何とはなしに繰り返す。
俺らには縁のなかった話だな、なんて友人も言う。
自虐的な笑いは、空気になって消えていく。この雰囲気は、あんまり好きじゃない。
でも、友人の言うとおりなのかもしれない。施設育ちの人間に、家族愛は理解できないのだろうか。
少なくとも、私はよくわからない。
だから引っかかったのか、と妙に納得する。
愛が溢れる家庭を築きたい。その言葉に、共感も何も湧かないから疑問に思ったのか。
真っ赤な他人じゃなくて、見知った同僚の言葉だったから、いつも聞き流す謳い文句が髪を引っ張ったのか。
そんなことをぐるぐると考えていると、液晶板の向こうから、さっきも聞いた泡の弾ける音がした。
飲むのかと聞けば、否応なしに乾杯と返されたので、無視してカルパスを齧ってやった。
友人は酒に弱い。すぐ皮膚が赤くなるし、寝落ちてしまうことも多い。介抱を任された日から、一緒に居酒屋に行くのはきっぱり辞めた。面倒だから。
酒に弱いくせに、彼は酒が好きだ。
仕方がない、寝たら起こしてやろうと思いつつ、自分も缶チューハイをひと口喉に流す。
風が時おり、窓の冊子を鳴かせて。
馬鹿みたいな無駄話を延々と交わしながら、ふたりして電話越しに飲む夜。
育った場所も、辿った道もあまり変わらない彼とは、まあ家族みたいなものなのかもしれない。
だからこそ、こうしてまったく気を遣わずに過ごすことができるのだ。
時計が日付を変える頃、鼻が詰まったような寝いびきが聞こえてきたので、スマホを叩いて起こす。
風邪をひくから布団に入れと叱れば、母親みたいだなと呂律の回らない舌で弄られた。畜生、誰が母親だこの野郎。願い下げだわ、お前みたいな体たらく。
軽口を叩きあって、完全に寝落ちた音を確認して電話をぷつりと切れば、途端に静寂が不安を煽った。
「あ、そっか」
呟く。私だけの声は、星空に吸いこまれる。
愛とは、安心のことなら。
この時間もまた、愛と呼べるのかもしれない。
なんて、きっと私は今酔っているのだろう。
同僚の退社祝いを早く買わなきゃな、なんてことを考えながら、私は冷えきった布団に身を埋め、アラームをかけるのも忘れて目を閉じた。