ストック

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「ねえ、何か曲を聴かせてよ」
僕は彼女の奏でるピアノが大好きだ。
しなやかに動く指が鍵盤を弾く度に、僕をいろいろな世界へと誘ってくれる。

「そうだなぁ…」
彼女はしばらく思案していたが、鞄の中から真新しい楽譜を取り出す。
几帳面な彼女は楽譜をいつもきれいに製本している。しかし、その楽譜はまっさらなままだ。
つい最近購入したものなのだろうか。
「久しぶりに弾くから、上手く弾けなかったらごめんね」
そう言って、彼女は曲を奏で始めた。

柔らかく優しいが、どこか悲しい曲が紡ぎ出される。
美しくも悲しげな旋律で始まり、中盤は激しく、そして終盤はまた静かに美しい旋律が流れる。
最初の方の旋律は、どこか聞き覚えがある。

弾き終わると、彼女は静かに息をついた。
「とても素敵な曲だね。何て曲なの?」
「ショパンの『練習曲作品10第3番ホ長調』」
「…通称は?」
「『別れの曲』」
ああ、そうだった。ドラマかなにかで使われてたのを聴いたことがある。

「1年ぶりだったけど、上手く弾けてよかった」
「1年ぶり?」
「うん。…私が去年まで一緒に暮らしてた『よもぎ』、覚えてる?」
「…うん」
『よもぎ』は彼女の愛鳥だった。1年前に亡くなっている。その時の彼女は、ことあるごとによもぎのことを思い出して泣いていた。「犬や猫ならともかく、鳥でしょ?また買ってくればいいじゃない」と彼女に言った同級生に僕が掴みかかったこともある。
「今日はよもぎが亡くなって1周忌なんだ。それでまた楽譜を買ってきたの」
「また?」
「うん。ピアノに合わせて囀ずってくれることもあったから、お別れにこの曲を弾こうと思ったんだけど、途中で涙が止まらなくなって、楽譜をもって泣いてたら読めなくなっちゃって」
「…そうだったんだ」
「でも、今はこうして最後まで弾けるようになった。別れは必ずやってくるから、それを悲しんだ後は、一緒に過ごした思い出を大事にしようって思えるようになったんだ」
そう言う彼女の顔はどこか遠くを見ているようで、それでも晴れ晴れとしていた

8/13/2023, 9:59:11 AM