掠れた音が口から溢れる。
いつまでも続くような風景は、物の見事に消え去ってしまった。
嘆こうにも口から溢れるのは音にならない呼吸音。誰の耳にも届かないそれは風の音にかき消されていった。
『僕と行こう』
かつて彼に言われた言葉を今更思い出す。ここに残ると言ったのは私自身だというのに。
彼の手を取れば幸せだったのか。故郷を捨てていれば幸せだったのか。
いくら考えても時間は巻き戻らないし、侵略者は故郷を蹂躙していった。土地も文化も女たちも。
自分もその1人だったので、早々に魂を身体から切り離すことにした。他の女たちもそうしたらしい。
彼に捧げた身体を守れたことだけが誇りに思えた。
彼の声がもう聞こえないのだけが、心残りだった。
【僕と一緒に】
「ダヴィンチの架け橋というものがある」
「ダヴィンチっていうとモナリザの人?」
彼は空を眺めながら言葉を続けた。
「紐や釘を使わず強度を保った橋のことだよ」
「……あの人画家じゃないの?」
「Wikipedia曰く、これだけの肩書きがある」
見せてきたスマホには数え切れない偉業が書いてあって、目が眩んだ。
「この人、もっと生きてたら乗れる虹とか作ってそう」
ぽつりとつぶやいた言葉に彼は目をまるくした。そんなに驚かなくてもいいのに。
「……君はいつもわけわからないね」
「なんで私は悪口を言われてるの?」
何事もなかったかのようにスマホに目を戻す彼の頭を手に持っていたノートで引っ叩いてやった。
【虹の架け橋🌈】
「あいつ……ッ!! 絶対通知欄で見てるはずだよなァ!!」
思わずスマホを振りかざし、金額の高さを思い出し無理やり腕を下ろす。代わりに近くにあったクッションを思いっきり蹴り飛ばした。
ことの発端は彼との連絡がつかなくなったことだ。圏外でもない、病気でもない、特殊な業務ということもない。ただ連絡がつかない。なぜ避けられているかはわからない。会おうとしてもなぜかこっちの動きを予測して避けられる。いい加減この宙ぶらりんな状況に嫌気がさしていた。
《別れる。もう知らん。そんなに1人がいいなら居酒屋飯でも行ってろ。》
そう入力したメッセージを送信し、家の片付けを始める。縁を切るなら徹底的に。引越し、部署異動希望提出、スマホの買い替え。やることは山のようにあるのだ。
せっせと準備してるとインターホンが鳴る。どうせ勧誘か何かだと無視していたが延々と鳴る。うるさい。
こういう時男手がいればいいのにな、と思いながらドアを開けると、先ほど縁を切ったはずの男が転がり込んできた。
「ごめんなさい!!ねえ!!俺の話を聞いて!!!」
「帰れ」
べそべそと泣く彼に即答すると、ぐしゃぐしゃの顔がさらに崩れた。普段こんな顔しないから面白いと思ってしまった。
曰く。あうあう泣きべそをかく彼の言葉を訳すなら、
ある日スマホをどこかに落とし、慌てて仮の電話を契約したところで会社から出張命令が出て、連絡しようにも会社の同僚や友人で私の連絡先を知っているものはおらず、慌てて出張に出たからバックアップの入った私用パソコンにも触れずに今に至る。
やっと帰ってきてどうしたもんかと自席につき、がらりと引き出しを開けたらどこかに落としたと思い込んでいた自身のスマホがあり、慌てて充電ケーブルに繋ぎ電源をつけたら私からの連絡の山、そして別れるの文字。
「それで慌ててうちまで来たと」
あうあう言いながら腰に抱きつき離さない彼は肯定するかのように腕を絞めてきた。少し痛い。
「浮気とか、してない。本当に急な出張だったんだ。出張記録も給与明細も確認していい。Suicaの履歴も見せる。信じて欲しい」
「いや、浮気だろうとなんだろうともう別れる気まんまんだったし……」
呟くように返事をすると、腰に回った手に力が入ったのがわかった。離す気はもうないらしい。
「……ごめんなさい」
絞り出すような声。普段は絶対言わないような言葉に思わずくらりとくるが、腰の手は絶対緩めない。
こりゃ根負けするしかないなと思いつつも、すぐにいうことを聞くのも癪だったので、大きなため息をついて彼の反応を楽しむことにした。
【既読がつかないメッセージ】
「もしも世界から終わるなら、どうする?」
彼女はきょとんとした顔をしたかと思うと、目をつむり顎に手を当てて考え始めた。
「うーん……タイム風呂敷で終わる原因の時限式爆弾装置の時間を巻き戻します」
「それさっきまで見てたアニメのオチじゃねーか」
古い映画だが、根強いファンがいる作品だ。彼女も多分に漏れずファンになった1人だ。
「あのタイム風呂敷はかけるだけで効力を発揮する、有能道具なんですよ。あとの作品だと包まないといけないんです」
「めちゃくちゃハマってんな。他作品にもがっつりハマってる」
ふふーん、と鼻高々の彼女が可愛くて、思わず頭を撫でる。大人しく撫でられてたかと思ったら、もっと撫でろと頭を押し付けてきた。
「あなたはどうしますか?」
「俺は……撫でてればいいかな」
するりと髪を手櫛でとき、もう片方の手は顎へ軽く触れる。首元に移動して脈を感じた後、後頭部を撫でた。
「うん、楽しい」
「………っ」
なぜか顔を真っ赤にした彼女は、いじわるとつぶやいた。
【もしも世界が終わるなら】
あ、と思ったのは一瞬だった。
次の瞬間、大きな音と共に彼女は地面と抱擁していた。
「いたたたたッ もっと優しく!!」
「十分優しいと思いますけど……」
救急箱の中にあったガーゼに消毒液を染み込ませ、そっと傷に触れる。しみるのか少し触れただけで彼女は大騒ぎだった。
「靴紐がほどけて足がもつれたんですね」
「たかが紐のせいでこんな痛い思いを……」
「骨折する人もいるからあまり甘く見ないほうがいいですよ」
ぺたり、と絆創膏を貼ると彼女の威勢の良さはしゅるしゅると萎んでいた。痛みが和らいで落ち着いたのかもしれない。
「100均のゴム靴紐おすすめですよ。履きやすくなるし解けないし」
「100均行くと知らないうちにカゴの中で増殖してレジでびっくりする値段になってるからなあ」
そんな馬鹿な、と言いそうになるのをくっと堪える。無意識にポイポイ商品をカゴに入れていく彼女を想像することがあまりにも容易だったからだ。
「よくわからない季節もののミニチュアとか買っちゃうタイプなんですね」
「……なんでわかったの」
自覚なしか。思ったことが彼女に伝わったのか、彼女は目線で意義ありと伝えてきた。
【靴紐】