ストック

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8/16/2023, 11:56:32 AM

敵国との戦争で、我が軍の敗北は決定的だった。
他の家臣たちは、逃げ出すか敵の軍門に降ってしまった。
豪奢な玉座の間に残るのは、国王たる私と近衛兵長だけだ。

「もう敗北は確定だ。お前まで死に急ぐことはないだろう。今ならまだ間に合うぞ」
私は半ば投げ遣りに言う。
しかし、彼は静かに剣を構えたまま、この場から離れようとはしない。

「私にとって、誇りなき生は、緩やかな死と同義です」
いつも寡黙な彼の言葉が、私の胸を打つ。

「お前に説教されるとは。だが、それもそうだな」
私は玉座から立ち上がると、剣の塚に手を掛ける。

「ならば、最期まで誇れる生を共に生きようではないか」
「御意」

やがて、扉が開かれ、敵兵たちが雪崩れ込んでくる。
最期まで抗おう。誇れる生を、彼と共に。

8/15/2023, 12:28:53 PM

「…夜の海って、もっとロマンチックなものだと思ってたんだけどなぁ」

最近カメラを新調した私は、早速写真を撮ろうと海のある街へ旅行に来た。
いわゆる「海なし県」に済んでいる私にとって、海はミステリアスで憧れの場所だった。

宿に荷物を預け、地元の食堂で取れたての魚を堪能する。初めて聞く名前の魚もたくさんあり、海の恵みをたらふく堪能した。

近くの浜辺に来たが、観光客が多くてなかなかいいスポットが見つからない。
しばらく悩んだ私は、せっかくなら夜に写真を撮りに行こうと決めた。
夜の海はどんな神秘的な光景を見せてくれるのだろうか。
私は定食屋でまた新鮮な魚に舌鼓を打ち、21時頃に同じ浜辺に出掛けた。

しかし、当たり前と言えばそうなのだが、夜の海は真っ暗だった。
浜辺と海の境界もわからない。

「はぁ……失敗したなぁ」
諦めきれずに、灯りを探して少し歩くことにする。

そういえば、柔らかい砂の感覚が気持ちいい。さわさわと鳴る音が耳をくすぐる。
夜になって人のいなくなった海の引いて寄せる波の音は、馴染みはないはずなのにどこか懐かしくて心が凪ぐ。
私はしばらく夜の浜辺の散歩を楽しんだ。

美しい景色は見られなかったけれど、美しい音に出会うことができた。
夜の海もいいものだな。

8/13/2023, 10:19:07 PM

勤めている職場では、心の健康は以前より重視されるようになった。
ただ、私は少し違和感を感じている。

『心の健康を維持するために、定期的に運動しましょう』
『心の健康を維持するために、何かあれば上司に相談しましょう』
『心の健康を維持するために、具合が悪そうな人がいたら声をかけてあげましょう』

確かに、精神疾患に関する本や精神疾患からの職場復帰に関する本にはそのように書かれている。
しかし、マニュアル化されてしまうと「何か違う」と思わずにはいられない。


運動は確かに効果的だが、元々運動習慣のない人(私もだが)にとって、これはなかなか大変だ。毎日30分のウォーキングより、カフェでのんびり本を読むことが私にとっては癒しの時間だ。

上司に相談したところで、上司は心理の専門家ではない。心無い言葉に却って傷ついたこともあれば、腫れ物に触るように扱われるのも居心地が悪い。

心の具合が優れなければ、私は一人で休憩を取る。「具合悪そうだけど大丈夫?」「相談に乗るよ」同僚が悪意なくかけてくれる声が、「常に元気でいなければならない」と私を追い詰める。


心は単純で画一的なものでないと、私は思う。型に嵌められるようなものではない。
まだまだ「心の健康」に関する理解は発展途上のように思う。

8/13/2023, 9:59:11 AM

「ねえ、何か曲を聴かせてよ」
僕は彼女の奏でるピアノが大好きだ。
しなやかに動く指が鍵盤を弾く度に、僕をいろいろな世界へと誘ってくれる。

「そうだなぁ…」
彼女はしばらく思案していたが、鞄の中から真新しい楽譜を取り出す。
几帳面な彼女は楽譜をいつもきれいに製本している。しかし、その楽譜はまっさらなままだ。
つい最近購入したものなのだろうか。
「久しぶりに弾くから、上手く弾けなかったらごめんね」
そう言って、彼女は曲を奏で始めた。

柔らかく優しいが、どこか悲しい曲が紡ぎ出される。
美しくも悲しげな旋律で始まり、中盤は激しく、そして終盤はまた静かに美しい旋律が流れる。
最初の方の旋律は、どこか聞き覚えがある。

弾き終わると、彼女は静かに息をついた。
「とても素敵な曲だね。何て曲なの?」
「ショパンの『練習曲作品10第3番ホ長調』」
「…通称は?」
「『別れの曲』」
ああ、そうだった。ドラマかなにかで使われてたのを聴いたことがある。

「1年ぶりだったけど、上手く弾けてよかった」
「1年ぶり?」
「うん。…私が去年まで一緒に暮らしてた『よもぎ』、覚えてる?」
「…うん」
『よもぎ』は彼女の愛鳥だった。1年前に亡くなっている。その時の彼女は、ことあるごとによもぎのことを思い出して泣いていた。「犬や猫ならともかく、鳥でしょ?また買ってくればいいじゃない」と彼女に言った同級生に僕が掴みかかったこともある。
「今日はよもぎが亡くなって1周忌なんだ。それでまた楽譜を買ってきたの」
「また?」
「うん。ピアノに合わせて囀ずってくれることもあったから、お別れにこの曲を弾こうと思ったんだけど、途中で涙が止まらなくなって、楽譜をもって泣いてたら読めなくなっちゃって」
「…そうだったんだ」
「でも、今はこうして最後まで弾けるようになった。別れは必ずやってくるから、それを悲しんだ後は、一緒に過ごした思い出を大事にしようって思えるようになったんだ」
そう言う彼女の顔はどこか遠くを見ているようで、それでも晴れ晴れとしていた

8/12/2023, 7:31:06 AM

ようやく私の出番がやってきた!
君が私をクローゼットの奥から取り出す。
1年ぶりに見る君は、また背が高くなったようだった。
「元気にしてたかい?」
聞こえるはずはないのだが、1年ぶりに会えたのが嬉しくてつい声をかけてしまう。

さて、今年はどこに行くのかな?
川原でバーベキュー?森にセミを捕りに行く?それともあの一面のヒマワリ畑かな?

君はポケットからスマホを取り出すと、誰かにメッセージを送り始めた。
「スマホ、買ってもらえたんだね!」
君はしばらくソワソワとしていたが、通知音が鳴るとスマホに飛びつき食い入るように画面を見つめる。
そして「よっしゃー!!」と声を上げる。
おやおや、何かいいことがあったのかな?
そして私をひっ掴むと「行ってきまぁす!!」と駆け出していく。

途中、君は道端に咲いているヒルガオの花を摘んだ。
そして、私のリボンに花を差し込む。
「そんなに花好きだったっけ?」
去年は花より昆虫だったのに。どうしたんだろう。

やがてあのヒマワリ畑に着いた。今年も黄色い海は健在だ。
私は先客に気がついた。君と同じくらいの年の女の子だ。
君は私を彼女の頭に被せた。サイズが少し大きいが、彼女は嬉しそうだった。
「行こう!」
君は彼女と一緒にヒマワリ畑の中へ歩いていく。
ぎこちなく手を繋ぎながら。

ああ、本当に君はこの1年で大きくなったんだね。
この分だと、私の出番はいずれなくなってしまうかもしれないな。

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