100万ドルの夜景。その言葉の由来をなんというのだったか。
引っ越す前の親友と、初めてのお泊まり会の夜に布団の中でひそひそと語らったことを、なんとなくは覚えてはいるが、その内容までは思い出せないことが微妙に気持ち悪くて、私はぎゅっと眉を顰めた。
目の前にはがたん、と一定のリズムで揺れるわずかに濁ったガラスを通して遠ざかる山の木々と、日が落ちつつある光に照らされている街並みがあった。
ぼんやりとロープウェイの冷たい手すりと義務的な硬さのソファの座席に座る。スマホのカメラアプリを起動し、かしゃ、と窓の外の風景を数枚撮り、周囲を見ると同じく百万ドルの夜景を見にきたのであろう観光客が、さわさわと話していた。
「百万ドルの夜景」
「そうです」
「なんでそのチョイスなんですか?」
「映画特集です」
「あー」
そういえば。週刊誌をメインに出版している我が社は今は大きなニュースがないらしく、ちらほらとオフィスには人が集まるだけとなっていた。そして、今度の週刊誌の内容は、映画特集、ということは1ヶ月前には決まっていたことだった。
なぜなら、次ヒットすると予想される定番のアニメ映画の舞台が、百万ドルの夜景として有名な六甲山が舞台、という情報を入手した編集長がそれに被せよう、と提案したのだ。
「で、だれが写真を撮りに?」
「沢辺さんで」
「…了解です」
小規模な会社であるため、写真はプロの写真家ではなく、社員がその足で撮りに行かねばならない。伝達事項を伝えにきた同僚が私のデスクに分厚い紙の束がおいてあるのを申し訳なさげに見ながら、無慈悲にそう伝えた。
冷たくないですか、こんなに仕事溜まっているのに!? という文句を喉の奥にぐっと閉じ込めて愛想笑い程度に笑った。彼女も仕事だ。
…百万ドルの夜景、百万ドルの夜景ね…。
その言葉に目の前から去りつつある同僚の後ろ姿を見ながら、幼い頃の記憶がわずかに蘇る。
お母さんから聞いたの!
…へえ、なにが?
幼い頃の私がぽちぽちとゲーム機をいじりながら、時折手を離せるタイミングを見計らって、彼女を見遣る。くるりとしたボブがトレードマークである彼女はラベンダーの香りを纏わせ、目を輝かせて、こう言った。
百万ドルの夜景ってね! 六甲山の…が…なんだから…なんだって!
目を瞑る。どうしてもその先から思い出せない。親にねだって、ようやく行われたお泊まり会。そしてそのすぐに親から告げられた引っ越し。あれ以降彼女も父親の職場の移転の関係ですぐに引っ越した、と聞き、連絡もついていないというのに。
徐に常備してあるチョコに手を伸ばすと、ざくり、とした食感に甘ったるい後味が残る。それが過去に対する後悔のようにも思えて、私はため息をついた。
ーらんらんらん、らん、らんらん…
綺麗にライトアップされた高台には人が大勢集まっていて、観光地と呼ばれるのも頷けるほどだった。
ラベンダーが有名なのか、ラベンダーのポプリやらが売られている店を背景に、恋人たちから家族まで、様々な人の黒い輪郭だけが見える。それを歩きながら1枚だけ写真に撮り、さらに上の、人が少ない高台を目指し、階段を登り続けた。
静かに人が二、三人、立っているのを眺めながら、ふう、と息を吐く。そんなに高いイメージはなかったのだが、予想に反して随分長い階段を登る羽目になったのだ。
しかし、その苦労の甲斐はあって、テラスにあった椅子に座ると、そこから見える景色は絶景だった。夜であってもなお、活動し続ける人々の家の電気は灯り、程よい夜の風が吹く。汗をかいた肌にその気持ちよさが沁み、目を細めながら、何か資料の足しにならないかと近くの壁にあるプレートを見ると、百万ドルの夜景と呼ばれることになった由来が黒い石のプレートに彫られていた。
『ここ、六甲山が百万ドルの夜景と呼ばれることになった由来は、数十年前、関西電力の社長が、ここからの景色の電気代を計算すると約100万ドルになったことに由来すると考えられています…』
思わずその文章に目を見開く。じゃあ、お泊まり会のとき、友人が言ったのは。今なら、あの時彼女が言った内容が補完できる気がした。それもかなり正確に。きっと、あの時彼女は六甲山がなんで呼ばれることになったのかを言おうとしていて、その内容がここだったのだ。
そう思うと欠けていたピースがつながり、知らず知らずのうちに抱えていた胸のわだかまりがすっと、消えていくような心持ちがした。
あの後あなたはどこに引っ越して、どんな人生を今送っているのかな。心の中で、百万ドルの夜景を見つめながらそう思う。きっと今見ている神戸の夜景の中にあなたはいるだろうか。夜の風の中、数多の街の明かりが応えるように、ちかちか光り続けていて。バッグのラベンダーのキーホルダーからほのかに控えめな香りが香ったように思えた。
『留年しませんように』
『りんちゃんと結ばれますように』
『私以外の願いが全部叶いませんように』
校舎の玄関ともいえる出入り口の大きなスペースで、吹き抜けた構造になっている2階から一階にかけて七夕シーズンは大きな笹が垂れ下がる。
ちらりと見ていた掲示板にかかっていた笹の葉には不毛な願い事ばかりが書かれていた。1個目と2個目の願い事はともかく、3個目の願い事はいいのかこれは、と思わず突っ込みを入れ、苦笑した。
「っと」
背中に急に衝撃が加わり、思わず姿勢を崩しかける。すみません、と小さく囁かれた声は女子のもので、なんだか聞き覚えがあった。
「部長」
急いでいるらしく、そのまま走り去ろうとしていた姿が止まり、勢いよくこちらを向いた。黒いロングの髪におそらくいつもの友人に飾り付けられたちょっと不細工で愛嬌のある猫のヘアピン。少し垂れ目の瞳に、随分前、私ねーフラれたんだー…と天文学部の小さな部室で机に突っ伏せながらそうこぼしていたことを思い出す。
「あ、ああ、久しぶり」
「久しぶりですね、受験大丈夫そうですか?」
うーん、どうかな、と苦い笑みを浮かべた部長が首を傾げる。とうに授業が終わった放課後にはほとんど人がおらず、玄関口も閑散としていた。夕焼けに染まる校舎の中で、部長のカバンからは、システム英単語、と書かれた参考書が飛び出していた。おそらく、生徒下校の最終時刻の今までどこかで勉強していたのだろう、と悟る。
多分、もうあんまり余裕はないのだろう。引き止めるのも悪く思えて、天文学部ももう活動するのも無理そうだな、と諦めたような感想が広がる。
「じゃあ、頑張ってくださいね」
「はーい、ありがとばいばい」
その感想をいつも通りの笑顔に押し隠して、軽く頭を下げると彼女も逆光で顔が見えないまま、その輪郭が手をこちらに振りかえした。
「んで、お前あれどうなったんだ」
あー聞こえない聞こえない、と耳を両手で防ぎ聞こえないふりをした加菜瀬をじとりとした目で見つめる。…その数秒後。諦めたように目の前のアイスココアをストローでつーと口をつけた。
「安心して! 中間までの提出物は出し終わった!」
「どこが安心できると?」
全く安心できない。今は期末が終わったばかりで、本来期末までの提出物も出し終わっているはずだし、留年はしたくないとぼやいていたくせに。
そう告げると彼は笑いながらまあまあ、とこちらを落ち着くように宥めた。
「言うてあんまり留年せずに済む気もしないけど、七夕の短冊にも留年しないようにって書いといたし、こうして波多に手伝ってもらってるんだからきっとなんとかなるよー」
ほら、と加菜瀬の手が指し示したのは、目の前のカフェの机に散らばった提出物の山で。今からこれを片付けるのか、と思うと気が滅入ってはあ、と俺はため息をついた。
『……そう言う訳で、今年でおそらく廃部になる気がします。新入部員が入らなければ、ですが、現状一人も入っていませんし厳しいでしょうね…。夜分に失礼いたしました。具体的な話はまた明日に。』
伝達事項を一通り書き終えると、ふう、と息をついて、手元に淹れておいたコーヒーを飲む。夏らしく暑い昼とは違って、夜はやや蒸し暑いが、昼ほどではない。椅子の背もたれをあー、と倒しながら上の天窓を見上げる。
深夜11時の夜空は、どこか麻痺したような紺の色で覆われている。そのことになんとなく、今日が七夕だということと、昼や放課後の会話を思い出した。…受験シーズンが迫っていて、部活どころではない部長に、提出物に追われている加菜瀬。学校の短冊の、幼い頃にきらきらと目を輝かせながら書かれた浮世離れた願い事とはとは違い、どこか諦めと希望を持ちながら現実的な願い事たち。
来年は俺も部活やら受験はどうなるかな、とぼんやりと思う。どんどん大人になっていってるな、と冷静に思いながら、みんなの願い事が叶いますように、そして部活に新入部員が入りますように…と願う。目を閉じると、何も視界には見えなくて、それがどこか安心してほっと気が抜けた。どうか彦星と織姫が出会えますように。そう願った口元にはいつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。
紺の遠くの空が空の端から白くなり始め、青色から徐々に橙色を含んだ青へと変わっていく。そのさまを少女は静かに眺めていた。静謐な路面電車の車内にはがたんごとん、と道路を走る音のみが満ちており、時折、少女がつけたお気に入りの髪飾りが揺れるしゃらん、とした音がその中に混じった。
少女が住んでいる街はトルストイという名前だったが、実際には他国と同じく、何々の国、例えばトルストイは旅の国と呼ばれていた。この呼称の由来は子どもたちは全員14歳になると旅をする国を一つ決め、1年間旅をすることから来ている。そして今日は14歳になる日、至日の日だった。
出発の日は午前4時から。それはかねてから家族と話して決めていたことだった。
レタがどうせなら日を昇る様子を見たい、と熱望していたことと、交通機関の混み合い、これから向かう映画の国、クオラとトルストイは約1時間の誤差があるので面倒を見てもらう人と約束した時刻、あちらの6時ーこちらでいうと5時に間に合わせるには早めに出る必要があった。幸いにしてレタは国境の近くに住んでいたのでそこまで約束の時刻より前に家を出る必要はなかったけれど。
ふう、と息をつく。いつの間にか全身がこわばっていたことにようやく思い至った。この日にみんな揃って出発するのでこの国の主要な交通機関、バスはもちろんのこと路面電車はほとんど旅に出る少年少女と見送りに出る親でほとんど埋まってしまう。
けれどその反面早朝は昼と比べて圧倒的に人は少なくなり、路面電車の車内には徐々に温度を持ち始め明るくなりゆく光が差し始めていた。
試しに光に手をかざしてみると、ほのかに温もりがある。そのことになぜだか安心した。
例えば、と思う。例えば面倒を見てくれる人が怖い人だったり、兄弟がいる人だったらどうしよう、と思う。兄弟と仲良くなれる自信なんて、のんびり屋のレタにはないし、怖い人だったら尚更だ。
不安に揺れる思考に合わせて今度はスーツケースの赤いうさぎがぶらんと揺れる。きっと大丈夫よ、レタ。目を閉じる。家を出る前に自分をなでながら言った母親のセリフが蘇った。あなたならきっとどこでも生きて行けるわ。がたんごとん、と揺れる車内で旅に発ったばかりの少女を朝日の光が柔らかに温もりを持って差し込んでいた。
があがあ。いつの間にか窓際に降り立った(おそらく顔馴染みの)烏がこんこん、と嘴で窓をつついた。
あ。身を乗り出す。時計を見ると午後4時でいつもの烏が訪れる時間だった。いつも窓際においてあったはずの餌がなかったからだろう。烏は気のせいか不満げに見えた。
「ちょっとまってて」
こっそり看護師に隠しておいたまだ生温かいラップに包んだご飯を取り出し窓をがらっと開けた。はい。思い切って目をつむりながらカラスの目の前の窓枠のコンクリートに置く。恐る恐る目を開けると烏がきょとりと大柄な身体に似合わずつぶらな黒い瞳でこちらを見ていた。なにしてるの、とでも言いたげだ。いつもの通りご飯を置いただけなのに。むー、と烏を見つめ返してみる。
数秒後。烏はふ、と視線を僕からずらしご飯をつばみはじめた。
本来は烏が来る前にご飯を置いておくので窓を介さずに会うのは初めてだ。そう考えると新鮮に感じてぼーっと烏を見つめてみる。ちょうど良い夕焼けの生温かな風にひんやりと冷たい窓枠のコンクリート。黒いふさふさとした翼に時々光を映す黒い瞳。食べる様子はこちらとはなんの関係もない、とでも言いたげに変わらず素っ気なかった。
ちょっとくらいは愛想をくれてもいいんじゃないか。不満に思いながら見つめていると一通り食べ終わったのか器用に残したラップを置きこちらに一目もくれずに、窓枠に立ってぶわっと翼を広げる。風が吹く。思わず目をつむる。気がつくと烏はいなくなっていた。
1999年。明日1月1日を迎えるはずの今日は12月31日で、記録にも残っていないような999年とは違う二度目の世紀末は、ノストラダムスの予言、「1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」という地球滅亡を暗示する予言によって賑わっていた。
とはいえ、肌に感じる日常はどこまでいっても日常でなんの代わり映えもしなかった。若干看護師たちが噂をして浮足立っているくらいで、ガラケーをぽちぽち触ると目に入るのはいつもの母親からの連絡のみ。みんな地球が滅亡する、という不安は感じないのだろうか。病室からの窓を通して下を見下ろす。人々は変わらず歩いて、車が交差点で飛び交う。ひょっとしたら地面はぐらぐらと揺れていて、間もなく崩れ落ちてしまうのにみんなはそれを知らずに平然と歩いていく。足元がおぼつかなくなるような不安だった。
午後4時。珍しくいつもは毎日来て、嘴でつついて鳴らしていた窓は鳴らなかった。今日は来ないんだろうか。もしかしたら世界が終わるかもしれない前日には烏も友人や家族と空を飛び回ってたりするのかな? いつの間にかあの烏を眺めることが楽しみになっていた自分に気づく。自分にも誰か連絡でもくれたりするといいな。数年前の友人だ、とか…。眠い。ふわーっとあくびをした。昼寝をしよう…。そう決め、病室の白いベッドにごろりと寝転がる。目を閉じる前、思い浮かんだのはあの烏のことで。目を覚ました時、世界は終わってたり、案外日常が続いてたりするのかもしれない。そう考えると自分とは程遠いと感じていた達観した大人の気分になれた、気がした。
「しーっ!」
僕は音を立てないよう目の前の友人に向かって人差し指を自身の唇に当ててみせた。その忠告に目の前の彼は頷くと姿勢を正そうと、わずかに背を伸ばす。あ。これから起こることが容易に想像できて思わず目をつむる。
ごん。押入れの天井の板がゆっくりとぶつかった彼の頭を弾き返した。
「いったぁ…」
彼がゆっくりと頭を抱えた。顔が泣きそうになっている。目の前の彼のことは可哀想だけれど、僕はそれよりも今のぶつかった音で自分たちが鬼に見つからないか、気になって仕方がなかった。
彼の姉の鬼がこの部屋にまだいないことを確認しようとして押入れの扉をそろりと開ける。う。眩しい。押し入れの暗さに慣れきった目が麻痺し思わず目を細める。
幸いなことにまだ彼女は近くにいなさそうだ。そのことに安堵して視線を押入れの中に戻す。もともとあった布団の山と隠れようと提案した僕と、その言葉に頷いた彼。それがこの空間にあるものの全てだった。
黙々と手を動かす。これは何で代用できる?しばらくの後に、頭がストロー、という案を提案する。その言葉に頷くと、俺はストローがあるであろう台所に駆け出そうとして、片足が近くのコードに引っかかった。
ぐらり、と視界が揺れ、咄嗟に両手を衝撃を緩和しようと伸ばす。ぐ。
幸いなことに頭に直撃はしなかった。両手は痛いが、普通に動く。まあいいか。子供じゃないんだし、これぐらいはすぐに治るだろう。
幼い頃、狭い押し入れに隠れた記憶はなぜか、他の記憶よりも色濃く残り、今でも時々思い出す。あれほどたかがかくれんぼで緊張したことはないだろうし、なによりあそこに存在した狭い空間に詰まったものでできた小さな世界。
そのことに魅了された俺は、成長して学生の頃からミニチュアで狭い部屋を作り始めた。記憶の通りの押入れから天体望遠鏡しかおいていない天窓がある部屋。色々なものを詰め込み完成した狭い部屋は俺の部屋の棚に丁寧に飾られており、時々アルバムのように振り返るのが趣味だ。
ほうら。手元のライトに照らされた完成した部屋を見て俺は笑みを浮かべた。昔よく遊んだ祖母の家の部屋。その記憶のすべてが、ここには詰まっている。