香水
「ヴァシリーはいつもいい香りがするよね」
「……何だ、藪から棒に」
鍛錬の後、部屋に戻ってミルの淹れた茶を飲んでいた時にミルがそんなことを言い出した。
確かに嗜み程度に白檀の香を部屋で焚くことが多い。その香りが服や髪に染み付いているのだろう。試しに服の袖をすん、と嗅いではみるが香りはしない。
「ほら、いい香りがすると落ち着くでしょ?私もその白檀の香を焚いてみたいなぁ……なんて」
目を輝かせながら娘はそう言う。俺はカップを置き、腕を組んで目の前の娘を見つめる。
「いや、お前に白檀の香りは合わんな」
「えぇ〜……」
「それに香を焚く、ということは煙が出るということだ。それで喘息の発作を引き起こすこともある」
「そうなの?それは任務に支障が出るから嫌だな……」
「ああ。だから、香の代わりに別のものを後日用意してやろう」
「別のもの?」
首を傾げるミルに俺は手招きをする。席から立って、ミルは俺の側まで歩いてくる。腕を引いて、その小柄な身体を腕の中に閉じ込める。
「それは渡す時までの楽しみにとっておけ。いいな?」
「うん、分かった」
褒めるように頭を撫でてやると、ミルは嬉しそうに目を細めてこちらに全身を預けてくる。
まるで猫のようだ。中庭によく現れる野良猫にやるように顎元を指先で優しく撫でてやれば「猫じゃない」と軽く睨まれる。
「おや、先ほどまでは懐いていたのに……今は違うか?」
「そうじゃないけど……猫じゃない」
ミルの拗ねたような顔に対して、口角が自然とあがる。
「それはすまなかった。どうしたらお前の機嫌は治る?」
「……絶対に申し訳ないと思ってないでしょ」
「思っていない」
「……」
呆れたように息を吐かれた。しかし、娘が俺の腕の中から抜け出す素振りはない。
「どうした?呆れたならここから抜け出せば良いだろう?」
「申し訳ないと思うのなら、ここにいさせて。この白檀の香りを味わいたいの」
「いいだろう。好きなだけここにいるといい」
心地良さそうに擦り寄ってくる娘の頭を撫でる。
いろんなことを言いはするが、結局は俺のもとからこの娘は離れられない。
だが、それで良い。この娘が俺のもとから離れられなくなれば良い。俺がこの娘のことを常に思うように、ミルも同じように常に俺のことを考えたら良い。
そうじゃないと不平等だろう?
数日後。
任務終わりに私はヴァシリーに呼び出された。彼の部屋に訪れると、白檀の香りがする。殺風景な部屋に置かれた簡素なテーブルの上にお香が置かれていた。そこから煙がゆらゆらと細い線を出している。
「来たか。そら、例のものだ」
寝台に腰掛けていたヴァシリーが小さなものを投げてくる。受け止めて、見ると……それはシンプルなデザインのガラス瓶だ。中に水のようなものがある。
「これは?」
「香水、というものだ。先日お前に合うものを用意してやると言っただろう?首元に付けてみろ」
「……ありがとう、ヴァシリー」
キャップを外し、軽く首元に香水を振りかける。ふわりと林檎とムスクの香りが鼻腔をくすぐった。
「良い香り……」
「気に入ったか?」
「ええ、とても!ありがとう!」
甘すぎないその香りは私の好みだった。ヴァシリーの方を見れば、寝台から立ち上がってテーブルの上に置かれた香を消していた。
「あれ?何で消すの?」
「香りが混ざるだろう。白檀はいつでも楽しめるが、お前のその香りはお前が近くにいないとわからない」
ヴァシリーは私の元まで歩いてくる。そうして、少し屈むと私の首元に顔を寄せた。
「くすぐったいよ、ヴァシリー」
「我慢しろ」
「えぇ〜……」
しばらくした後、ヴァシリーは首元から離れた。そうして満足そうに笑うと私のことをぎゅっと抱きしめる。
「……ヴァシリー?」
「またその香りを付けてこい。俺もその香りが気に入ったからな」
「もちろん。付けてくるよ」
この香りをつけていれば、いつでもヴァシリーのことを思い出せる。それが何だか嬉しくて、大事な師の腕の中で私は笑っていた。
8/30/2024, 1:18:28 PM