偶奇数

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『留年しませんように』
『りんちゃんと結ばれますように』
『私以外の願いが全部叶いませんように』
 校舎の玄関ともいえる出入り口の大きなスペースで、吹き抜けた構造になっている2階から一階にかけて七夕シーズンは大きな笹が垂れ下がる。 
 ちらりと見ていた掲示板にかかっていた笹の葉には不毛な願い事ばかりが書かれていた。1個目と2個目の願い事はともかく、3個目の願い事はいいのかこれは、と思わず突っ込みを入れ、苦笑した。
「っと」
 背中に急に衝撃が加わり、思わず姿勢を崩しかける。すみません、と小さく囁かれた声は女子のもので、なんだか聞き覚えがあった。
「部長」
 急いでいるらしく、そのまま走り去ろうとしていた姿が止まり、勢いよくこちらを向いた。黒いロングの髪におそらくいつもの友人に飾り付けられたちょっと不細工で愛嬌のある猫のヘアピン。少し垂れ目の瞳に、随分前、私ねーフラれたんだー…と天文学部の小さな部室で机に突っ伏せながらそうこぼしていたことを思い出す。
「あ、ああ、久しぶり」
「久しぶりですね、受験大丈夫そうですか?」
 うーん、どうかな、と苦い笑みを浮かべた部長が首を傾げる。とうに授業が終わった放課後にはほとんど人がおらず、玄関口も閑散としていた。夕焼けに染まる校舎の中で、部長のカバンからは、システム英単語、と書かれた参考書が飛び出していた。おそらく、生徒下校の最終時刻の今までどこかで勉強していたのだろう、と悟る。
 多分、もうあんまり余裕はないのだろう。引き止めるのも悪く思えて、天文学部ももう活動するのも無理そうだな、と諦めたような感想が広がる。
「じゃあ、頑張ってくださいね」
「はーい、ありがとばいばい」
その感想をいつも通りの笑顔に押し隠して、軽く頭を下げると彼女も逆光で顔が見えないまま、その輪郭が手をこちらに振りかえした。


「んで、お前あれどうなったんだ」
 あー聞こえない聞こえない、と耳を両手で防ぎ聞こえないふりをした加菜瀬をじとりとした目で見つめる。…その数秒後。諦めたように目の前のアイスココアをストローでつーと口をつけた。
「安心して! 中間までの提出物は出し終わった!」
「どこが安心できると?」
 全く安心できない。今は期末が終わったばかりで、本来期末までの提出物も出し終わっているはずだし、留年はしたくないとぼやいていたくせに。
 そう告げると彼は笑いながらまあまあ、とこちらを落ち着くように宥めた。
「言うてあんまり留年せずに済む気もしないけど、七夕の短冊にも留年しないようにって書いといたし、こうして波多に手伝ってもらってるんだからきっとなんとかなるよー」
 ほら、と加菜瀬の手が指し示したのは、目の前のカフェの机に散らばった提出物の山で。今からこれを片付けるのか、と思うと気が滅入ってはあ、と俺はため息をついた。


『……そう言う訳で、今年でおそらく廃部になる気がします。新入部員が入らなければ、ですが、現状一人も入っていませんし厳しいでしょうね…。夜分に失礼いたしました。具体的な話はまた明日に。』
 伝達事項を一通り書き終えると、ふう、と息をついて、手元に淹れておいたコーヒーを飲む。夏らしく暑い昼とは違って、夜はやや蒸し暑いが、昼ほどではない。椅子の背もたれをあー、と倒しながら上の天窓を見上げる。
 深夜11時の夜空は、どこか麻痺したような紺の色で覆われている。そのことになんとなく、今日が七夕だということと、昼や放課後の会話を思い出した。…受験シーズンが迫っていて、部活どころではない部長に、提出物に追われている加菜瀬。学校の短冊の、幼い頃にきらきらと目を輝かせながら書かれた浮世離れた願い事とはとは違い、どこか諦めと希望を持ちながら現実的な願い事たち。
 来年は俺も部活やら受験はどうなるかな、とぼんやりと思う。どんどん大人になっていってるな、と冷静に思いながら、みんなの願い事が叶いますように、そして部活に新入部員が入りますように…と願う。目を閉じると、何も視界には見えなくて、それがどこか安心してほっと気が抜けた。どうか彦星と織姫が出会えますように。そう願った口元にはいつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。

7/8/2024, 8:59:06 AM