なこさか

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 海の魔人


 海の温度が高くなるこの頃。人の世界で言う夏という季節。この時期になって水面に上がれば沢山の人間が海水浴を楽しんでいるのが、目に映る。

 (……随分と楽しそうにしてるじゃん)

 遠くにある砂浜にいる人間たちを眺めながら、俺はそう思った。楽しそうにはしゃぐ声があちこちから聞こえる。
 あいつらは考えもしないんだろうなぁ。お前らの知識には無い、未知の存在である俺たちのことを。見つかったら怖がられるか、好奇心から捕まえに来るのかもしれない。

 (変なの。こんなところにいてもしょうがねえし、海の底に戻ってお姉さまと人魚ちゃんと遊ぼうかな)

 踵を返して潜ろうとした時、ふと人間たちのいる砂浜から少し離れた岩礁に一つの人影を見た。そいつは微動だにせず、何処かぼんやりした様子で海を見ている気がした。
 そうだ。一人きりなら、少し脅かしてやろう♪
 些細なイタズラ心で俺は岩礁へ向かった。


 一人でこの海に来たけれど、何もすることが無い。ただこうしてぼんやりと海を眺めるだけ。
 海は好きだ。わざわざ海の中に入らなくても、聞こえてくる波の音や潮の香り。夏は海の青い色が太陽の光に反射して、時折白く光る。まるで宝石のようで、見ているだけで幸せ。

 「ねぇ、そこのおじょーさん」

 「え?」

 声が聞こえたのは海の方向。目を向けると、岩礁に上半身だけ乗り出した水色の髪に青い瞳を持った綺麗な男の人がそこにいた。
 いつの間に近づいていたんだろう。泳ぐ時に聞こえるしぶきの音が聞こえなかった。

 「はぁい♪こんなところに一人だけど、何してんの?」

 「……あの、別に何もしていません。ここにいて海を眺めているだけです」

 「ふぅん?あいつらみたいに泳いだりしないの?」

 「眺めるだけで良いんです。確かに海は表面上はとても綺麗だけど、その中は何がいるか分からない未知の世界。そんなところに踏み込めるほど度胸は無いです」

 私の言葉に男の人は楽しそうに笑っていた。

 「くくっ、なるほどねぇ。じゃあさ、俺がもし人魚だって言ったらお前は信じてくれる?」

 「……海の中に何がいるかは分からない。信じる、とまではいかなくても、人魚とかそういう不思議な存在はいると思ってます」

 「そっか〜♪お前、面白いね。他の人間なら真っ向から否定すんのにさ。面白い答えを聞かせてくれたおじょーさんに、俺から良いものを見せてやるよ」

 そう言ってその人は私に向かって手を差し出した。相手は水着でも着ているから手を差し出せるんだろうけれど、今の私は白のワンピース姿だ。

 「……服が濡れてしまいます」

 「大丈夫だって♪ほら、手を出してみ?」

 あざとい感じで片目を瞑ったその人。普通なら嫌がるはずなのに……この人なら良いかもしれないと思っている私がいる。
 私が手を伸ばせば、相手から私の手を取ってくれた。

 「さぁ、こっちに来な?」

 ざぶん。
 海に飛び込んだせいで、私の視界が白い波飛沫で染まる。唇に一瞬冷たくて柔らかいものが当たった気がする。やがて波飛沫が消えると、目の前の男の人が笑っていた。しかし、その下半身は青い尾鰭に覆われている。

 「ようこそ♪海の中へ。息を止める必要はないよん♪ほら、普通に呼吸が出来るだろ?」

 「……本当だ」

 「さぁ、お嬢さん。俺と一緒に海中デートでもしない?お前にとって忘れられない日にしてやることを、約束するからさ♡」

 目の前にいる人じゃない存在。けれど、その美しさに私はすっかり魅了されていた。握られた人魚の手を握り返して、私は答える。

 「連れて行ってください」

 「了解♪このアルバートに任せておいて♡」



 その夕方に、少女がいた浜辺には彼女の両親と友人、そして警察が彼女の行方を探していた。
 昼頃に海に出かけると言った娘が一向に帰ってこないことを両親が心配したからだ。しかし、砂浜や海の中、何処を探しても少女の姿や所持品の一つも見つからなかった。
 昔から海の魔人が暮らすこの海の中には、彼に魅了されてそのまま行方不明になる人が続出している。

 少女はあの日から五年経った今も行方不明のままである。人々はこう言った。


 「あの子は海の魔人に連れ去られたのだ」と。

6/28/2024, 11:03:08 PM