ミルとヴァシリー
冬の気配が近づいてきたこの季節。任務を終え、中庭のベンチに座っていたミルはどんよりとした鉛色の空を見上げて、小さく身震いをした。
「少し冷えるね……」
「なら、部屋の中にでも入ったらどうだ?」
呟いた独り言に返事が返ってくる。振り返ると、煙管を片手にヴァシリーがミルのことを見ていた。
「ヴァシリー。仕事は?」
「今し方終わったところだ。部屋に戻る途中で、お前のことを見つけた」
「そっか」
「……前より顔色が良くなったな。何かあったか?」
「え……多分一人じゃないって改めて感じられたからかも」
ミルの言葉にヴァシリーは不思議そうに片眉を上げる。
「お前の周りには多くの仲間がいるだろう。昔のように一人ではない。それは、お前を拾った時からずっと教えてきたつもりだが」
「うーん……それは分かるよ。そうじゃなくてね。ほら、この前までエミール執行官の手紙で、精神的に荒れていたでしょ?」
「そうだな」
「その時にね、スピカとルカが「俺たちを頼ってくれ」って言ってくれたの。それがとても嬉しかったんだ」
「……そうか」
「それに、ヴァシリーもこのことをどうにかする為に頑張っていたことも知っているよ」
「……」
「だからこそ、教えて欲しいの。ヴァシリー。あなたがこれからどうするのか」
ヴァシリーは手に持っていた煙管を咥え、吸う。そして、口からゆっくりと紫煙を吐き出した後、ミルのことを真っ直ぐに見つめる。
「来い」
踵を返して歩き出したヴァシリーの後をミルは追いかけた。
追いかけてたどり着いたのは、ヴァシリーの部屋。ヴァシリーは部屋に入る手前で周囲に誰もいないことを確認した後、ミルの腕を引いて部屋の中に入り、後ろ手で鍵をかけた。そして、ミルを抱き上げるとそのまま寝台に腰掛けた。
「ミル。俺はエミールを殺すつもりだ。だが、暗殺者であるお前は分かるだろうが、奴の実力は化け物じみているし、何より俺の手のうちは奴に筒抜けだ」
「……刺し違える覚悟があるってこと?」
「物分かりが早いな、お前は。そうだ。最悪、刺し違えてでも俺は奴を殺す。それで教え子であるお前が何者にも怯えることなく、スピカやルカ、他の奴らと幸せでいられるなら」
ヴァシリーはミルを抱きしめる手に少し力を込める。ミルはヴァシリーの胸に頭を預けたまま、ヴァシリーの顔を見上げた。相変わらずヴァシリーは無表情だったが、その目はいつになく揺るぎない意思があるように思えた。
「ヴァシリー。あなたの覚悟はよく分かった。私はそれを止めるつもりはないよ。でも」
ミルは小さく笑って言った。
「私にとって、ヴァシリーは親代わりで師匠で、全てを無くした私に全てを与えてくれた光なんだ。ヴァシリーがいない世界なんて、耐えられない」
「……」
「エミール執行官を必ず倒して。もしも、エミール執行官に殺されたら、私は喉を掻き切るわ」
「それは脅しか?」
「いいえ。これは呪いよ。あなたが必ず私の元へ戻って来るための。あなたは私のことが大事なようだから、死なせなくはないでしょう?」
ミルの言葉にヴァシリーは楽しそうに笑った。
「ははっ!この俺に呪いをかけるか。お前は本当に俺の予想を超えてくるな?」
「何年も一緒にいるんだよ?あなたと共にいられるためなら、私も何でもやるわ」
「そうか。なら、最期の時も同じだな?」
「ええ。ヴァシリー。最期まであなたと共に。仲間として、家族として。一緒にいるから」
「……それでこそ、俺の教え子だ」
ヴァシリーは楽しそうに笑って、ミルの頭を撫でる。ミルは居心地良さそうに目を閉じた。
これからも共に
先日、エミール幹部から茶会の招待状を受け取った私は返答をどう返したら良いのか分からなくて、困っていた。受け取った後すぐにヴァシリーに相談した。ヴァシリーは真剣に話を聞いてくれて、その後に「どうにかする」と言って立ち去った。けれど、それから数日間会えていない。
そのせいか、最近は何をする気にもなれない。幸いなことに任務はここ数日入っていない。
自室でぼんやりと過ごしていると扉をノックする音が響いた。扉を開くと、心配そうな顔をするスピカとルカがいた。
「ミル……いつもより顔色悪い」
「朝食、食べてないだろ。だから持ってきたんだ」
そう言ったルカの手には盆にのせられたコーンスープと小さなパンが一つあった。
「これだけでも食べられないか?」
「……ごめん。食欲無い」
「だめ。せめて、スープだけでも飲んで。じゃないとミルが倒れる」
真剣な顔でスピカがそう言ってくる。食の大切さは幾度もヴァシリーから教わった。どれだけ体調が悪くとも、食べれる時に食べておけと。
でも、今の状態ではとてもじゃないけど……。
「ミル。いつも元気なあんたが、どうしたんだ?俺たちじゃ力になれないか?」
「……」
「話すだけでもきついか?」
「……誰にも話さないと約束するなら」
「!ああ、約束する」
「主に誓って、誰にも話さないよ」
二人の言葉に私は「ありがとう」と返す。
このまま塞ぎ込んでいるより、少しでも話したら心が少しだけでも楽になれるようなそんな気がしたから。
彼らを部屋に招き入れ、私は先日のことを話した。彼らは「幹部から茶会に誘われる」ことに驚き、顔を見合わせていた。
私の前にはコーンスープの入った器と小さなパンが置かれている。相変わらず食欲はおきない。
「幹部からの茶会の招待か……俺たちからすれば、とても光栄なことだ。だが、あんたのその様子からして喜んでいる感じはまず無いな」
「うん。むしろ嫌がっているよね。ヴァシリー幹部はどうにかするって言って、数日は見てないし……」
「茶会に対する恐怖と育ての親に会えないことに対する不安が、ミルの今の状態を生み出したってことか」
ルカのその発言に、私は納得した。茶会に誘われたことに怖い、という感情もあるけれど。
ヴァシリーに会えていない。それだけでこんなにも寂しくて、心細い。
「ヴァシリー幹部は何処に行ったんだろうな。弟子がこんなにも怖がってるんだから、側にいた方がミルにとっても楽だと思うんだが」
「俺もそう思う……でも、幹部には幹部の考えがあるんだと思う。どうしたら、ミルのことを守れるか。だから、何の理由もなくミルの側を離れることは無いと思う。だって、ヴァシリー幹部はミルのことをすごく大事にしているから」
「確かに。ヴァシリー幹部はミルのことをものすごく可愛がってるな。何かと理由をつけて、側にいさせることが多いし。……そのうち、戻ってくるとしか俺たちは言えないけどさ、こうして側にいることは出来るからさ」
ルカはにかっと笑う。スピカも隣で頷いた。
「俺たちもミルに何かあったら助けたい。だって、友達だから。……ヴァシリー幹部みたいに強くないし、頼りないかもしれないけど……少しでもミルの力になりたい」
私は二人の顔を交互に見た後、目の前に置かれたコーンスープに視線を落とす。ほわほわとさっきよりも薄い湯気をあげるそれに私はスプーンを入れ、一口分を掬う。そして、それを口に入れた。
少し冷めているけど、優しいコーンの味が広がった。
彼らの顔を見れば、少し驚いたように目を見開いて私のことを見ていた。
「……美味しいね。このスープ」
私がそう言えば、スピカは少し微笑んで頷く。
「そうでしょ?だから、ミルに飲んで欲しかったんだ」
「けど、無理して全部飲まなくていいからな」
「ううん。ちゃんと全部飲むよ。パンも食べる。……ありがとう。二人とも。話を聞いてくれて」
「大したことはしてないさ。な?スピカ」
「うん。俺たちは話を聞いただけ。でも、それでミルの心が少しでも楽になったなら俺たちは嬉しい」
彼らの優しい言葉に目の奥が熱くなった。
「これからもずっと一緒にいてくれる?スピカ、ルカ」
「当たり前だ/もちろんだよ」
当然のように返してくれるその言葉が何よりも嬉しい。
その想いに報いるために何があっても、彼らのことは守ってみせる。彼らが困れば、私が一番に手を差し伸べる。
互いのために想いあい、行動する。それが私の信念なのだから。
三人の道化師
太陽の光が穏やかに降り注ぐその下には、国中を巡る巡業サーカス団が夜の公演に向けて準備をしていました。
団員たちがいる無数の小さなテントからは、団員たちの活気あふれる声や道具を準備する音が聞こえてきます。
テントの少し離れたところでは、檻に入れられた動物たちが外に出され、嬉しそうに鳴く声で溢れています。
そして、公演が行われるテントの中では、このサーカス団「スターライト」の一団が今夜の公演に向けてリハーサルを行なっていました。綱渡りをする者、ジャグリングをする者、猛獣を手懐ける者……それぞれが、演目のリハーサルを行なっていたのです。
しかし、この一団は他のサーカス団と比べて、特筆すべき点がひとつだけありました。それは、団員全員が人ではないということ。今夜の公演に向けて準備する者たちは皆、人間ではありません。例えば、スポットライトを準備しているのは蜘蛛のような姿をしたものだったり、マイクチェックをしているのは頭がブラウン管テレビとなっていて、その画面に顔があるものだったりとさまざまです。
そんないろんな者たちがいるこのサーカス団。彼らを率いるのは三人の道化師兄弟です。
「エトワさん!こっちは後二時間で終わります!」
「二時間か……間に合うか?」
裏方を取り仕切っているのは、黒を基調とした道化師の服に身を包んだ青年。真っ白な肌に赤い髪に赤い瞳。右目の下には星のペイントがされていました。
彼の名前はエトワ・スターライト。このサーカス団を率いる三兄弟の末っ子です。
「エトワ。俺たちも手伝えばすぐ終わるよ。みんな、とても優秀だからね」
そう言って弟の肩に触れたのは、水色を基調とした道化師の服に身を包んだ男性。エトワと揃いの髪色と目をした青年の左目下には、涙型のペイントがされていました。
彼の名前はレイン・スターライト。このサーカス団を率いる三兄弟の長男です。
「兄ちゃん。まぁ、確かにそうなんだけどさ……それでも、間に合うと思う?」
「大丈夫。直にラルムも来るって」
「二人して何話してるの?僕も混ぜてよ〜」
会話するレインとエトワに抱きついたのは、赤を基調とした道化師の服に身を包んだ女性。二人と揃いの髪色と目をした女性はその顔に半分笑っていて、半分泣いているお面をつけていました。
「……ラルム。その僕という一人称はやめろって、前にも言ったよな?」
「お兄ちゃん。固定概念は捨てた方がいいよ。女の子だからって、僕とか俺とか使ったっていいじゃん」
「はぁ……」
「姉ちゃん。この調子で、夜の公演に間に合う?」
「間に合う間に合う!だって、準備は後ここだけだよ!みんなは存分にリハーサルをしてくれたら、僕はそれでいいんだ。ほら、残りの分は僕たちでやったら早いよ?」
「姉ちゃんまで……まぁ、二人が言うなら」
「よーし!決まりだね」
ラルムはお面を外しました。その下にあった素顔はレインとエトワの揃いの赤い髪と瞳を持ち、左目に星形のペイントがされていたのです。
「今日もみんなに素敵な夢を見せるために、頑張るよー!」
ここは、人々にとって素敵な夢を見せるサーカス団がいる場所。
道化師三兄弟を中心に、皆は夜の公演に向けて動き出すのでした。
不穏
それはとある日の昼下がりのこと。司書の仕事がひと段落した私は、書庫のカウンター奥にある司書室にてお茶の時間にしようと、ポットのお湯と茶葉を用意していた時のこと。
僅かに司書室の扉が軋む音がして振り返ると、そこにヴァシリー幹部の姿が。彼は相変わらずの無表情だったが、纏っている空気が少しぴりついていた。
機嫌はあまり良くなさそうだ。
「おや、あなたがここに来たということは何かありましたか?」
「………」
私の問いに彼は何も答えない。
こういう時の彼は何を聞いても答えてはくれることはないから、彼が話してくれるのを待つしか無い。
私は笑顔で近くの椅子を手で示す。大人しく彼はそこに座った。
「少し待っていてください。今、ジャスミンティーを用意していますから。茶菓子にはクッキーを用意したんです」
ポットにお湯を入れ、ポットを温めた後に茶葉も入れる。少し蒸らした後にカップに茶を注ぐと、ふわりと花の甘い香りがした。
茶菓子のクッキーを皿に盛り付け、テーブルの中央に置く。その次にヴァシリー幹部の前にジャスミンティーの入ったカップを置く。私も自分の分を用意して席に着くと、ちょうど彼が一口目を飲むところだった。
「……美味い」
「それは良かったです。クッキーもどうぞ食べてみてください」
彼は茶菓子に手を伸ばし、それを口に運ぶ。そして、茶を飲む。私も特に何も話すことはせずにこの静かな空気を味わっていると。
「アスタ」
そう名前を呼ばれた。視線を向けると、彼はいつもは空虚であるその目に怒りを浮かべているようだった。
「どうしました?ヴァシリー幹部」
「……先日、エミールがミルに話しかけたらしい。それでミルは奴から茶会の招待状を受け取ったそうだ」
「それは……いち騎士としては大変名誉なことですね。一般騎士や暗殺者は基本、執行官と話す機会すらありませんから。ですが、あなたとしてはその出来事は面白くないでしょうね」
「ああ。ミルにしては珍しく少し怖がっていたな」
「ミルが?」
私は目を丸くした。私の中でミルのイメージは、誰に対しても分け隔てなく臆することもなく笑顔で接する子だ。そして師匠であり、上司でもあり、育ての親でもあるヴァシリー幹部のことを呼び捨てし、自分の意見をしっかり言う子。
そんな彼女が怖がる相手。余程のことだと思った。
「それであなたはそんなにも怒っているのですね」
「当たり前だ。怒らない方がおかしい」
「怒るということは、あの子のことがそんなにも大事ですか?」
「………」
私の問いに彼は固まった。
どうやら自覚が無かったらしい。「大事……?」と小さく繰り返して、不思議そうな顔をしている。
「自覚無かったんですか?ヴァシリー幹部」
苛立った様子の彼の視線を私は真正面から見据えた。
「私は事実を述べただけですよ。あなたのことですから、初めての感覚に戸惑っていた……と言う感じでは?」
「……………癪だが、その通りだ」
「なら、そのままで良いではありませんか。ミルを大事にしたいと思うのなら。ミルを守りたいと思うのなら、その思いのままに行動すれば良いのですよ」
「…………………………」
彼は少し考えるように口を噤む。しばらくしていつものように笑った。
「確かにお前の言う通りだ。こんなことで悩むなど、俺らしくもない」
「ええ、その通りです」
「あの娘は俺にとって大事な娘だ。俺にいつも面白い考えを見せてくれるあの娘をエミールに壊されるわけにはいかない。ならば俺は師として、親として、あの娘を守ってやらなければな」
「ええ、あなたならきっと出来ますよ」
けれども、ヴァシリー幹部のその発言は執行官同士の対立を招くものになる。それでも今の幹部の目は生き生きとしていた。
人を大事にする。その感情が生まれたのだから、大事にしなければ。彼の相談役としては彼の生まれたその感情を守れるよう助言するのも役目だと思っている。
(……念の為にこれはお姉様のお耳に入れておきましょうか。私としてもヴァシリー幹部のその感情を、ミルを守りたいですから)
茶会の後、伝書ハトを飛ばした。約束の真夜中に私はお姉様の部屋を訪れる。こんこんと扉をノックをする。
「入りなさい」
凛とした声が聞こえた。
「失礼します、お姉様。夜分遅くに申し訳ありません」
「いえ、問題ありませんよ。あなたから連絡をくれるのは珍しいですね。何かありましたか?」
私の腹違いのお姉様……そして、四人いる執行官の一人、サリエル。私が伝書ハトを飛ばした相手である。
ヴァシリー幹部とエミール幹部と同じ立場にあるこの人に私は昼間にあった茶会のことを話した。
「……そうですか。エミールがヴァシリーの弟子にそのような手紙を」
「はい。内容としては何の変哲も無いですが……ヴァシリー幹部は少し怒っていました」
「……エミールは私たち執行官の中でも何を考えているか分からない人物です。同じ立場であっても、警戒する相手ではありますね。ヴァシリーにとって育て親である彼ですが、ヴァシリーは酷く憎んでいるようですし」
「はい。なので、このままでは執行官同士の対立が起こり得るのでは無いかと」
「確かにそうですね。ですが、それはエミールがヴァシリーやミルに危害を加えれば、確実に起こるでしょう。しかし、同胞に刃を向けると言うことは騎士団の規律違反になる。あの二人に手を出せば、エミールは騎士団全てを敵に回すことになります」
「ですが……エミール幹部は規律違反を必要があれば破りそうな相手です。エミール幹部には一度しかお会いしたことありませんが、私の目には好奇心を満たすためなら何でもするように見えました」
「その考えはあながち間違いではありませんよ、アスタ。でも、そうですね……私たちとて、同胞を攻撃するようなことはしたくありません。しばらくはラファエルに動向を探るよう伝えておきましょう。それで何事も起こらなければ良いのですが」
夜明け前
夜明け前のこと。ミルは早くに目が覚めて、中庭に来ていた。
(うーん……今日は何も無いのに、早くに目が覚めちゃったな……)
あくびを噛み殺して、中庭のベンチに腰掛ける。秋が深まるこの季節の夜明け前はかなり冷え込むようになっていた。着ていたカーディガンを引っ張り、身を縮こめてミルは空を見上げる。薄く明るくなっていく空には白い星が淡い光を放っていた。
(……綺麗、だな)
「!」
ふと、気配を感じて振り返る。少し離れたところに白い服の男が立っていた。静かに微笑んでミルを見つめている。
「おや、私に気づくとは流石だね。それだけあの子が気にかけている……少し、妬けてしまうな。あの子が私に向けるのはいつも痛々しいくらいの殺意と憎悪だというのに」
(……エミール執行官)
「うん?だんまりかい?耳が聞こえていないのか……それとも、話す口が無いのかな?」
微笑みながら話すエミール。ミルは「……いえ、失礼いたしました」と頭を下げる。
「少し……驚いただけです。エミール執行官」
「そうかい。まぁ、いい。とりあえず、お前にあるものを渡したくてね」
そう言ってエミールは赤い封筒をミルに差し出す。
「これは?」
「今度、ヴァシリーと一緒に北の支部へおいで。そこで茶会をしよう。師弟関係を結んだお前たちのことを私は知りたいんだ」
「……茶会を?」
「ああ。私はヴァシリーの育て親ではあるが、あれには尊敬の念を抱かれたことは一度もなくてね。もちろん、私もあれに大事な弟子と思ったことは無いが」
微笑みながら淡々とエミールは言う。それに対してミルは背筋が凍り、今にも震えそうになったが必死に耐えた。
(……普通、じゃない。どうして拾った子供に対してそんなことを)
「ん?どうした?青い顔をして」
「……いえ、何でもございません。ただ、私の師は気まぐれな性格ですから、エミール執行官の招待に応じるかは確約しかねますが」
「ああ、別に構わないさ。お前だけでも来てくれたら私は歓迎するよ。あれがどうしてお前に目をかけるようになったのか、私は知りたい」
口元こそ笑っているが、その目は氷のように冷えている。ミルに向けられたその微笑みは厚意ではなく、殺意そのもの。
エミールは音も無くミルに近づくと、無遠慮にその顎を掴んで視線を合わせる。
「見た感じはただの小娘だというのにな」
「……何のつもりですか?」
「ふうん。ついさっきまで青い顔をしていたくせに、気丈な一面もあるのか。まるで猫だね」
にこりと笑ってエミールはミルの顔から手を離す。静かにミルはエミールを睨み、手の中の封筒を懐にしまう。
「ではね。返事を期待しているよ」
ひらりと手を振って、エミールは立ち去った。その場に残ったミルは静かに息を吐くと、夜空を見上げた。
(夜明けは気分が晴れるものなのに。あの方のおかげで、憂鬱な気持ち……)
小さなくしゃみを一つ。ミルは身体を小さく震わせて、中庭を後にした。