「人生にはいくつかの岐路がある」
「⋯⋯⋯⋯なんの話? 急に」
意味ありげに、なんだか深いようなことを言った彼に対してボクはそう返した。
「⋯⋯⋯⋯分かれ道がこれまでに沢山あっただろう? きみにとって一番大きな分岐点だったのはなんだい?」
到底ここに来るまでに分かれ道なんてない。ということは彼が言っているのは『人生の分岐点』の話だ。
ところでボクにとって一番大きかった分岐点は『この世界に来たこと』で間違いないのだけど、ボクはそんなことを到底口に出せない。
なぜならボクは、この世界を統治してる存在、いわゆるトップだと思われており、そんな人間が『この世界に来る』なんて事実はありえないものになる。そうしたらボクが下っ端だとバレて、ボクが演奏者くんに対して強気に出れなくなる。それはとても不都合なのだ。
ボクは考えた末に言った。
「⋯⋯君と会ったことかも」
「僕と」
「うん。君と会わなかったらボクは淡々と迷い子を気持ちなんて考えずに住人にしてただろうし」
「おや、それは怖いね」
彼は笑った。言葉と表情が乖離しすぎてる。
「⋯⋯⋯⋯演奏者くんは?」
逆に問いかけてみると、彼はすぐに答えた。
「この世界に来たこと」
こいつとボクが同じ答えなのがムカつく感じである。なんて同じなんだ。
「⋯⋯⋯⋯なんで?」
「僕はこの世界に来ずに元いた場所へ帰ってればそこそこの地位には付けたからね。それを全て捨ててこの生活を取ったんだから大きな分岐点だったと言えるだろう」
この世界に来なくても君は幸せなんだね。
そう思ったけど、口には出さずに心の奥底へとしまい込む。
ボクは違った。ここが救いだった。ここしか救いじゃなかった。元の世界で生きていたらきっともうとっくに死んでいる。だから幸せの道を歩むことを選択できたことが大きな分岐点だった。
でも彼は違う。
ここにいなくても、また別の幸せがあったのだ。
同じところが分岐点なのに、えらく選択理由が違う、なんてボクは心の中で嘲笑った。
「終わるよ」
彼女は言った。
なんのこと、などと声をあげる前に彼女は続けて言った。
「世界、終わるよ」
そのまま前方を指さしたから指の方向を辿っていくと、まるでデジタル世界が消えるように、遠くの景色が無数の四角となって消えていく様子が見えた。
「⋯⋯⋯⋯終わるのかい」
「うん、終わるよ」
彼女は淡々と言った。まるでいつもあるルーティンの話をしてるかのように。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯なんでだか分かってるのかい?」
「ん〜ん。でも終わる。多分、管轄できなくなったとかそんな感じでしょ」
彼女にとって唯一の場所なはずなのに、ここが消えたら行く末がなくなることは分かってるのに、もしかしたら僕らも景色と同じように分解されて消えるかもしれないのに、彼女は世間話のように言った。
「あと、どのくらいで」
「もう、そんなにもたないと思う」
目の前の景色はどんどん分解されながらこちらに迫ってきていて、それはとても恐ろしい光景のはずなのに何故だかとても綺麗だった。
「⋯⋯⋯⋯綺麗、だな」
「そーだね」
「⋯⋯⋯⋯きみは、怖くないのかい」
「全然」
なんで、とは聞けなかった。聞いちゃいけない気がしたし、嘘のようにも聞こえたから。
「演奏者くんは?」
「⋯⋯⋯⋯僕はきっと死ねないから」
堕天使なのだ、僕は。きっと天界に戻るなり、他の異世界に行くなりしなくてはならないだけで、死にはしない。
「そっか。じゃあボクだけか」
「⋯⋯⋯⋯きみは、悪魔とかじゃ」
「ないよ。ただの人間」
きみはそう言った。
パラパラと少しばかりしか遠くない木々が分解されていく。きっと後数秒で僕らもあの餌食になる。
「⋯⋯⋯⋯好きだよ、きみのこと」
飲み込れる寸前、そう呟いた。
本当は自分のものにしたかったけど、そんなことはもうできなさそうだから。
返答はなかった。
当たりを見回せば、僕が立ってる大地を除いて全ての場所がなくなっていた。
目が覚めた。いつもの通り、僕の部屋で。
布団を剥がし、ベッドから降りて、扉を開いて外に飛び出したら、ピアノの近くのベンチで彼女が座っていた。
「あ、演奏者くんじゃ〜ん。今日、ちょっと起きるの遅くない? 怠惰だな〜」
夢だったらしい。夢だった、のだ。
そう実感すると安心して、僕は思わず彼女を抱きしめた。
「!? ど、どうしたの!?」
「⋯⋯⋯⋯生きていてくれよ。ずっと」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯な、なんの話? とりあえず離れてくんない!?」
怪訝そうにきみは言ったけど、僕はもう少しの間、きみを離せそうになかった。
ああ、最悪の日だ、なんて思ってしまった。
迷い子が迷いこんできたのが分かったボクは、いつもの通りこの世界の勧誘をするために接触をしようとした。
だいたい現実世界で十五、六くらいの男子。彼はここが異世界だと分かった瞬間に『すきる』だとか『ちーと』だとか、ボクにはちょっとよく分からない単語を言い出した。分からない、そんなものはない、なんてボクが言っても聞かない。「異世界なんだから絶対あるはずだ」なんて言って一歩も譲ろうとしなかった。
そんな問答をしているうちに演奏者くんもやって来て、二人でどうにかなだめてこの世界に留まるか、それとも帰るかみたいな話をしようとしたら迷い子くんは言ったのだ。
「つっかえねー異世界! まぁこんな冴えないお前らがいるなら当然か!」
それで、ボクは思ってしまった。手に負えないな、って。
そう思ったのは演奏者くんもおなじだったようで呆れたような顔で迷い子くんを見たのだ。
「本当に本当に、心の底からそう思ってるのかい?」
「そーだよ! だいたい女の方なんて『ボク』とか言ってて気持ち悪いじゃねぇか」
迷い子くんに向かって拳が振り下ろされた。演奏者くんはニコニコ笑顔で笑っていた。まるで、何もしてないかのように。
「ってぇ⋯⋯。なんだよ!」
「いいや、別に。ただ、頭も回ってないようなお前に権力者のことをバカにされるのは少々気に食わなくてね。最悪だって気持ちが手に出てしまったかもしれない」
当たり前のことのように演奏者くんは言うと、迷い子くんを軽々しく持ち上げた。
「え、演奏者くん」
「⋯⋯⋯⋯今回は不問ってことにしてくれるかい?」
ボクの返事を待たずに彼は行ってしまった。
何にも分からなかったけど、そこから二度と迷い子くんの姿を見ることはなかった。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯現実に返すためのピアノの演奏も聴こえなかったけれど。
「秘密ってある?」
演奏を終え、彼女から拍手を貰ったあとに、突然言われた。
「⋯⋯秘密?」
「うん。誰かに言ったことない、何なら誰にも言えない秘密」
「⋯⋯言ったことないものはないけど、言えないものは無いよ」
「ないの?」
意外、なんて言いそうなトーンで彼女が問うてきたが、もちろんない。
誰にも『言えない』なんて、そんな罪深いことをしたような覚えはないのだ。
「逆にその反応だときみはあるのかい?」
「うん、あるよ。誰にも言えない秘密」
⋯⋯あるのか。でも、誰にも言えないんだから、それを確認する術はない。どんなものか、なんていうことさえも聞けない。なんだか見えないものを見せると言われたような、その秘密自体がシュレディンガーの猫のようなものに見えてきた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯そうかい」
追求はできないことをよく分かった僕はそう流した。彼女は笑った。
「興味ないのかって感じの返事だけど、さては諦めたな?」
「そうだよ。誰にも言えない秘密、それは僕にも知る権利がないからね」
「まぁそーだね」
そうなら話を広げるな、などと言うつもりはないけれど。文句の代わりに僕は疑問を口にした。
「⋯⋯⋯⋯急に話題にしたのはどうしてだい」
「なんかね、そういうことを急に考えついたから」
「それは、僕の演奏を聴いてて?」
「うん、そう」
そんなことを思いつくようなほど、秘密があるように聴こえる曲だっただろうか。わりと明るめのテンポと音で楽しげに聴こえるような曲にしたつもりだったのに。
「なんかね、ボクにはたくさん持ってる秘密を誰にも明かさないように頑張って隠して取り繕ってるように聴こえちゃったんだ」
「なるほど」
「だから、作った演奏者くんが何か誰にも言えない秘密、持ってるのかなって」
「⋯⋯ないよ。本当にね」
確かにない。『誰にも言えない秘密』は。
ただ『権力者には言いたくない秘密』ならある。
僕はきみのことが好きだとか、どんな手を使っても自分のものにしたいと考えているとか。そんなことを口に出したらきっときみを警戒させてしまうから。
だからきみには言えない秘密を悟られないようにしてるのがバレてしまったのかも、しれないね。
権力者用に用意されてる部屋ってのがある。
めちゃくちゃ狭い。
ベッドがあって、机と椅子があって。それで終わり。
お腹も減らない、のども乾かない。寝る時間だって必要はない。必要ないんだけど寝たいから寝てる。そういうのだっていっぱいいる。
とにかく権力者用の部屋というのはとにかく狭い。家具が少ないんじゃなくてとにかく置けない。
本棚とか置きたかったけど全然置くとこがなかった。そのレベル。
そんなわけで部屋で出来ることが全然ない。寝るか報告書を書くかの二択。
でも、ボクは結構な頻度で机に座って真正面にある窓に目を向ける。めちゃくちゃ明るい陽の光がさんさんと差し込んでくるけどボクは演奏者くんのことを考えて微妙に憂鬱になってる時しかそんなことをしない。
彼のことが好きという気持ちがある。それは一目惚れから始まって、彼のことをどんどん知ってくうちに更に好きになった。
でも同時にボクは彼のことを全く読めてない。何を考えてるのかも、なんでここにいるのかも、ボクといる時にどんな気分なのかも。だからそれが少し怖い。
ボクと話して彼はどう感じたのかを表情とかから予想して、ボクへの好意がないことを再確認する。それによってボクの恋心を無理やり消そうとする。
それが、いつものルーティンだった。