あとは私が塔から身を投げれば完璧だった。
塔の下から泣き叫ぶ彼の顔を見るまでは。
政略結婚のはずでした。
父は彼ら一族の内情を探りたかった。
彼らは父たち一族の内情を探りたかった。
本来政略結婚とは一族においても重要な位置にいる人物、もしくはその娘があてがわれる。遠縁すぎて裏切られても互いのためにならないからだ。
それでも父の娘である私は選ばれた。側室どころかメイドへのお手つきで生まれた末端中の末端。父にとって夫人が1番らしいが、酔った拍子に手をつけてしまったらしい。実の母は退職金という名の口止め料を相場の何倍ももらい屋敷を去ったそうだ。
夫人はそんな私を愛情込めて育ててくれた。与えられる物品などに嫡子との差はもちろんあったが、向こうは跡取りである。差を感じ取るたびにごめんね、と慰める夫人に罪悪感が募った。
そんな私に縁談を持ってきたのは父だった。やっと役に立つと言う父に、夫人は最後まで反対していた。
新しい夫は、無表情な人でした。
最低限の言葉しか交わさず、最低限の業務をこなし過ごしていました。
私だって、これが延々と続くものではないことくらい、わかっていました。
家が没落しました。父の悪事がついに王の耳に入ったそうです。異母兄たちは夫人の計らいでみな海外に居住を移した後でした。私だけ、父の強い希望で外に出ることは叶わなかった。国内に残っていた私も処刑の対象だそうです。
「ごめんなさい」というのが彼女の最期の言葉だったそうです。
夫人は常日頃言っていました。ごめんなさいと。夫人もまた、望んできた人ではなかった。
でも父もまた、望んだ人と共になれなかった。だからこそ夫人の言葉も響かなかったのだろう。
塔の上に立つ。
嫡子が国外にいる以上、責を負うべき子供は私だ。夫人のためにも、恩に報わなくてはいけない。
ふと、叫び声が聞こえた。遠すぎて何を言っているかはわからない。でも、それが夫で、無表情な夫で、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んでいた。
自分がなにかしたのだろうか。いや、父に何かされたのを聞けと言っているのかもしれない。
こんな私に慕われていたなんて、あなたは知らなくてもいいんです。
彼が叫びながら部下を塔へ入るよう指示をしている。夫は私の顔を見ながら、なにかをずっと叫び続けている。
あぁ、彼の顔が、感情が、私に向いていることがこんなに嬉しいなんて。なんて浅ましい。なんて醜い。醜い私をこれ以上見せたくなくて、塔を飛んだ。
私は精一杯の笑顔を彼に見せた。
彼に対する誠意だと思ったから。
【飛べ】
特別な日、君は何する?
「お寿司!」
「おすし!」
2人の幼い兄弟はイェーイとハイタッチする。
もう食べに行くことは決定しているようだ。
「何食べるの?」
「サーモン!」
「たまご!」
即答。食べるものも決まっているらしく、毎回ルーティーンのように選んでいる。
「回るお寿司とはいえ、高いんだよなぁ……。」
お財布の中身を数え、はぁ、とため息をつく。自分は100円寿司の中から選ばなければ。
財布をしまおうとした時、渋沢栄一が印刷されたお札が財布に舞い込んできた。
「ひぇ!?」
「俺もいく。」
夫がいたずらが成功したかのように笑いかけてくる。今日は残業で帰れないと言っていたのに。
「パパ!今日お仕事ないの!?」
「急いで終わらせたぞ〜!連休だからな!」
嬉しそうな兄を抱き上げ、たかいたかーいと笑いかける。弟も羨ましそうに次はぼく!とズボンを引っ張っている。
「お仕事、大丈夫なんですか?」
「連休くらい、家族で過ごしたいからな。」
答えになっていない答えとともに、額にキスをする。どうにも夫のこの行動に慣れなくて、いまだに顔が赤くなってしまう。
「ママ!早くいこー!」
「まま!」
可愛い我が子たちに呼ばれるがまま、その日の夕食は家族みんなでお寿司屋さんに決定した。
子供たちが1番食べたのは、フライドポテトだった。
【special day】
ここに横になって、見上げてみて。
木と木の間が光ってるの。宝石みたい。
ねぇ、とっても綺麗でしょ?
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ゆるゆると、時間が過ぎる。
大きな木の麓に座り、ぼうっと過ごして何日経ったかも忘れてしまった。
ゆっくりとした時間を過ごしていると、あの慌ただしく血生臭い日々は夢だったんじゃないかと錯覚する。
だってこんなにも静かで、こんなにも穏やかで。
——こんなにも、幸せで。
「何たそがれてんのよ。」
頭にずしりとした重さを感じる。彼女が頭に顎を乗せてきたんだ。そのまま顎をぐりぐりと押し付けながら、彼女は続けた。
「まだ悩んでんの?せっかくあんたを攫ってきたのに。」
「こんなに幸せなのに攫ってきたって言葉でいいのかな。」
自分に攫われるほどの価値があるのだろうか。
頭の上で大きなため息が聞こえたかと思うと、彼女は押し倒してきてそのまま胸の上で仰向けになった。
「手!出して!」
言われたとおり右手を差し出す。
「違う!!左!!!」
ドスの効いた怖い声だった。顔は見えないが相当イライラしている時の声だ。
そっと左手を出すと、彼女は自分の手と重ねて木漏れ日に向かってかざした。
自分より、ふたまわりは小さい手。それでも自分をここまで引っ張り上げてくれた、強い手。
「ほら、エンゲージリング。」
きらりと指元が光る。
「エンゲージって……。」
「あんた忘れたの?ほんっと忘れっぽいわね。」
指を絡めるように手をつなげると、ぎゅっと強く握ってきた。
「ここまで言わせないでよ。……ばか。」
彼女の耳が赤い。でも自分も真っ赤なんだと思う。そっと右手で彼女を引き寄せると、ごろりと寝返り首元に唇を落としてきた。
幼い頃からあんなに焦がれていた人が、今腕の中にいるのが信じられなかった。
風が吹いて、木枝が揺れる。それに伴って影も揺れる。
彼女とぱちりと目が合った時、きらきらと瞬く木漏れ日の中で誰よりも美しい人がそこにいた。
【揺れる木陰】
蝉の鳴き声がする。
けたたましく鳴るアラームのようで、鬱陶しい。
じっとりと熱い空気に包まれて息苦しい。呼吸をしようとして、口を開けた瞬間に熱が身体に入り込んでくる。
汗が額から流れていくが、拭えない。
手も足も動けない。
延々と続くと思ったら、冷たい感触が頬に触れた。
手だ。と、同時に口に何か流れてくる。口からこぼれるのも気にせず懸命に飲むと、頬に触れた手が慈しむように撫でてきた。
それまでの不快感や息苦しさが和らいでいく。
蝉の声は相変わらずやかましい。でも、この手の心地よさには変えられない気がした。
目を開けると、白い天井が広がっていた。
「気、気づいた!!よかったー!!!」
泣きそうな顔で彼女が抱きついてくる。蝉の鳴き声がまだ頭に響く。
「なんでこんな暑い日に外で昼寝するんですか!!身体も真っ赤で熱くて……ゆすっても起きなくて……ほんっとうに焦ったんですからね!!」
ぼろぼろと目から溢れるのが綺麗、と言ったらまた怒られそうだと思った。
ぼんやりとした頭で自分の首から下に目線をやると、点滴に入院着を着ていた。そこでやっと自分は病院にいるのだと気づいた。
「……なんか言ったらどうなんですか!!」
「……ごめん。」
言い訳しようにも身体がだるくて口を最低限しか動かせない。状況を整理すると、朝の涼しい時間帯に木陰で眠ってしまい、気づいたら真昼の太陽に照らされ脱水や高体温で死にかけていたらしい。彼女がいなかったら死んでたよ。そう言う医者に対して1番焦った反応をしていたのは彼女だった。
「ばか!ばか!!ばかー!!!」
「……ごめん。」
彼女の目から溢れる涙を親指で拭う。それでもボロボロと止まらないそれは、指を濡らしていった。
濡れた手で彼女の手をそっと掴んで自身の頬に触れさせる。泣きながらきょとんとした彼女を尻目に、頬への感触が夢と同じことを確かめていた。
【真昼の夢】
約束だよ。忘れないでね。
そう言い合って、コツンと額をあわせた。
あの時のことを、あなたは覚えているだろうか。
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彼女はとても凛とした人だった。
幼い頃からずっと一緒だった。一緒の布団に入り、一緒におはようと笑ったこともある。
いつからか、彼女は心の奥深くにいた。そばにいたいと願うようになった。それが愛なのか、執着なのか、欲なのか、もうわからなかった。
ただ誰かのものになると想像しただけで黒い感情が腹の中に積もっていった。
ずっと一緒にいたい。彼女に笑ってほしい。そばを離れたくない。泣かせたくない。
それはぐちゃぐちゃにかき混ぜた残飯のようで、気持ち悪い。彼女を想う気持ちが気色悪くなっていくような感覚が、ひどく彼女を侮辱している気がした。
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まただ。ふと見た時、悲しそうな、寂しそうな顔をする。大人ぶっているくせに、こういう時見せる顔は昔のままで。いつまでも泣いてついてきたあの顔で。
身長だってとうに抜かしたのに、まだめそめそとしている。繊細というか、女々しいというか、面倒臭いというか。
今更何をというのが、私の一番の気持ちなのに。
「ねぇ。」
「ん?」
「かがんで。」
「……?」
言われたとおり屈んだ彼の頬を両手で思いっきり引っ張った。かたい。昔はもっとふくふくでもちもちだったのに。
「いてててててて!!?」
手を離すと、彼は私の行動が理解できないらしく、自分の頬をさすりながら呆然としている。
「あなたの前にいるのは、私。わかってんの?」
「……??」
理解が追いつかないのか、全くわからないのか、呆然とした顔をしたままだ。
「……。」
なんか、無性にイラっとした。
「いでててててて!!!」
もう一度頬を引っ張ってやる。絶対忘れているのを確信した私は渾身の力を込めてやった。
「うそつき。忘れないでねって言ったでしょう?」
幼い時の約束。私の心にずっと根差した、一緒だよという約束。
もう離れないように、私は彼の手をぎゅっと握った。
【二人だけの。】