藍田なつめ

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1/12/2026, 7:23:18 PM


 吸血鬼はよく眠る。
 睡眠をとって脳を休めるというよりは、退屈になって寝ていることが多い。それでちっとも外に出ない個体を見た人間との間で『吸血鬼は日光を浴びると死ぬ』という認識の齟齬が生まれたんじゃないか、と俺は思っている。
 まだシンヤと同じベッドで寝ていたころ、うっかり長いこと寝てしまったことがある。人間の子供の無限の体力に付き合って疲れていたのかもしれないし、はるか昔の思い出に耽溺したくなるような何かがあったのかもしれない。とにかく、目が覚めたら十二時間以上経っていて、腕の中にいたシンヤは家の中のどこにもいなかった。そのことを受け入れた時、俺は
「ユキ起きて」
「うぐっ」
 起きた。目を開けるとリビングの天井が見えた。こたつで寝ていたのだ。傍らにはルビンが汁椀をすすりながら真っ黒く座り込んでいる。トレードマークのコードを脱ぐと、存外印象はシンプルだ。黒のタートルネックにスキニーパンツ。ベルトのバックルだけが銀に光っている。
「……何飲んでんの」
「しじみの味噌汁。こたつの上」
 俺の分もあった。寝起きと寝る前までのアルコールでくらくらする頭に濃い味噌の味が染みていく。うまい。
「シンヤは?」
「知らない。起きたらいなかった。よくある?」
「よくある」
 ベランダを見ると洗濯物がはためいている。きちんとやること、というかやるように定められたことはきちんとやる子に育った。俺の手腕。
「なんかうなされてたけど」
 大丈夫? とルビンが顔を覗き込んできた。心配にしては起こす手段が手荒すぎるだろうが、と遅れて思ったが、色んな力加減ができていないのは昔からだ。
「変な夢でも見た?」
「まあ」
 目が覚めたらシンヤがいなかった。あの時はまだあいつの母親がいなくなってすぐで、俺もシンヤも慣れていなかった。外を探し回って、夕方ようやく近くの公園で吐くほど泣いているのを見つけた。ふたりで泣きながら帰って駆けつけたルビンに迷惑をかけたところまで含めて、トップクラスの悪夢だ。
 こんなこと二度とごめんだという気持ちと、ルビンのしつこい説得もあって、ほどなくしてシンヤをルビンに預けて、俺は思う存分眠り続けた。腕の中にあった温かさと重さを、起きている時間の分だけ忘れていく気がして。
「昨日の話さあ、考えておいてね」
 ルビンがぼんやりと言った。わかった、とぼんやり返事をする。考える。
 今あの子の重さはどれくらいなんだろうか。
 抱き上げないと俺の歩きについてこられなかった時期、そうしないと動こうとしなかった時期。少しずつ自分の足で歩くようになって、今では俺がいなくてもどこにでもいける。勝手に図書館に行って本を借りてくるし、知らないうちにスーパーに行って俺の嫌いなものを買ってくる。本当に、今ならどこにでも行けるんだろう。
 味噌汁を飲み干して、もう一度こたつに潜り込んだ。これ以上考えたくなかった。
 ルビンが呆れた声で言ったおやすみを遠くに聞いて、もう一度意識を落とした。

1/12/2026, 1:11:57 AM

 インスタントのしじみの味噌汁を卓上に置いて、一人で家を出た。図書館に本を返しに行く、というのは言い訳で、なんとなくひとりになりたかった。ユキと離れたくなくて悶々としていたのに、どうして今ひとりでいるのかわからない。ただ目的地に向けて何も考えずに足を動かす。青い空から差し込む光は温かいのに、空気は肌を刺すように冷たい。
 図書館のガラスの自動ドアが開く。内扉をくぐると、急に暖気が体を包み込んでくるので、毎回ぎょっとしてしまう。何かの間違いのようだ、と思いながらマフラーを外し、コートを脱いで一緒に腕にかける。
 図書館は、広くて、しんとしている。そして、地下に子ども向けのフロアがあって、稀にそこからはしゃいだ声が響いてくる。一階に小さい子どもはほとんどおらず、声もほとんどしない。本棚の間に立っている人たちは、なんだか人というより森を構成する木みたいだ。
 本を返却した後、この森の中を歩く。棚には無数の本が並んでいて、そこに浮かんでいる背表紙の文字たちを眺めるだけで、この森の一部になっていくような感じがする。
「あの」
 きん、と高い声だ。振り返ると、本の間に浮き上がるように鮮烈な赤いコートがそこにあった。ルビンか、と一瞬思い、それにしては背が低い。黒い前髪の下にメガネがあって、その奥から同じく黒い目がこっちを見ていた。
「マフラー」
 言われて見ると、その手にはおれのマフラーが握られていた。どうやら歩いているうちに落としたらしい。気づかなかった。
「ありがとう」
 手を伸ばすと、赤コートの手は震えていた。押し付けるようにマフラーを俺に渡すと、ぱっと踵を返して逃げるように本棚の間を走っていった。くるんと角を曲がったとき、そのコートから何かがぽとんと床に落ちたのが見えた。拾いに来るかと少し待ったが何も来ず、気になったので近づく。落ちていたのは青い手袋だった。拾い上げると、ずいぶん小さい。赤コートの背は俺よりずいぶん低かったし、小さい人間なんだろう。俺は手袋を拾い上げて、どうしようもないのでそのまま持ったまま、森の中を歩いた。
「あれ」
 一〇分、二〇分と歩くと少し疲れてくる。流れ出るように本の閲覧用ソファに辿り着くと、さっき見た黒い頭がそこにあった。後ろから様子を伺うと、膝の上に本を広げていたが、その顔は真っ直ぐ前を見ている。ぼうっと、何が別のものが目の前にあるみたいな目だ。
「あの」
 声をかけると、赤コートは弾かれるようにこちらを見た。その目があまりに敵意に満ちていて、こちらこそ驚いてしまう。睨み上げられていることをとりあえず無視して、手に持った手袋を差し出す。目が丸く見開かれた。
「手袋」
「……」
「落としてたから」
「……」
 黒い目が俺の顔と手袋を三往復した後、そっと手を差し出される。小さい手は不自然なくらいに震えていた。その上に手袋を落とすと、なんかまあ当たり前に、ぽとんと片方が赤コートの膝に落ちる。それがなんだかおかしくて、ふっと笑った。
「なんですか」
 きっと睨まれる。
「なにも。すみません」
 怖かったので、慌てて本の森に帰った。本棚の角を三つ分くらい適当に曲がって、ああ、さっきのあの赤コートもこういう気持ちだったのかとふと思った。

1/10/2026, 5:36:27 PM

 昨日雪が降ったから期待したのに、カーテンをしめているうちに雲は晴れてしまったらしい。今日も寒い。ただ寒い。洗濯物を干し終わった手がかじかんでいる。
「はー」
 ユキとルビンさんはこたつとソファでそれぞれごろごろと眠っている。大人は酒を飲めてずるい。はやく大人になりたい。床に転がっている缶と瓶をそれぞれゴミ袋に放り込んで口を縛った。
 はやく大人になりたい。
「飼い殺し……」
 昨日、うとうとまどろみながらふたりの話を聞いた。おれが起きてるってことは、たぶんルビンさんは気づいていただろう。ユキはどうかな、でもおれがいるところで話をするってことは、俺に聞かれてもいい話だろう。
 このままじゃ、いけないんだろうか。
 自由に働いて、自由に生きる。そう言われても、べつにやりたいことなんてない。今まで通り、自分とユキの服を洗って、掃除をして、料理を作って、本を読んでゲームをして。それじゃいけないんだろうか。でもたしかに、ルビンさんのいる協会は吸血鬼みたいなのを保護する団体らしいから、ルビンさんと(おそらく)同じ人間のおれが、協会に保護されているみたいなこの状態はおかしいのかもしれない。
 昨日行ったスーパーのことを思い出す。それから、よく行く図書館。そういうところには必ず誰かが働いている。ルビンさんだってそうだし、たまに聞こえる石焼き芋の車も、働いている人。この世はもしかして、みんな働いているのか? そう考えたら、健康なおれがなんにもせずに、ユキの近くに居座っているのはおかしいのかもしれない。
「……」
 ユキの近く。
 おれは生まれてこのかた、ユキの近くから離れた記憶がない。昔、一度だけ協会に預けられたらしいが、ユキいわく「お前にあってなさ過ぎた」から引き取りなおしたと聞いている。おれは何にも覚えてないけれど、つまりその、おれは、ここ以外を知らない。雪の降らない冬を知らない。夏しかない場所を知らない。砂漠を、氷の山を、温かい海を知らない。
 ……ダメなんだろうか、知らないままでは。
 ずっとこの町のこの部屋で過ごしている吸血鬼のことを思う。日光に当たったら灰になるという吸血鬼の本を「んなわけないだろ」と言って笑った日のことを。
 俺がいるせいで、ユキは出られる外に出ないのだろうか。
 だとしたら、おれはユキから離れ、自由に生きてどこでも行くべき、なんだろうか。
 まとめ終わった瓶と缶の袋を縛り、もう一度ベランダに出る。飲み過ぎだ。次の瓶と缶の日には袋がもう一つ増えているかもしれない。ベランダの手すりの向こうに目をやった瞬間、強い風が吹いて思わず目を閉じた。冷えた耳が痛む。干した洗濯物がはためいて、柔軟剤が風に溶けて香った。
 風がおさまって、ゆっくり目を開ける。何かの鳥が一羽、遠くの空へ迷いなく飛んでいくのが見えた。

1/9/2026, 6:44:12 PM

 キムチ鍋を山盛り食べ、締めのうどんも飲むように食べ、ルビンの土産のアイスを食べて、シンヤはこたつに入ったままコロリと転がって眠り始めた。無限の体力がある年代で、この速度はまずい。もっと運動とかさせて体力をつけさせた方がいいのではないか。なんか、プールとかにほりこんで。
「促す? あったかね、こんな田舎にジムとか」
「わからん」
 ぐわりとあくびをすると、ルビンは散らかった缶の向こうでコップ酒をあおりながら、老人! とからかってきた。そのとおり、人間からしたら考えられない年代だぞ俺は。
「で、何しにきた」
「雪を見に」
「うそつけ」
「ほんと、半分は」
 細められた眼のうさんくさいこと。まあ声のトーン的に、本当に半分は雪を見にきたのだろう。この男にかかればどこの街のどんな景色も見られるだろうに、わざわざこの町に。
「本題は」
「シンヤのこと」
 俺とルビンがこたつ机を挟んで向かい合い、俺の右手側にシンヤの頭がある。目をやると、閉じられた瞼がこちらに向いていた。ガキの頃から寝顔が変わらない。
「このまま手元に置いておくつもりなのか?」
「どういう意味」
「このまま、青年期の人間を飼い殺しにするのかってこと」
 ルビンのいる協会、稀少生物の保護だか共生だかの団体の対象は、絶滅が危ぶまれる生物のみ。人間のシンヤはそこに入ってこない。
 シンヤが生まれて、しばらくして孤児になったとき、ルビンはしつこく俺を説得した。今のうちに手放した方がいい。その方がその子のためだ──それに最初頷かなかったの理由は意地もあるし、なんとも説明しがたい。それでも一度手放して、それでもまた手元に戻した。小さい人間の集団の中、見たことない顔で固まっているシンヤをそのままにしておけなかったし、その後まる三ヶ月は口がきけなくなった彼を二度と手放そうとは思わなかった。
 飼い殺し。
 言い得て妙だ、と手元の酒をあおる。シンヤの行動範囲は、この町の歩いていける範囲のみ。スーパー、図書館、それからなんだろう。わざわざ山手の、子どもの集団がいるような場所を避けた住処だ。
 学校に行きたいだなんて、言い出したら困るから。
「協会はシンヤを引き取る。教育も仕事も与えられる」
「前それでどうなったか、忘れたか」
「あの頃、この子は小さい子どもだったろ。事情が違うよ」
「違わないよ」
 まっすぐ俺の目を見てくるルビンの、その目尻にシワを見つける。こいつも歳をとった。小さいシンヤを誘拐して逃げまわった俺を、半年かけて見つけだして協会の保護下に戻した、その時の勢いと若さはもうない。プライベートは知らないが、子どものひとりやふたりいるのかもしれない。
「ユキ」
 ルビンの後ろ、カーテンがたわんで、ちょうど夜空に浮かぶ月が見えた。冴え冴え輝く三日月。なああれ今日食べたパンに似てるよなと、腕の中の虚な目の子どもに話しかけたあの日々。
「シンヤには権利がある。どこに行くか、何を学ぶか、どう働いて生きるか。あのころの弱い子どものままじゃないよ」
「……」
「その選択肢を渡さないで、そのままずっと囲っておくのは、傲慢だよ」
 知らねえよ。
 そう言って笑ってやれればいいのに、どうにも上手くできなかった。

1/8/2026, 4:21:38 PM

 歩いて二十分、やっと辿り着いたスーパーはごみごみしていて、おもしろい。とりわけ野菜はいろんな色があって、それだけで色々買いたくなる。おれは持ってきた財布の中身を確認した。そんなにない。思いつきでジャムの瓶を全部買ったりはしないほうがいいけど、まあ今日明日で食いっぱぐれることはないか。
「シンヤくん」
 顔を上げたら目の前が真っ赤で少し驚いた。少し目線を上げると目を細めて笑う男の顔があった。
「ルビンさんだ、久しぶりです」
「はい、お久しぶり。お金足ります?」
「なんとか」
「持ってきたから出しますよ」
「札束出したらレジの人が驚くから、いいです」
「あらそう」
 ルビンさんの脇にあるカゴをとって目の前の野菜コーナーを歩くと、彼はおれの斜め後ろについてきた。目立つ、なあ。この店の誰より高い背も、真っ赤なコートも。
「ルビンさん、ユキから電話来たの?」
「ううん、来てないよ。でもそろそろかなって」
 ルビンさんは、ユキとおれを監視している。
 と言うとルビンさんは「怖くて嫌な言い方だなあ」と言って嫌がるけど、その様子をみてユキが「否定しないじゃん」と言うので、監視はしているらしい。ジャイアントパンダみたいに、吸血鬼っていう絶滅危惧種は監視して保護するんだっていう団体があって、ルビンさんはそれ。だからおれたちにお金くれたり、住むところを確保したり、困りごとがあったら助けてくれたりする。電球切れたけど替えかたわからんとかの簡単なことから、どうしても人間の血が飲みたいですとかの難しいことまで。
 ちなみに前回ルビンさんに電話したのは、真夏の真ん中にエアコンが壊れた時だ。だから夏だ。半年前。あ、白菜が安い。
「そろそろお金なくなるかなってこと? おれたちだいぶつましく生活してたけど」
「倹しいか。相変わらず、シンヤはちょっと変な言葉遣いするね」
「そうかな」
 集団生活をしないからだ、と頭の中のユキが笑った。学校とか、そういうの。おれは行ったことない。そう、人間社会に馴染むためのルールとか最低限の知識とか、そういうのなくて困りましたというときもルビンさんはやってきた。具体的に何をしてくれたのか、おれは全く覚えていないけど。
 ピーマンが安い。でもユキは嫌がるかな。
「本をたくさん読むからだって、ユキが言ってた」
「まあ、悪いことではないからいいんじゃない」
「ちょっと変って言ったのに」
「ちょっと変なほうが面白いし」
 ルビンさんは、いつも同じようなことを言ってはぐらかすので、おれはいつも微妙な気持ちになる。なんでかきゅうりが売り切れてる。キャベツ安いけど白菜カゴに入れたんだよな。別かな。
「お金じゃなくて、雪がね」
「ユキが?」
「降るでしょう、この町は」
 それが好きなんだよね。とルビンさんがちょっと嬉しそうに言った。とはいえ、ルビンさんはいつもこんなんで、何が嘘で何が本当かわからない。まあ今回は本当かな? とおれは思った。同じ意見の人がいるとうれしいからかもしれない。
「ルビンさんも晩御飯食べてく?」
「晩御飯なに?」
「鍋。何味か決めていいよ」
「ほんと? じゃあキムチにしよ」
 豚肉の薄切り、大きいパックをカゴに二つ入れた。おれもユキも肉が食えればとりあえずいいみたいなところあるから。

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