「シロクローシロクロー」
彼女は不思議な呼び方をしていた。
「なんだそれ」
「近所の神社に住み着いた猫。鬼可愛い」
ずいっと見せてきた猫は白と黒のハチワレだった。目元も黒くてパンダのようだ。
「パンダみたいな名前にすりゃよかったのに。マオマオとか」
「漫画キャラと被るからなあ」
シンプルが1番だよ、と言いながらシロクロと呼ぶ声をやめない。
にゃー、と言う声と共に写真と同じ顔をした猫が擦り寄ってきた。
「ねえ、飼えない?」
「は?」
「ママがアレルギーなの」
「なんでその状況で餌付けしたんだよ」
ひょい、と抱き上げると手にほおをすり寄せてくる。顎に手を当てるとゴロゴロ鳴き始めた。人懐っこいな。
「こんな子が野良で生きていけると思う!?」
「お前全部計算してたな……やけに雑な名付けだとおもった」
「シロクロはシンプルイズベストでしょ!?」
「本気だったのかよ怖ぇ……なんだこいつ……」
名前だがシロクロは直接的すぎたのでモノクロにした。
彼女はずっと文句を言っていたがモノクロがにゃーと返事したのでしぶしぶ了承していた。
白黒写真でも映えそうね、と笑うのは彼女で。
そうして今日、モノクロのおかげで彼女は俺の部屋にいる。にゃあ、と足元でおやつをねだられた。
【モノクロ】
陶器のようだと思った。
彼女の肌はいつまでも白くて、硬くて。
いつまでも触っていたらいい加減にしろと言わんばかりに肩を叩かれた。
どうして。どうして。
神に永遠を誓ったのに。柔らかく笑う彼女の目も口元も、固く閉ざされて2度と開かない。
このまま一緒に埋まりたかった。同じ棺に横になり一緒に土に還りたかった。生者が駄目だと言うのなら首をかき切っても脳漿をぶち撒けても構わなかった。
あぁ、でも、君が汚れてしまう。こんなにも白で染まった君に赤は似合わない。
少しずつ棺に土が被せられる。啜り泣く声が聞こえるが、僕は全く泣けなかった。
——お姫様と王子様は永遠に仲良く暮らしましたとさ。
おとぎ話の締めの一言。僕たちにそれは当てはまらなかったみたい。永遠なんてないと偉人の誰かも言っていた。
「 」
彼女の名前を口にしても、いつもとろけるような声で僕の名前を呼び返してくれたあの声が聞こえなかった。
何度呼んでも、何度叫んでも、聞こえなかった。
どうして、彼女のいる世界は永遠じゃないんだろう。
どうして、彼女のいない世界は永遠なんだろう。
【永遠なんて、ないけれど】
ぼろぼろと涙がこぼれる。
絶え間なく流れるそれは決して理性では止められなくて。医療の力でどうこうできるものでもなくて。
ああ、これを治す薬があれば、どんなに幸せだろうか。
「っひぇーくしゅん!!!!」
秋にも花粉は飛ぶんです。
「女のくせにでけぇくしゃみだな」
「うっさ、くしゅん!とめられるなら、ひっくしゅ!とめてる!っくしゅん!!」
「おーおーくしゃみの大名行列」
くしゃみを続けたせいで胸が痛い。生理的な涙も止まらない。ついでに鼻水だって垂れ流しだ。なんて汚い。
同僚の男は花粉症はないらしく、けろりとしているのがまた腹立たしい。
「くすり、くしゅん!きらせちゃ、ひっきしゅ!」
「タブレットみたいに飲んでるからだろ、ほれ」
差し出されたのは鼻炎薬。いつも使ってるメーカーのものだった。まさに天の恵み。
「耳鼻科いけよ。ひっどい顔してるぞ」
「さいきん、くしゅ!いそがしかったの!くしゅん!」
もぎ取るように薬を受け取ると、錠剤を水で飲み込む。こくり、と喉を鳴らして流れる水はくしゃみが続いた喉に酷く染み渡った。
「目も洗うか?」
「あらう……」
かれから洗眼薬を受け取ると、ふらふらとお手洗いに向かった。そういえば、どうしてやつは花粉症でもないのに鼻炎薬や洗眼薬を持っているんだろう。数秒考えたが、ひっくしゅ!と大きなくしゃみと共にそれは吹き飛び、ただただ、薬の存在に感謝することにした。
「あー……自覚ねぇんだろうな……」
赤くなった目、目尻にたまった涙、紅潮した頬、ハァハァと荒れた息遣い。
彼女は秋も花粉症で苦しむことを知っていたが、相変わらずの酷さだった。そして、妙に興奮した。
この感情は絶対知られたくないし、知らせたくないし、認めたくない。とんだ変態じゃないか。
それでも彼女の涙が綺麗で、ぐしゃぐしゃになった顔がまたそそられて、気持ちに蓋をするために鼻炎薬と洗眼薬をドラッグストアで買って会社の引き出しの奥に突っ込んでいた。
まさか今日役立つなんて。
薬をひったくり、必死に飲み込む喉をつい凝視してしまったのを気づかれなかったか。
洗眼薬を差し出した時、震えていた手に気づいていないだろうか。
第一、花粉症どころか鼻炎アレルギーの類を持っていない俺が鼻炎薬と洗眼薬を持っていることに疑問を持たないだろうか。
ぐるぐると回る思考を尻目に、彼女へ渡した薬が役に立ったことに喜びを感じる自分もいることは見ないことにした。
【涙の理由】
スランプだ。
一文字も文字が浮かばないなんて、死活問題もいいところだ。文章が書けない小説家なんて、ニャーと鳴かない猫、雪を見て庭を駆け回らない犬……駄目だ、本当に駄目だ。駄文しか出てこない。
注文したコーヒーを飲み干し、おかわりを頼む。ここのカフェは時間帯限定でお代わりが半額になる。加えて空いている時だけと限定されてはいるが小説仕事をしていいとも言われている。なんて優しいオーナーだ、見返りはサインとここのカフェを題材にした小説を書いて宣伝しろと言われているが、本気で俺の小説を広告塔にしようなんて思っていないくせに。
「カフェラテに替えておきましたよ、その調子じゃ糖分も必要でしょう」
オーナー自らがカップを持ってくる。コーヒーで粘っている逆にずいぶん甘いことだ。
「もちろんカフェラテ代は追加でいただきますよ」
「押し売りじゃないか」
オーナーのくすくすと笑う声に思わず口角が上がる。彼女の声が、口調が、追い詰めないギリギリで寄り添ってくれている気がした。
「カフェラテを飲んだらまたコーヒーを淹れますよ。そっちはサービスしましょう、少し休憩しませんか」
そう言って向かい側に座るとにこりと笑う。自分用にコーヒーまで入れてきたようだ。なぜ彼女は自分を気にかけてくれるのか。
「あなたには芥川賞を取ってもらってこの店を宣伝していただかないと」
「嘘くさい笑顔でそれっぽいことを言うな」
「まぁまぁ、私がコーヒーを飲む間くらい雑談しましょうよ」
冷める前には飲んでしまいますから、と彼女は続ける。口に含んだカフェラテは妙に甘くて、脳がじんわりと動き出したような感覚がした。
「では、私が体験した話をひとつ」
コーヒーの湯気は彼女の前でゆらゆらと揺れていた。
【コーヒーが冷めないうちに】
「おはよう、『うさぎ』さん」
「こんばんは、『みのむし』さん」
オンラインでのみ会える友達。うさぎさんはいつもそこにいた。自動翻訳機能を使っているから相手がどこの国かはわからない。向こうも同じ機能を使っているらしく、意味不明な言い回しにならないよう自然と子供のような言葉遣いを使っていたから年も性別もわからなかった。ただ、話している限り、そんなに離れすぎていたりはしていない気がする。使う挨拶が異なるので時差が相当ある国の人とだけわかった。
不思議と話が合うと長続きするもので、距離は相当離れているのにかなり身近に感じられた。
「おはよう、『うさぎ』さん」
ある日、友達がいなかった。いつもこの時間にいるのに。少し寂しく感じたが、オンライン友達なんてそんなものだと思い込むことにした。
何日も来なかった。寂しいという気持ちは膨れ上がるばかりで、時間薬などないんだと実感した。
「こんにちは、『みのむし』さん」
「……『うさぎ』さん?」
「会えてよかった。……まだオンラインだけど」
一緒の挨拶がしたかったんだ。
そうチャットで伝えるその人は、わざわざ国を飛び出してきたらしい。
「できれば、僕と話して欲しいな」
自動翻訳が外れた言葉はとても優しくて、私はつられて自動翻訳の機能をオフにした。
【時計の針が重なって】