かつん、とペン先が鳴る。
無意識にいらついていたのか、とふと我に帰る。ペン先がダメになってないか確認してから、大きくため息をついた。
まだ駄目だとわかっている。わかっていても、現行の状態が気に入らない。とどのつまり彼のいうことを聞くのが気に入らない。
自分に合理主義にはほど遠いようだ。お茶を口にするが冷めていて胃にどしんとオモリを乗せたようだった。
「早くしなさいよ、馬鹿」
待つのは性に合わない。本当は猪突猛進に突き進むほうが好みだ。
答えはまだ出ない。しかし、時計の針はその時を刻みながら近づいていることを教えていた。
【答えは、まだ】
「旅に行きたい」
「それを人は逃避っていうんだ、帰ってこい」
残業。
それは人類が生み出した悲劇のひとつ。
あってはならないのに生み出されたそれを、彼女と俺は粛々とこなしていた。
「もういやだぁああああ。美味しいもの食べて温泉入りたいぃいい」
「けっこう渋いチョイスするんだな。TDLとか言うのかと思った」
ほら、と言いながら缶コーヒーを差し出すと彼女はゆっくりと受け取る。ブラック。俺が買ったものと同じもの。
「カフェイン入れてがんばろう、もう一息だ」
「この修羅場乗り越えたら世界の車窓からみたいな旅をするんだ……」
「だからチョイスが渋いんだよ。いくつだお前」
彼女はカシュ、と音を立てて缶コーヒーを開け、ぐいと煽った。
「あーあ。イケメンに会いたい」
「ブフォッ」
唐突な彼女の言葉に思わずコーヒーをむせてしまった。
「どういうこと……?」
「旅行に行ったらイケメン見つけて心をときめかせない?」
「知らない楽しみ方だよ、本当にどういうこと……?」
疑問に疑問を返すのはマナー違反と思いつつも、そう返さざるおえないと思う。なんだイケメンって。
「世界の車窓からを見てる時もこんなイケメンいるんだろうなとか思わない?」
「お前テレ朝に謝ったほうがいいよ」
「センチメンタルだなあ」
「センチメンタルを一回ググってこい。ぜったい意味違うから」
彼女の旅事情を知って、これが知らないほうが幸せだったってやつかと考える。
残業だ、残業が悪い。きっと彼女も度重なる残業でアホになってるんだ。そうに違いない。
「ねえ、行くとしたら北と南どっちがいい?」
「え、俺も行くの?」
「彼女いるの?」
「いないけど」
じゃあ予約!とスマホを軽快にタップする彼女の笑顔はなぜだか俺の心をないまぜにした。
【センチメンタル・ジャーニー】
ふと顔を上げた時、目に入ってきたのは三日月だった。
そういえば、あんな形の武器が海外の国にあったっけ、と突拍子もないことを思う。
「まさかお前と月見酒とはなァ」
彼はニヤニヤ笑いながらお猪口を煽る。手酌しているので嫌味を言うのは辞めてやる。
「酌も愛想もない女を傍に置くなんていい趣味してるわ」
「お前がニコニコしてたら空から月が降ってくるさ」
彼がもうひとつのお猪口に酒を入れ、差し出してくる。断る理由もなかったので口をつけたら、ずいぶん辛口のものだった。思わず眉間に皺がよる。
「女に合わせた味じゃねぇからな」
「……口つける前に言いなさいよ」
彼好みの顔をしてしまったようで、上機嫌になった彼に少しイラついてしまう。なんだかんだ、彼の手のひらの上になるのが癪だった。ぐいと飲むと彼の前にお猪口をダンと音を立てて置く。
唇から少しこぼれた酒をぺろりと舐めとる。彼が一連の動きから目を離せなかったのは計算済みだ。
「月見酒なのに月を見なくていいの?」
その言葉にハッとしたのか、差し出したお猪口に酒を注いでくれた。
「敵わねぇや、お前には」
「あら、光栄ね」
満月によりも薄暗く照らす三日月。より夜の色が濃い中で、ほのかに光るそれは酒が混ざり合うのを見た。
【君と見上げる月…🌙】
ぱちり、と目が覚めた。
いつもの天井。いつものベッド。いつものカーテン。
いつもと異なるといえば、自分は何も身につけておらず、横で同じく何も纏ってない女性がくうくうと寝息を立てているところだ。
ゴミ箱にはアレの残骸。シーツには紅い跡。妙にベタついた自分の肌。
その時大声を出さずに、静かにゆっくりと女性から距離をとったことを、誰かに褒めて欲しかった。
まじまじと女性の顔を見る。同僚だ。カラッとしていて話しやすい、無口な自分とは正反対にいるような人。こっそりと想いを寄せていた人。
彼女とはそうだ、飲み会だ。飲み会の二次会を避けた時にいきつけの店を教えてもらったんだ。酒が美味くて、料理もそれなりなバー。ふたりで上司の愚痴を言って、酒を飲んで、その先の記憶がない。真っ白な絵の具に塗りつぶされたかのように空白だ。
最悪だ。彼女が覚えていたら忘れた自分は最低男だし、覚えていなかったら強姦魔と言われても否定できない。どっちに転んでも自分の立場は危うい。男とはそういう時立場が弱い。ただ、お互い忘れていれば説得次第で元の関係に戻れるのではないかと淡い期待をした。最低男扱いより100倍マシだ。
「んぅ……?」
彼女が起きた。昨日のことを覚えているのか、いないのか。
「……おはよう」
ふわり、という効果音が似合う声だった。そんな声、職場では聞いたことがない、甘いマシュマロを連想させるような声。間違いない、彼女は覚えている。終わった。
「あの……ッ」
「昨日はありがとう。私も大好きだよ」
土下座しようとベッド下に行こうとしたが、彼女の告白に思わず思考が停止した。今彼女はなんと言った?
私も?も?
「あんなに熱烈なことを言うなんて、普段と違うから……かっこよかった」
彼女は赤くなった頬をシーツで隠す。
何を言ったんだ。昨日の俺は彼女にナニをして何を言ったんだ。
「まさか、あんなことをするとは思わなかったけど……」
何をしたんだ。彼女に何をしたんだ。なんで彼女は耳まで真っ赤なんだ。あんなことってどんなことなんだ。
「ふふ、それに告白の言葉がアレなのはどうかなとは思ったけど」
アレってなんですか。彼女の口から信じられない言葉がポンポン出てくる。昨日の自分はどうやったのか彼女を口説き、落とし、既成事実まで手に入れたらしい。そんな馬鹿な。信じられない。そんな極楽楽園の時間を覚えていない自分が1番信じられない。
「ねえ、黙ってないでなにか言って?」
黙り込んでいたことに不安になったのか、彼女が語りかける。無口だと思っていた自分だが、昨日の自分はそれは饒舌に愛を語ったようだ。
「好きです。愛しています。結婚してください」
そんな記憶を持ち合わせていない自分が出せるのは無味無臭と言っていいほどのストレートな言葉。彼女はまた赤くして頷いてくれた。
そっと抱き寄せると手を背中に回してくれる。この瞬間、この空白期間のことは絶対彼女に悟られずに墓場まで持って行こうと心に決めた。
【空白】
喉が痛い。手足がだるい。全く動けない。熱い。
完全な風邪だった。あいにくひとりぐらしのため看病してくれる人はいない。
なんとか仕事からふらふらになって帰ってきてそのまま布団にダイブして寝落ちたようだ。
「あーきつい……」
ひとりぐらしは長くやっているつもりだ。それでもこういう時、ひとりきりが辛く苦しいものだとしみじみ実感する。
ふと1人の男の顔が浮かんだ。来るわけがない。
自嘲した瞬間、また眠気が襲ってきた。どうやら薬も水も飲めないようだ。
ひんやりとしたものが顔を冷やしている。あんなにベタベタした肌がさらりとしたものになっている。
「ん……?」
ふと目を開けると、男がソファでなにやら作業をしていた。カタカタ音がしているから、パソコンを使っているのかもしれない。
「……起きましたか」
彼は水の入ったペットボトルを差し出してくる。常温の水は体にずいぶん染み渡るように感じて、ごくごくと勢いよく飲んでしまった。拍子に服にぼたぼたとこぼれてしまったが、彼は一切慌てずタオルで拭いてくれた。
「こんなになるまで、無理しすぎですよ。なぜ知らせてくれなかったんですか」
じと、と恨みがましく見つめてくる目に思わず顔を逸らす。両手で逸らした顔を掴み見つめられると、顔を近づけてきたので思わず目を瞑った。
「……熱はだいぶ下がりましたね」
「へ?」
目を開けると、クックッと笑いを堪えるような声を出している。
「……キスするかと思いました?」
「……? ……ッ!!!」
彼の手のひらで転がされたこととか、合鍵を渡したことを思い出したこととか、すべてがなにか気恥ずかしくなって毛布を彼の顔面に叩きつけてやった。
【ひとりきり】