毎日のことを記したくて日記を書こうと思った。
だけど今日、という日を表す術がなかった。
下界には『日付』という概念があって、一から十二までの『月』と一から三十そこらまでの『日』、七種類の曜日が存在する。さらに『年』という概念もあって、それらで『今日』という日を断定するらしい。
だけれども、この世界にも天界にも『日付』という概念はない。そもそも永久に続き、永久に不変な日常を生み出す世界に必要ないと言われればそれまでだけど。
それでも日記が書きたかったから仕方なく、今日を適当に思いついた数字で『四月二十三日』とした。
そうして日記を書き始める。
今日はどんなことがあったとか、今日はどんな風に思ったかとかを事細かく。
彼女に会えなかった。
会えない、ということが今までになかったわけではないけれど、彼女のことが好きだと気づいてから会えなかったことは今日が初めてだった。
心にぽっかり穴が空いたようだった。
あまり刺激、というものが少ない場所であるこの世界はいつもわりと退屈ではあったが、今日はその退屈さがとても大きな物に感じられた。
眠気を感じるまでに、ルーティンを終えるまでに、とても長い時間がかかったような気がした。
朝も昼も夜もないだから、時間だけは存在させた。時計を持ち込んでその時間で眠りにつく時間や起きる時間を決めた。
その時間がとてつもなく長く感じられた。
彼女がいることが当たり前だと思っている、そんな自分に少し驚いてしまった。
「どっちに飴が入ってるでしょーか」
ボクは彼に声をかけて、両の拳を見せた。
理由はもちろん、暇つぶしである。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯右?」
彼は少しだけ考えてそう言った。
言われたように右を開けばしこんだ飴が入っている。
「簡単に当てられちゃった〜、つまんないの」
そう言うと演奏者くんは少しだけ微笑んで言った。
「勘だよ、勘。冴えてて良かったってだけ」
「まぁ、そうだね」
ボクはそう言ってからその場を去る。
十分に見えない所まで行ってから左を開けばチョコが入っている。
彼が間違った方を言っても渡すものがあるように、なんて、我ながら少しだけ気持ち悪いかもしれないけども。
彼女は僕のことが好きじゃないかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
敵対している、というものはもちろんのことで、それを要因として冷たい態度を取られるのも当たり前のことで。
でもなぜだか最近本当に本心からそう思ってるんじゃないかと危惧する事態が増えてきた。
僕の演奏は好きだけど、僕自身のことが嫌いだ、なんて言われたことがある。その時は僕が敵だからある程度敵対心を出すために言っているのか、などと可愛らしく思っていたけど。
今よくよく考えてみれば全く違いそうで。
そもそも僕の演奏というものは、迷い子を元の世界に返せる能力を持っている。つまり、その演奏が好き、というのは『迷い子を元の世界に返せる能力』を容認している羽目になる。それは彼女の立場上全くもっておかしい。
つまり、彼女がわざわざそれを口に出したということはそれは紛れもない本心ということになる。
ということは『僕自身のことが嫌い』というのは本心なわけで。
と、そこまで考えた時、手の甲に雫が落ちた。
視界が滲み出す。
この世界に雨は降らない。僕は汗をかくほど疲れてないから、この雫の発生源は一つしかなくて。
あるかどうかも分からない妄想みたいなものでこんなにも心が動かされるなんて思ってなかった僕は少し動揺した。
普通の人間だった頃は欲しいものがいっぱいあった。
富、声明、権力。ありとあらゆるものが欲しかった。そして、何も手に入らなかった。
結局のところ、ボクは『ボク』という一人称を使っているという理由だけで周りから異端だと思われて、女の子なのに男の子になりたいのか、なんて言われて、『ボク』という人間自身を蔑まれた。
この世界に来た最初の頃は欲しい物は信頼の一つだった。
とにかく二度と蔑まれたくなくて、富とか永遠の命とか欲しかったそういうものが全てどうでもよくなった世界だったから、権力者の集団に気に入られようとした。
今はどうだろう。
何が欲しいんだろう。
ボクは、今。
⋯⋯⋯⋯欲しい物、ではなく望みならある。
彼に振り向いてほしいし、彼と対等な者になりたい。
洗脳しないでみんなが幸せに望んでこの世界に住めるようにしたい。
でも、欲しい『物』と聞かれるなら。
欲しい物なんて、ない。
何も、いらない。
基本的に僕らに未来はない。
この世界は永久に同じような時が流れ続ける。だからそこに希望とか絶望とかそういったものが僕ら自身に生まれることは無い。
もちろん、この世界に来る迷い子たちや、下界に住んでる普通の人間たちには『死』という概念があって、そういう面で言うなれば未来に何があるか知りたいという感情を持つのはごく一般的な感情だろう、と以前の僕は踏んでいた。なぜなら天使だったからだ。
天使というものは基本的に寿命とかそういう概念は存在せず、あるのは永遠。つまり、未来に何が起こるだなんてあまり気にしたところで、そこまで必ず生きられるのだ。
この世界もそんな感じで時間とかの流れとは隔絶されているもんだと思ってた。
でもよく見ると違う。
未来はあっても過去がないらしい。
覚えてない、というよりなんらかによって消されたような。そう、まるで迷い子たちのように。
もしかしたらいつか、彼女は消えてしまうかもしれない。権力者ではなく、住人として戻ってしまって新しい人が『権力者』として来てしまうのかもしれない。
そしたら、そしたら、僕と彼女の未来はどうなるんだろうか。
僕は彼女に想いを伝えられずに終わってしまうのかもしれない。
だったら、未来を変えられるように努力しながらも、少しだけそうなるかどうかの未来を覗いてみたい、なんて思ったりした。