大きな粒が頬を伝う。
手のひらを、服を、濡らしていく。
自分の涙腺はどうやら故障したらしい。ぼたぼたと流れて止まらない。袖で拭っても拭っても止まらなかった。
「……なんでお前が泣くんだよ」
呆れたような、悲しんでいるような口調だった。きっと彼は呆れたとか悲しいとか全く思ってないと考えているだろうけど。
どうしてなんて、私が聞きたい。
どうしてあなた、そんなに傷ついた顔をしてるのに平気だと思い込んでいるの?
「わからないよ」
くやしいとか、イライラするとか、寂しいとか、それらが全部当てはまりそうで、そうでない。だから、そうとしか答えられなかった。
「だから、そばで泣いてあげる」
隣に座らせて、肩に頭を乗せる。彼は少したじろいだけど、そのまま受け入れてくれた。
「……変な理屈」
「うっさい」
ぼたぼたと瞳から溢れる涙は彼の手も濡らしていく。流れる涙に比例して、彼の体の緊張が少しずつほどけていくのを感じていた。
【なぜ泣くの?と聞かれたから】
子供という生き物は、センサーを搭載している。
親という生き物の足音を察知するセンサーだ。
「ぱぱー!!」
扉を開けた途端、がばっと抱きついてくる。彼は父親が避けるだとか、手を滑らせるとか、全く想定せずに全力で抱きしめてくれることを確信しているため、全体重をかけている。
腰に響くが、顔に出さない。笑顔で、優しく、抱きしめて。
「ただいま。相変わらず気づくのが早いな」
ぷにぷにとほっぺを摘むと幸せそうな顔をする。
「パパの足音はね、すたすたなの。ママは、すっすっだよ」
「おー、よく聞き分けてるな。大事にしろよ、その耳」
もちもちのほっぺを揉んでいると、やめてーっと笑いながら訴えてくる。ケラケラと笑う声が愛おしい。
妻曰く息子の足音クイズは百発百中、ただし俺に限る、らしい。ぎゅっと裾を掴む彼の手は自分より遥かに小さくて、それでも絶大な信頼を持って掴んでくる。その気持ちがなんだかこそばゆくて、さらにほっぺを揉み込んでやった。
【足音】
「俺たちの夏は終わらない!」
「宿題が終わらないからアディショナルタイム!てか。やまかましいわ。」
蝉の鳴き声が喧しい中、俺たちは机で向かい合って宿題を片付けていた。
「あのさ、なんでこんなにやってないの?なんなの?」
彼女がイライラした表情で責めてくる。
「お前だってやってねぇじゃねえかよ。」
「私がやってるのは塾の課題ですぅ。学校のは片付けました!」
馬鹿にしたようにぴらぴらとプリントを見せてくる。しかし俺にとっては朗報だった。
「やったぜ見せろ。」
「嫌だよくたばれ!!」
即答されるが俺はめげない。なぜこいつがここにいるかというと、親がこいつに泣きついたからだ。俺が頼んでも首を縦に振らなかったくせに。
「おばさん、心配してたよ。自分の勉強くらいやりなよ。」
「じゃあ教えろ。」
「教わる態度じゃないんだよなあ……帰りたいなあ……。」
おそらく母親からもらっているであろう賄賂、ナントカっていうグッズと今の状況を天秤にかけている。母親が昔ハマっていたものに、遅ばれながらこいつもハマってくれたおかげで今の関係ができている。
「じゃあヒント!公式教えて。」
「それはこの公式を……。」
「で、これをどうやって使うの?」
「…………。」
帰りたいと顔にでかでかと書いてある彼女を尻目に、俺はこの状況がいつまでも続けと願っていた。
【終わらない夏】
「ねぇ、好きだよ。」
「うん。」
「大好きですよー。」
「はい。」
頭をグリグリと押し付け、彼へ愛の言葉を投げかける。彼はボソボソとした口調で返事を返すが、絶対に好きと返してくれない。
「ぎゅーしようって言って。」
「ぎゅー……しよう?」
「なんで疑問系なの!!」
どす、と勢いをつけて彼の広げた腕に飛び込む。ぐえっと声を出していたが気にしない。
なんか私ばっかり好きな気がして気に入らない。
「そんなんで私がどっか行ったらどうするの?」
「……だって君、僕のこと好きでしょ。」
「そういうとこ!!」
もう一度力を込めて頭突きする。本日2度目のぐえっという声を聞いたが気にしない。
しかし、こんな扱いをされても離れる気は起きないのが不思議だ。頭突きをしても怒らないからだろうか。
声を張り上げて宣言するくらいには、好きなのに。感嘆符がいくつあっても足りない。
よいしょ、と彼の膝に乗り背中を彼の胸に預けると、すっと手を回して引き寄せてきた。こういうところが好きなんだよなぁ。
なんだか腹が立ったので、ゴスゴスと後頭部で胸を攻撃してやった。
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彼女は今日も言葉をねだる。
ハキハキと自分のして欲しいことをいう彼女は、一緒にいてとても楽だ。これが多分、好きという感情なんだろう。
今日はどこか行ったらどうする?なんて試すようなことを言ってきたけど、そもそも彼女はそうなったら話し合いの余地も作らずさっさとここから立ち去っていただろう。つまり立ち去る気がないから出た言葉だ。
彼女をドロドロに甘やかして、離れられないようにして。でもエッセンスも必要なので少しつれなくして。
気付かれないように彼女の心に枷をつけて、勝手にどこかに行ってしまわないようにして。
言動の全てが愛らしくて、すべて囲って出られなくしたい。ぐらぐらと腹に湧く欲望を悟られないよう蓋をして。
彼女が自分から飛び立たないようにして。
声を張り上げて叫ぶだけが愛じゃないんだよ。
感嘆符がいくつあっても表現しきれないから。
自分なりの愛をわかって欲しいけど、悟られたくない。そう思いながら、口を尖らせて不満げにする彼女の頭頂部に、そっと口付けを落とした。
【!じゃ足りない感情】
「空は、ピンク。」
ぺたぺたと彼女は絵の具を乗せる。
「太陽は、白!」
まるで自分に教えてみせるように。
そして、宣言するかのように。
「地面は……あ、お……?」
「急に自信無くしてるな。」
そういうと、彼女は振り返りムッとした顔をした。
「微妙な色なんだよ。こう……ふぁーっていうか、どぅるーっていうか。」
「わからん……。」
彼女の例えは分かりづらい。こうして絵にしているのを見ると、彼女の思考回路が表されている気がするが、独特な色使いは人を選んでいるようにも見えた。
「本当はね、ここのピンクもこう、きゅるーんというか、そう、むっとり!」
「わからんて……。」
ブツブツ言いながら絵に向かう彼女は、正直変人だ。しかし、きらきらとした目が、彼女自身も見られない美しい目が、映し出したものを共有していると思うと、このやりとりをしているのも悪くないと思えた。
【君が見た景色】