偶奇数

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6/3/2024, 11:59:37 AM

 なんとなく手を伸ばしかけた。そしてそれが叶わないことを知った。

 有り体に言えば一目惚れで、それ以降彼から目が離せなくなった。ある体育祭の日、彼がぶっちぎりで応援しているクラスを尻目に駆け抜けたときのことだ。特に体育が好きだったわけでもない。けれど、駆け抜ける彼の横顔が思いっきり楽しい、というようにほんのちょっと笑っているのを見て、いいな、と思ってしまった。それがよくある恋の始まりだった。
 例えば机に座っているときの横顔。友人と笑い合う姿。そんな些細なことにいちいち目が吸い寄せられ、冗談抜きに彼以外に目がいかなくなった。
 もともと引っ込み思案な性格なので告白しよう、とはあまり考えず、授業中ふとした瞬間にちらり、と一瞬見たりすることが続き、当然のように違和感を持たれた。
 クラスの中心にいた彼とはそんなに話をする機会もなかったが、席が近かったので時々落とし物を拾って笑い合うくらいの交流はあったのだ。しかしそれさえ彼に視線が吸い寄せられてしまい、明らかにぎこちなくなった。その上、自分から話しかける勇気もなく、そうこうしているうちに前に比べて明らかに彼からは話しかけられなくなった。
「来奈ー、ほら次、生物の授業だよー」
 幼馴染の符糸が、ひょい、と私の頭に羊のぬいぐるみ風の筆箱を置く。彼女を見上げようとするとじゃらり、と羊の腹の中のペンたちが揺れ、慌てて頭を平静に戻した。
「あ、うん。ごめんすぐ準備する」
 今度こそ落ちないように、と羊を机の上に置き、慌てて生物の教科書を机から漁った。

「でさー、あの人後輩と付き合ってるんだって」
 ほうほう、とギターと恋バナ好きの大花が身を乗り出す。三つ編みを編み込んだ茶髪がさらり、と揺れた。
「あーでもこの間見たことある。手振ってたよね彼女に」
「そうそう」
 よくぞ見ていました、というように符糸が力強く頷いた。心なしか得意げだ。相変わらず恋バナとなると二人はテンション高いな、と思いつつ来奈は苦笑いしながら同調した。
 …もしも、彼に恋人がいることを聞けたら?魔が差した、というほかはない。けれどもしかしたら。
「彼は?付き合ってる人とかいるのかな」
 密かに親しい友人4人ほどに囲まれて談笑している彼に視線を向けて尋ねてみる。お、と大花の目が輝いた。あんまりこういった話に積極的に話しかけないせいだろう。そうだと思うことにする。
「いやーやっぱりいるみたいだよ。ほら3組の長身のあの人」
 符糸が彼をほんと仲良いよねーあの2人、と遠目に彼らを見ながら答える。しかしその言葉にざっと血の気は引いた。別に付き合いたい、とかを思っていたわけではない。本当に。割り切っていたつもりだった。それでも意外なほどにショックを受けていて、自分でそのことに一番驚いていた。手をぎゅっと握る。痛い。
「あ、そう、なんだ」
 うん、と符糸が答える。大花が気遣わしげにこちらを見ていて、そのことに頭が冷えながらも気づいて、咄嗟に気を使わないで、と言いかけた。
「ごめん、ちょっと用事あった、また」
 はーい、と返事が聞こえた。その言葉を背景に、やや小走りでその場から、逃げた。

「大丈夫、大丈夫だから」
 逃げ込んだ人気のない旧校舎の廊下にその言葉が落ちる。誰に対して言ってるの?そんな言葉が浮かぶ。自分でも気が動転していた。心臓の音がやけに強く聞こえる。それを目をぎゅっと閉じて落ち着くまで手を握った。しー…。

 やっと動悸が落ち着いて、しゃがみこんだままふー、と息を吐く。まだこの廊下には誰もいない。そのことに安心しつつ廊下から窓を通して見える空を見上げれば、私の気分とは裏腹に鮮やかな青一色で。
「あー」
 失恋したんだ私。ようやくその言葉がすとん、と落ちた。

6/2/2024, 11:03:51 AM

 人間、嘘をつこうと思っても嘘をつけないものだ。前を歩く彼の後頭部のてっぺんをぼんやりと見ながらそう思った。
 
 状況は、約束した彼との集合時間に遅れた、といったところだ。よく聞かれるのだが別に彼氏ではない。ただ単純に彼は図鑑やらいろんな知識が詰まった本を読むのが好きで、私は小説を読むことが好きだっただけだ。
 その結果どうなるか?学校の図書室で鉢合わせすることが多発した。4回目ぐらいでお互いを本好きだ、と認識し、それ以降は図書室で小説を読んだあと、次の本を探すタイミングで休憩がてらよく話しかけに行った。彼も私も司書さんと親しくよく司書の彼女に話しかけていたのもある。
 で、そんな彼だが非常に時間には厳しい。遅刻した言い訳に交通機関の遅れがーといった小さな嘘をつこうと思うくらいには。
「結局は何して遅れたの?」
 前から呆れを含んだ声が聞こえる。
 小さな嘘をつこう、とは思った。思ったけれど彼に約束の時間を遅れたことに対して負い目を感じていた私は、集合場所で彼に会い、なんかあった?と聞かれた時に、咄嗟に嘘をつくのがためらわれて、うぐ、と口ごもった。そして彼の目はすう、と細まり、時間に遅れちゃいけないから歩きながら聞くよ、と言ったのだ。
 でもそれにしては、そこまで怒ってないような?若干心のなかで首を傾げつつ今度こそ正直に答えた。
「えーと…。ぎりぎりまで映画を見ていました」
「うん」
「それだけ」
 それだけで遅れて、他に遅れた理由はない、と言外に伝える。
「映画は面白かった?」
 予想外の質問に目を瞬く。彼のバッグにつけられたシンプルな木彫りが緊張しなくてもいいよ、というように彼の歩く速度に合わせてとっと、とバッグの上で踊っていた。
「うんだいぶ。あのね、去年の本屋大賞を映画化したやつなんだけどー」
 あーあれか、と彼は呟く。すっかり嘘をつこうとして重くなった胸は軽くなり、電車に乗りながらも見ていた映画について語りだす。心なしか、彼もわずかに雰囲気を軟化させたように見えた。

「ほら着いたよ」
 そう言われ、視界に広がるのはもはや道路の備え付けか、と思うぐらいに先まで見える本棚の舗道。ぱああ、と顔面が明るくなるのを感じた。
「いつまでにする?」
「2時まで」
 わくわくしつつ彼を見上げると彼の口角がつり上がっていた。ここ行かない?と古本市のチラシを見せて誘った時に、彼も珍しくテンションが高かったことを思い出す。
 バッグからスマホを取り出し時間を確認する。ちょうど12時。じゃあいったん解散!とお互いに告げ、私は早足で、彼は自分のバッグの紐を握りしめながら真反対の方向の本の波に埋もれていった。

『そういや思ってたより遅れたの怒らなかったね』
『怒っていたほうがよかった?』
『そういうわけじゃないけどなんとなく』
『だって葉波が遅れたの3度目だから。もう慣れた』
『あー』
『非常に申し訳ございません』
『ww』


6/1/2024, 10:18:17 AM

 雨がざあざあと降っている。その音がなんだか自分の心をも表しているように見えて、彼女は密かにため息を吐いた。
 バスに乗れば先は短く感じる。何かを先延ばしにしたいときにはいつもより遅く着くバスに乗ることが習慣となっていた。
「お母さん、見てみてー!」
 視線を窓の外から車内に移せばはしゃいだ少女とぼーっとしている弟とお母さんが見えた。少女が人さし指で指した先には指で描かれた猫。
 幼い頃やっていた雨が降って湿った窓に息を吐いてそれを指でなぞる遊び。今はもうやらなくなったな、と思い出す。
 そういえばあの頃の猫はどうなったんだろう。小学生の時拾った黒ぶちの猫は1週間過ごした後にそろそろ離さなくちゃね、と母親が言い始めたときにいつの間にかいなくなっていた。
 そうつれづれと考えているうちに運転手の放送が入る。
ー次は、采岡駅前ですー
 ぴ、と赤い停車ボタンを押した。


「お前はあの猫の子供?」
 なあ、と鳴く子猫の喉を撫でる。黒ぶちの子猫は雨の中気持ちよさそうに目を細める。
 バスを降りた直後、いつもの帰り道に子猫がいるのを見つけたのだ。
 試しに、と思って頭から尾へ、ぐるうり、と撫でるとどうやらお気に召さなかったらしい。猫はそっぽを向いてとっとと歩き直した。
 まあいいか。曇っていた心がちょっと晴れやかになったのを感じて、口元には知らず知らずのうちに小さな笑みが浮かんでいた。まだまだ雨は降っていて、季節は梅雨だけれど。あの子猫がかつて拾った猫に似ていて、ひょっとしたら子供だったりして。そう考えると自然と足は弾んだ。