たぬたぬちゃがま

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「旅に行きたい」
「それを人は逃避っていうんだ、帰ってこい」

残業。
それは人類が生み出した悲劇のひとつ。
あってはならないのに生み出されたそれを、彼女と俺は粛々とこなしていた。
「もういやだぁああああ。美味しいもの食べて温泉入りたいぃいい」
「けっこう渋いチョイスするんだな。TDLとか言うのかと思った」
ほら、と言いながら缶コーヒーを差し出すと彼女はゆっくりと受け取る。ブラック。俺が買ったものと同じもの。
「カフェイン入れてがんばろう、もう一息だ」
「この修羅場乗り越えたら世界の車窓からみたいな旅をするんだ……」
「だからチョイスが渋いんだよ。いくつだお前」
彼女はカシュ、と音を立てて缶コーヒーを開け、ぐいと煽った。
「あーあ。イケメンに会いたい」
「ブフォッ」
唐突な彼女の言葉に思わずコーヒーをむせてしまった。
「どういうこと……?」
「旅行に行ったらイケメン見つけて心をときめかせない?」
「知らない楽しみ方だよ、本当にどういうこと……?」
疑問に疑問を返すのはマナー違反と思いつつも、そう返さざるおえないと思う。なんだイケメンって。
「世界の車窓からを見てる時もこんなイケメンいるんだろうなとか思わない?」
「お前テレ朝に謝ったほうがいいよ」
「センチメンタルだなあ」
「センチメンタルを一回ググってこい。ぜったい意味違うから」
彼女の旅事情を知って、これが知らないほうが幸せだったってやつかと考える。
残業だ、残業が悪い。きっと彼女も度重なる残業でアホになってるんだ。そうに違いない。
「ねえ、行くとしたら北と南どっちがいい?」
「え、俺も行くの?」
「彼女いるの?」
「いないけど」
じゃあ予約!とスマホを軽快にタップする彼女の笑顔はなぜだか俺の心をないまぜにした。



【センチメンタル・ジャーニー】

9/16/2025, 8:15:48 AM