つるぎのまい
戦場でいつも楽しそうに剣を振るう男がいる。踊るように両手に持ったレイピアで敵を次々に屠る。血飛沫の中で奴は楽しげに笑っていた。
それは紛れもなく私が拾ったヴァシリーなのだが、何故、奴がこうも楽しげに敵を屠るのか、私には理解が出来ない。何せ、私は奴と同じように躊躇いなく敵を殺せるが、あんなふうに笑えたことは無い。
(……何が楽しくて笑っている?)
剣の使い方は私が教えた。だから、奴の振るう剣の使い方はまるで舞を舞うように美しく、隙が無い。当然、私の剣の扱い方も同じだ。敵の見惚れたような顔を見ながら剣を振り下ろすのは、悪くないと感じる。が、笑顔を浮かぶところまではいかない。
面白くない。何故、あいつは笑っている?それに私が北の支部に移ってから数年後に拾った娘にも随分と気をかけている。ヴァシリーの背後から迫る敵を次々に屠っている。
やはりと言うべきか、娘の短剣の扱い方は洗練されたもので、隙が無い。何処となくヴァシリーの剣の扱い方と似ていた。
(……よく、似ている)
それだけでヴァシリーはあの娘に執着していることがよく分かる。あの娘を見つける前のヴァシリーは何に対しても無関心で、私の言うことを程よく聞く子だった。もっとも……奴は私のことが憎いらしく、よく私を殺そうとしてきたが。
だが、今のヴァシリーに昔のような貪欲な殺意は何処にも無い。あの娘が原因だろう。
(面白くないな。何故、ヴァシリーが私には無いものをすべて持っている?それに今のヴァシリーは随分と腑抜けてしまった。それはあの娘が原因か?)
そうこうしているうちに戦いが終わったらしい。私の視線に気づいたのか、ヴァシリーは不快そうに眉を顰め、私の視線から隠すように娘を抱き寄せた。
「……随分、剣の扱いが上手くなったね。ヴァシリー?まるで舞を舞っているように美しく、隙が無かったよ」
口元に笑みを浮かべてそう言えば、ヴァシリーは益々不機嫌そうにした。
「楽しくもないくせに何故笑う?エミール。先ほどまで殺すような視線を俺たちに向けていたが」
「おや、気づいていたのかい。お前が楽しそうに笑っているものだから、お前の師としては喜ばしいと思ったわけだが」
「……思っていないことをつらつらと話す口だな」
奴は呆れたように息を吐き、傍にいた娘に「行くぞ」と声をかけ、私の前から立ち去る。娘は少し不思議そうにこちらを見た後、軽く会釈をして去って行った。
「ふむ……」
あの娘がヴァシリーに影響を与えたのなら、私にはどうだろう?
ふと、そんな考えが浮かぶ。あの娘がヴァシリーを変えたのなら、私にも何かしらの変化をもたらしてくれるのではないかと。
なら、それを実現するには……。
「あの娘を一度茶会へ招こうか。そうしたら、私にとって何か良いものを見せてくれるだろう」
香水
「ヴァシリーはいつもいい香りがするよね」
「……何だ、藪から棒に」
鍛錬の後、部屋に戻ってミルの淹れた茶を飲んでいた時にミルがそんなことを言い出した。
確かに嗜み程度に白檀の香を部屋で焚くことが多い。その香りが服や髪に染み付いているのだろう。試しに服の袖をすん、と嗅いではみるが香りはしない。
「ほら、いい香りがすると落ち着くでしょ?私もその白檀の香を焚いてみたいなぁ……なんて」
目を輝かせながら娘はそう言う。俺はカップを置き、腕を組んで目の前の娘を見つめる。
「いや、お前に白檀の香りは合わんな」
「えぇ〜……」
「それに香を焚く、ということは煙が出るということだ。それで喘息の発作を引き起こすこともある」
「そうなの?それは任務に支障が出るから嫌だな……」
「ああ。だから、香の代わりに別のものを後日用意してやろう」
「別のもの?」
首を傾げるミルに俺は手招きをする。席から立って、ミルは俺の側まで歩いてくる。腕を引いて、その小柄な身体を腕の中に閉じ込める。
「それは渡す時までの楽しみにとっておけ。いいな?」
「うん、分かった」
褒めるように頭を撫でてやると、ミルは嬉しそうに目を細めてこちらに全身を預けてくる。
まるで猫のようだ。中庭によく現れる野良猫にやるように顎元を指先で優しく撫でてやれば「猫じゃない」と軽く睨まれる。
「おや、先ほどまでは懐いていたのに……今は違うか?」
「そうじゃないけど……猫じゃない」
ミルの拗ねたような顔に対して、口角が自然とあがる。
「それはすまなかった。どうしたらお前の機嫌は治る?」
「……絶対に申し訳ないと思ってないでしょ」
「思っていない」
「……」
呆れたように息を吐かれた。しかし、娘が俺の腕の中から抜け出す素振りはない。
「どうした?呆れたならここから抜け出せば良いだろう?」
「申し訳ないと思うのなら、ここにいさせて。この白檀の香りを味わいたいの」
「いいだろう。好きなだけここにいるといい」
心地良さそうに擦り寄ってくる娘の頭を撫でる。
いろんなことを言いはするが、結局は俺のもとからこの娘は離れられない。
だが、それで良い。この娘が俺のもとから離れられなくなれば良い。俺がこの娘のことを常に思うように、ミルも同じように常に俺のことを考えたら良い。
そうじゃないと不平等だろう?
数日後。
任務終わりに私はヴァシリーに呼び出された。彼の部屋に訪れると、白檀の香りがする。殺風景な部屋に置かれた簡素なテーブルの上にお香が置かれていた。そこから煙がゆらゆらと細い線を出している。
「来たか。そら、例のものだ」
寝台に腰掛けていたヴァシリーが小さなものを投げてくる。受け止めて、見ると……それはシンプルなデザインのガラス瓶だ。中に水のようなものがある。
「これは?」
「香水、というものだ。先日お前に合うものを用意してやると言っただろう?首元に付けてみろ」
「……ありがとう、ヴァシリー」
キャップを外し、軽く首元に香水を振りかける。ふわりと林檎とムスクの香りが鼻腔をくすぐった。
「良い香り……」
「気に入ったか?」
「ええ、とても!ありがとう!」
甘すぎないその香りは私の好みだった。ヴァシリーの方を見れば、寝台から立ち上がってテーブルの上に置かれた香を消していた。
「あれ?何で消すの?」
「香りが混ざるだろう。白檀はいつでも楽しめるが、お前のその香りはお前が近くにいないとわからない」
ヴァシリーは私の元まで歩いてくる。そうして、少し屈むと私の首元に顔を寄せた。
「くすぐったいよ、ヴァシリー」
「我慢しろ」
「えぇ〜……」
しばらくした後、ヴァシリーは首元から離れた。そうして満足そうに笑うと私のことをぎゅっと抱きしめる。
「……ヴァシリー?」
「またその香りを付けてこい。俺もその香りが気に入ったからな」
「もちろん。付けてくるよ」
この香りをつけていれば、いつでもヴァシリーのことを思い出せる。それが何だか嬉しくて、大事な師の腕の中で私は笑っていた。
愛し子に
「サルム。こちらへおいで」
とある日の夜。魔女様の部屋に入った僕はベッドの上に座る魔女様に手招きされる。優しいその声に僕の心がとろりと溶けていくような緩やかで、穏やかな気持ち。
魔女様の足元に跪けば、魔女様は「こっちよ」と言って自身の隣を指差す。
「……魔女様。従属を寝台の上に招くのはどうなの?」
「あら、私が許可しているからいいじゃない。さぁ、おいで」
手招きされて、僕はおとなしく魔女様の隣に座る。魔女様は僕の頭を撫でる。いい子、いい子と言われて、喉が勝手にきゅぅ、と鳴いた。
もっと、もっと褒めてほしい。僕を見て。
僕のことを愛してほしい。
「嬉しい?」
「……うん」
恥ずかしくて思わず俯くと、魔女様の細い指が僕の顎を優しく掴む。そのまま視線が魔女様の青い瞳と合う。
「ふふ。可愛いね、サルム」
「僕のことを揶揄わないでくれるかい?」
「私は本当のことを言っているだけよ?」
にこりと微笑む魔女様。
その青い瞳をじっと見つめていると、心の奥の奥まで見透かされそうな気がした。僕が魔女様に向けているこの愛情も欲望も。この全てが魔女様に知られてしまうのは怖いと思うけれど、知ってほしいと思っている僕もいる。
「可愛いね、サルム。私の従属。ずっと私の側にいてくれるでしょう?」
「もちろん。僕は君の側にいる。何があってもね」
「ふふ、ありがとう」
魔女様が僕のことを抱きしめる。
それがまた嬉しくて、僕の喉が勝手にきゅぅ、とまた鳴いた。
「ねぇ、魔女様」
「なに?」
「魔女様の言葉一つ一つが僕の心を満たしてくれるんだよ。僕はそれがものすごく心地良いんだ」
「うん、知っているよ」
「魔女様に従うのは、従属としての喜びを感じる。でもね、褒められたらもっと嬉しいんだ」
「そうね」
魔女様の温もりに包まれて、僕の頭はまるで水の中にいるかのようにふわふわと浮かれていた。僕の両手は魔女様の肩を掴んで、彼女を少しだけ離して、魔女様と目を合わせる。
「どうしたの?」
「魔女様」
「?」
「ねぇ、今夜は沢山僕に命令して?抱きしめてあげるし、キスもしてあげる。愛の言葉が欲しいなら、沢山囁いてあげる」
「その前に、渡さなくてはいけないものがあるの。左手を出してくれる?」
言われるがまま、僕は左手を差し出す。魔女様は僕の左中指に深い青色の宝石が嵌められたシルバーのリングを嵌めた。
「これは……」
「大切な君に、私からの贈り物。私の魔力を込めたお守りよ。大事にしてくれる?」
「もちろんだよ、魔女様」
僕が返事をすれば、魔女様は笑って懐からもう一つ指輪を取り出した。デザインも僕のものと同じで、少し小さめの指輪だ。
「魔女様も着けるの?」
「ええ。だって、お揃いじゃないと嫌でしょう?」
そう言って魔女様は左中指にその指輪を嵌める。細くて白い指に青い宝石がよく映えていた。
魔女様のお揃いのものがあるというだけで、気分が高揚する。自分で思っているよりも僕は魔女様に心酔しているし、魔女様のことが好きなのだと感じる。
僕は魔女様の左手を取り、手を繋ぐ。僕の左手には揃いの指輪が光っていた。
「その指輪、魔女様によく似合ってる」
海の陽光
海の中から見る日の光は優しい光だ。暗く冷たい海の中をぼんやりと照らして、その輪郭はゆらゆらと揺れている。
(あたたかいな……)
海の精霊の頃なら、この美しく柔らかな光を見ることはできなかった。日の光の温度も感じることはなかった。
海の流れもとても穏やかで、僕を包み込むように優しく流れていく。時折、僕の真横を小魚の群れが通り抜けていく。僕が手を差し出せばその内の一匹が、僕の手のひらに。
魔女様と同じ深い青色の身体をした小魚だ。
「君、僕のところにいると仲間に置いていかれてしまうよ?」
小魚はすぐに僕の手のひらから離れて、仲間のもとへと去って行った。それからしばらくすると、遠くから鯨の声が聞こえてきた。
聞こえた方向へ顔を向けると少し離れたところに二頭の鯨の姿があった。その後ろをついて行くように一頭の小さな鯨が泳いでいる。
(親子か……)
その親子の近くまで泳いでいく。すると子供の鯨が僕に気づいて、じゃれついてくる。遊んで、というように差し出された頭を僕は優しく撫でてやる。柔らかく滑らかなその皮膚を僕は撫でる。子供の鯨が嬉しそうに声を出す。
「僕にじゃれつくなんてかわいいね」
少し離れたところで親の鯨が僕たちのことを見ていた。その目はとても穏やかで、まるで子供が楽しそうにしているのを見守っているようだった。
「ふふ、本当にかわいいね。ほら、お父さんとお母さんが待っているよ。そろそろ行っておいで」
また遊ぼうね、と言って頭を撫でると、子供の鯨は悠然と泳いで両親のもとへ戻っていった。鯨の親子の姿が見えなくなると青い海の中は僕だけになった。
水面を仰ぐと、日の光は変わらずそこにある。その輪郭はゆらゆらとぼやけている。暗い海の底まで届くことのない優しい光。月とは違うあたたかい光。
(……綺麗だな)
ゆらゆら。ゆらゆら。
あたたかな光と波に包まれて、ゆっくりと目を閉じる。
こぽぽ、こぽぽ、と。小魚が泡を吐き出す音が聞こえた。遠くでまた鯨の声が聞こえた。
(このまま、眠ってしまおうか……)
どれくらい時間が経ったのだろう。目を開けると、日は少し傾いていた。海の中も青から藍色へ、変化していく。
(そろそろ戻らないと……)
「あれ?人魚ちゃん、そんなところで何してんの?」
その声に振り返るとアルバートの姿があった。僕がここにいるのが意外なのか、いつもの余裕のある笑みは何処にも無い。むしろ驚いているようだ。
「別に。ここでぼんやりとしていただけ」
「ふーん?いつもならお姉さまの側から離れたりしないのに、珍しいな?」
「たまたまそういう気分だったんだ」
僕の答えにアルバートはますます不思議そうに首を傾げる。
「まぁそんなこともあるよな〜。それで?ここに来て何か収穫とかあったわけ?」
「もちろん。僕にとってはね」
「なら、俺にも教えてよ♪」
「それは嫌だ」
「酷くない!?」
海の魔人
海の温度が高くなるこの頃。人の世界で言う夏という季節。この時期になって水面に上がれば沢山の人間が海水浴を楽しんでいるのが、目に映る。
(……随分と楽しそうにしてるじゃん)
遠くにある砂浜にいる人間たちを眺めながら、俺はそう思った。楽しそうにはしゃぐ声があちこちから聞こえる。
あいつらは考えもしないんだろうなぁ。お前らの知識には無い、未知の存在である俺たちのことを。見つかったら怖がられるか、好奇心から捕まえに来るのかもしれない。
(変なの。こんなところにいてもしょうがねえし、海の底に戻ってお姉さまと人魚ちゃんと遊ぼうかな)
踵を返して潜ろうとした時、ふと人間たちのいる砂浜から少し離れた岩礁に一つの人影を見た。そいつは微動だにせず、何処かぼんやりした様子で海を見ている気がした。
そうだ。一人きりなら、少し脅かしてやろう♪
些細なイタズラ心で俺は岩礁へ向かった。
一人でこの海に来たけれど、何もすることが無い。ただこうしてぼんやりと海を眺めるだけ。
海は好きだ。わざわざ海の中に入らなくても、聞こえてくる波の音や潮の香り。夏は海の青い色が太陽の光に反射して、時折白く光る。まるで宝石のようで、見ているだけで幸せ。
「ねぇ、そこのおじょーさん」
「え?」
声が聞こえたのは海の方向。目を向けると、岩礁に上半身だけ乗り出した水色の髪に青い瞳を持った綺麗な男の人がそこにいた。
いつの間に近づいていたんだろう。泳ぐ時に聞こえるしぶきの音が聞こえなかった。
「はぁい♪こんなところに一人だけど、何してんの?」
「……あの、別に何もしていません。ここにいて海を眺めているだけです」
「ふぅん?あいつらみたいに泳いだりしないの?」
「眺めるだけで良いんです。確かに海は表面上はとても綺麗だけど、その中は何がいるか分からない未知の世界。そんなところに踏み込めるほど度胸は無いです」
私の言葉に男の人は楽しそうに笑っていた。
「くくっ、なるほどねぇ。じゃあさ、俺がもし人魚だって言ったらお前は信じてくれる?」
「……海の中に何がいるかは分からない。信じる、とまではいかなくても、人魚とかそういう不思議な存在はいると思ってます」
「そっか〜♪お前、面白いね。他の人間なら真っ向から否定すんのにさ。面白い答えを聞かせてくれたおじょーさんに、俺から良いものを見せてやるよ」
そう言ってその人は私に向かって手を差し出した。相手は水着でも着ているから手を差し出せるんだろうけれど、今の私は白のワンピース姿だ。
「……服が濡れてしまいます」
「大丈夫だって♪ほら、手を出してみ?」
あざとい感じで片目を瞑ったその人。普通なら嫌がるはずなのに……この人なら良いかもしれないと思っている私がいる。
私が手を伸ばせば、相手から私の手を取ってくれた。
「さぁ、こっちに来な?」
ざぶん。
海に飛び込んだせいで、私の視界が白い波飛沫で染まる。唇に一瞬冷たくて柔らかいものが当たった気がする。やがて波飛沫が消えると、目の前の男の人が笑っていた。しかし、その下半身は青い尾鰭に覆われている。
「ようこそ♪海の中へ。息を止める必要はないよん♪ほら、普通に呼吸が出来るだろ?」
「……本当だ」
「さぁ、お嬢さん。俺と一緒に海中デートでもしない?お前にとって忘れられない日にしてやることを、約束するからさ♡」
目の前にいる人じゃない存在。けれど、その美しさに私はすっかり魅了されていた。握られた人魚の手を握り返して、私は答える。
「連れて行ってください」
「了解♪このアルバートに任せておいて♡」
その夕方に、少女がいた浜辺には彼女の両親と友人、そして警察が彼女の行方を探していた。
昼頃に海に出かけると言った娘が一向に帰ってこないことを両親が心配したからだ。しかし、砂浜や海の中、何処を探しても少女の姿や所持品の一つも見つからなかった。
昔から海の魔人が暮らすこの海の中には、彼に魅了されてそのまま行方不明になる人が続出している。
少女はあの日から五年経った今も行方不明のままである。人々はこう言った。
「あの子は海の魔人に連れ去られたのだ」と。