インスタントのしじみの味噌汁を卓上に置いて、一人で家を出た。図書館に本を返しに行く、というのは言い訳で、なんとなくひとりになりたかった。ユキと離れたくなくて悶々としていたのに、どうして今ひとりでいるのかわからない。ただ目的地に向けて何も考えずに足を動かす。青い空から差し込む光は温かいのに、空気は肌を刺すように冷たい。
図書館のガラスの自動ドアが開く。内扉をくぐると、急に暖気が体を包み込んでくるので、毎回ぎょっとしてしまう。何かの間違いのようだ、と思いながらマフラーを外し、コートを脱いで一緒に腕にかける。
図書館は、広くて、しんとしている。そして、地下に子ども向けのフロアがあって、稀にそこからはしゃいだ声が響いてくる。一階に小さい子どもはほとんどおらず、声もほとんどしない。本棚の間に立っている人たちは、なんだか人というより森を構成する木みたいだ。
本を返却した後、この森の中を歩く。棚には無数の本が並んでいて、そこに浮かんでいる背表紙の文字たちを眺めるだけで、この森の一部になっていくような感じがする。
「あの」
きん、と高い声だ。振り返ると、本の間に浮き上がるように鮮烈な赤いコートがそこにあった。ルビンか、と一瞬思い、それにしては背が低い。黒い前髪の下にメガネがあって、その奥から同じく黒い目がこっちを見ていた。
「マフラー」
言われて見ると、その手にはおれのマフラーが握られていた。どうやら歩いているうちに落としたらしい。気づかなかった。
「ありがとう」
手を伸ばすと、赤コートの手は震えていた。押し付けるようにマフラーを俺に渡すと、ぱっと踵を返して逃げるように本棚の間を走っていった。くるんと角を曲がったとき、そのコートから何かがぽとんと床に落ちたのが見えた。拾いに来るかと少し待ったが何も来ず、気になったので近づく。落ちていたのは青い手袋だった。拾い上げると、ずいぶん小さい。赤コートの背は俺よりずいぶん低かったし、小さい人間なんだろう。俺は手袋を拾い上げて、どうしようもないのでそのまま持ったまま、森の中を歩いた。
「あれ」
一〇分、二〇分と歩くと少し疲れてくる。流れ出るように本の閲覧用ソファに辿り着くと、さっき見た黒い頭がそこにあった。後ろから様子を伺うと、膝の上に本を広げていたが、その顔は真っ直ぐ前を見ている。ぼうっと、何が別のものが目の前にあるみたいな目だ。
「あの」
声をかけると、赤コートは弾かれるようにこちらを見た。その目があまりに敵意に満ちていて、こちらこそ驚いてしまう。睨み上げられていることをとりあえず無視して、手に持った手袋を差し出す。目が丸く見開かれた。
「手袋」
「……」
「落としてたから」
「……」
黒い目が俺の顔と手袋を三往復した後、そっと手を差し出される。小さい手は不自然なくらいに震えていた。その上に手袋を落とすと、なんかまあ当たり前に、ぽとんと片方が赤コートの膝に落ちる。それがなんだかおかしくて、ふっと笑った。
「なんですか」
きっと睨まれる。
「なにも。すみません」
怖かったので、慌てて本の森に帰った。本棚の角を三つ分くらい適当に曲がって、ああ、さっきのあの赤コートもこういう気持ちだったのかとふと思った。
1/12/2026, 1:11:57 AM