「天国なんてあると思うか」
「……え?」
珍しくキミが問いかけてくる。一瞬、私たちの間には沈黙が満ちる。
「うーーん、あっては欲しいと思うよ。あるかどうかは、なんとも言えないね」
要領を得ない私の答えにキミはそうか、と呟いたっきり黙ってしまった。
「珍しいね、キミが私に質問するなんて。さかもそんな、答えがないようなこと」
「子どもたちが、」
「?」
「子どもたちは天国に行けると思うか?」
「……ああ」
今朝から大々的にニュースで取り上げられている話だ。遠足で子供達が乗っていたバスが事故を起こしたという。
「せめて行って欲しいよね、天国。賽の河原なんかじゃなくて」
「……ああ」
キミは優しすぎる。面識なんてないのに、死んでしまった子どもたちのことを深く思ってしまう。考えすぎてしまう。
本当に優しい人。私はキミのことを抱きしめた。いつもなら嫌がるキミは、今日は静かに私の胸のなかに顔を埋めた。
雨粒が窓の淵をつたう。そのまま重力に逆らわず滴となって地面に落ちた。
「雨、やまないねえ……」
「そうだな」
急に降り出した雨に私たちは慌てて軒先へ駆け込んだ。
私を最寄駅へ送るだけだったためか、普段なら用意周到なキミも傘を持っていないようだった。
さっきまであんなに晴れていたのに、と思いながら濡れた服を少しでも乾かそうとハンカチを取り出す。
「あ」
「?」
濡れた服を不快そうに拭きながらキミは私の方を向く。
「ごめん、このハンカチってキミのだよね?」
そう言いながら鞄に入っていたハンカチを取り出す。以前、私がびしょ濡れで教室にきたとき貸してくれたものだ。返そうと思いながらタイミングを逃していたものだった。今日、キミの家へ遊びに行くからと忘れないように鞄に入れておいたのだ。
「あー……確かに僕のだ」
「ずっと渡せなくてごめん。変なタイミングだけれど返すよ」
ハンカチを差し出した私に、キミは少し考える素振りを見せた。
「いや、今日はいいよ。また後で返してくれ」
「?なんで」
「君、それしかハンカチ持ってないだろう」
指摘されて鞄を覗けば確かにハンカチはこの一枚しかない。ときたま、キミには全てを見通されてると思ってしまうことがある。
うん、と頷けばキミは、そうだろうと返す。
「今日もそれ使っていいから」
「……うん」
ごめんね、と言いながらハンカチで体を拭く。降り出してからすぐに軒下へ入ったおかげでそんなには濡れていない。
「ねえ、このハンカチ貰ってもいいかな?」
「は?」
きょとんとした顔でキミがこちらを向いた。
「だって二回もこれ使っちゃったし、今更キミに返すのもなんか悪いなあって」
「気にするなよ。僕はどうとも思わないよ」
「その代わり、今度新しいハンカチを買いに行こうよ。お礼に買わせて。ついでに最近できたケーキ屋さんにも寄ろう」
その提案は思いもよらなかったのだろう、キミは少し驚いたらしく、ぱちくりと瞬きをする。
「……来週末でいいか」
もちろん!私は笑顔で答えた。
雨はもう小降りになっていた。
日付が変わった真っ暗な道をキミと二人で歩いている。まちまちに立っている街灯の灯りだけが世界をぼんやりと照らしていて、その灯りだけを頼りにして自宅へと向かっている。
「映画びっくりするくらいつまんなかったねー……」
「言うなよ。余計気分が最悪になる」
「つまらなかった映画はその日に消化しちゃうのが一番だよ」
キミの返答はない。どうせいつもの呆れた顔をしているのだろうけれど、暗闇に包まれて見えない。
わざわざレイトショーで観た映画はびっくりするくらいつまらなかった。脚本はめちゃくちゃだし、役者の演技も私の方が上手いんじゃないかというくらい下手くそだった。良いところを探して褒める方が難しい。
そのうえ終幕の時間が最終電車より遅かったせいで、比較的近かった私の家へ徒歩で向かうことになった。
「気になってたのになあ、つまんなかったなあ」
独り言のように私は呟く。つまらなかったという感情が口から溢れ出してくる。
「ねえ、帰ったらもっかい映画みよう。キミが好きなやつ。DVD置きっ放しになってるから」
「あと一時間くらいかかるんだぞ。着いたらすぐ寝ないと」
明日一限からだろ、とキミから指摘が入る。
「まーあ……そうだけど寝なければ行けそうじゃない?」
「そうやって言って徹夜をして君が授業中居眠りしなかったことはあったか?」
「……ないです」
ぐうの音も出ない。
十分ほどそのまま沈黙が続いた。
「……あ」
「どうした?」
「あれ見て。夜桜」
そう言って指で差した方向にはライトアップされた桜の木があった。
「住宅街のど真ん中にあるなんて、珍しいな」
「ね、こんな時間までライトアップされてるのも不思議だね」
ふらふらっと桜の方へ行こうとする私を、キミが腕を掴んで止める。
「おい。どこ行く気だ?さっさと家へ帰るぞ」
「えー?いいじゃん。五分も掛からないんだし」
キミの手を振り解いて私は小走りで桜へ向かう。それをキミは追いかける。
「……わあ」
桜へ近寄ると、その幻想さに言葉を失う。
夜の暗さだけでなく、周りの家の灯りさえない時間だ。ライトアップされた桜の木だけが、この世界に存在しているように見えて。まるで物語のなかにいるみたいだ。
「……っ!おい!」
ほんの数秒だけ、そんなことを考えているとキミが私の肩を掴んだ。
「一人で行ったら危ないだろ!」
「え?ああ、ごめん」
時間を考えろ、と怒るキミを見て、そういえばそういう時間帯だったことを思い出した。
「まったく……少しは危機感を持て」
「……ねえ」
「なんだよ」
「こんな素敵な景色見れたのってキミのおかげだね」
ありがとね、とお礼を言ったときにはキミはもう元の道に戻ろうとして私に背中を向けていた。聞こえてなかったのか、聞こえていないふりをしているのか返事はなかった。
もしも叶うなら、キミがいないと見れない景色をもっと見たい。いる訳もない神様に、そんなお願いをしてみてもいいなと思った。
「卒業旅行で行くならさあ、海外がよくない?」
私の言葉にキミは読んでいた本から顔を上げた。
「僕らはまだそんな時期じゃないだろ」
さっさと課題を進めろ、とキミは怪訝な顔をした。
「でもさあ、計画するのってら楽しいじゃん。ねえ、キミはどこに行きたい?」
「そんなこと言われてもなあ……」
うーん、とキミは顎に手を置いて考える。
「僕はあんまり旅行に行かないから。君の好きなところでいいよ」
(あ、一緒に行って着いてきてくれるんだ)
そこを否定しなかったことに胸が少し高鳴る。
けれども、声に出したらキミはすぐ否定しそうだから、心の中でだけ呟いた。
「私の、好きなところ?」
「ああ、ある程度行きたいところあるだろ。西欧とか東南アジアとか」
「うーーん……私も、ないかも」
は?とキミは目を見開く。
「それなら、なんで海外旅行に行きたいんだ」
「違う空を見てみたいから?」
こいつは何を言っているんだ、という顔のままキミは無言で私を見つめる。
「だってさ、違う国に行ったら青空がピンクかもしれないじゃん?」
「もしかして昨日寝てないのか……?」
「違う違う。ちゃんと8時間は寝てるよ」
本気でキミが心配し始めたのがおかしくって吹き出しそうになるのをおさえる。
「そうじゃなくって、外国の絵とかでピンクの空だったりするのあるでしょ」
「あれは作者がそう見えているだけか、空想の産物だろう。実際に青空は世界共通で青色だよ」
分かんないじゃんか、と私は食い気味に言った。
「地球の反対側まで行ったら実際にピンクの青空があるかも知れないよ。自分の目で実際に見なきゃ、空想がどうかなんて分からないもの」
「……君はたまに子供みたいなことを言うよな」
呆れた顔でため息をつくと、キミは読書に戻ろうとする。
「キミだって見てみたいでしょ。ピンク色の空とか、私たちの想像を超えたものとか。社会に出たらそんな時間もなくなっちゃうんだよ」
ねーえー、としつこく声をかける。
キミは最初こそ無視していたけれど、耐えきれなくなったのか、大袈裟に音を立てて本を閉じた。
「しつこいぞ!そんなものあるわけないだろ!」
「あるわけないなんて、自分の目で見ないと分からないでしょ!それともキミは子供たちの夢もあるわけないって否定するの!?」
「なっ……」
キミが黙らざるを得ないキラーワードを出してしまい、しまった、と心の中で呟く。
「……ごめんね」
「いや……僕もムキになりすぎた……」
ごめん、と謝るキミを見て申し訳なくなる。
「……でもさ、やっぱり、卒業するときは一緒にどこか遠くに行こう」
「まだ続けるのか?この話は終わりにしよう」
「だって、本当に見れたら……ううん見れなくてもいいの。私たちの知らない、私たちを知らない遠くへ行って、知らないものを見られたらそれでいい」
「……?」
「そしたらその後も頑張れる気がする」
卒業したら、キミも遠くに行ってしまうから。
「……僕は遠くに行かないよ」
慰めるような、何も考えていないような表情でキミは答えた。
はぁ、と大きなため息をつく。
「つまり君は思い出作りがしたいんだろ。どこにでも着いて行ってやるよ」
「本当!?」
「まあ、それまでに君のあり得ない空想を正さないとな。じゃないとどこに連れていかれるか分かったもんじゃない」
そう言ったキミは笑っていた。
正直どこへ行くか、何を見るかなんてどうでも良かった。ただ私はキミと遠くの空が見たいだけだから。
それで何かが変わるわけでもないことを分からない年齢でもない。それでも、何かが変わるって信じたかった。信じていたかった。
「……なんでそんなにびっしょりなんだ」
一限の教室へ着き、キミの隣の席に座るなり、鋭い指摘が入る。
「遅刻する!って思って家を出てさ、バスを待ってたら雨が降ってきまして……今日に限って折り畳み傘持ってなくて……」
えへへ、と笑う私にキミは呆れ顔だ。
「天気予報みてなかったのか?今日の午前中は大雨だってやってただろう」
「普段テレビみないんだよね。そういえばアプリでも確認しないかも」
「もう少し計画性を持て。それから濡れたままじゃ風邪ひくぞ」
ハンカチは?とキミが聞いてくる。慌てて家を出たせいで持ってくるのを忘れたことに気がつく。
そんな私の顔を見て、キミは自分のハンカチを差し出した。
「ほら、とりあえずこれ使え」
「いいの?」
「風邪をひかれて看病して、なんて言われたほうが嫌だからな」
ありがとう、とお礼をいって体を拭く。
「そういえば、道路に花いかだができてたよ」
「?あれって水辺に桜が溜まっていることを指すんじゃなかったか」
「本当はそうだけど、道路に川ができててさ。散った花びらがずーっと流れていってたの。もう花いかだっていうか桜の川みたいだったんだ」
「あー、なるほどな」
「晴れたらさ、きっと水が乾いたら桜の道になるよ。今日の帰り、晴れてたら歩いて一緒に帰ろうよ」
そう言うとキミは柔らかく笑って、晴れたらな、と一言だけ言った。
きっと晴れる、と私は思った。桜が舞い散るなかで春色の道を二人で歩くイメージが浮かんだところで始業のチャイムが鳴った。