藍田なつめ

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2/1/2026, 7:04:56 AM

 いた遅いよごめんねえ明日ってあーいやそれは明日でいねえって違うよこれはだってユカがでもほんとに予告が今週のいやなんだっけこれはさほんとウザあそこじゃあと五分でさっきからでもねえ言ってるのにちょっと走らないでおいってるの僕ねえ晩御飯は何食べ見るものすべ
 「大丈夫?」
 無数の声が遠ざかり、一つの声が明確に耳に入る。顔を上げると、アオイがおれの顔を覗き込んでいた。あたりを見回すと、車内におれたちしかいない。電車も停まっている。おれは耳を塞いでいた両手をおそるおそる外した。
「具合悪い?」
「いや……」
 何と言ったらいいのかわからない。とりあえず降りよう、と手を引かれて立ち上がる。駅に着いたのだ。一歩駅に降り立つと、ザワザワとたくさんの音が飛び込んでくる。無数の音、が、思考を遮っ、ていく。
 手を握る。握り返される。あまりに小さな力だ。でもそれに縋るしかできない。何も考えられないまま、引かれるままに歩いた。

「座れる? 座ろう」
 駅の隅の待合椅子に座らされる。あんなにいた人々はどこに行ったんだろう。おかげで、やっと息ができる。
「……人がたくさんいるね」
「そら、駅だから」
「乗ったときはこんなにいなかった」
「途中からたくさん乗ってきたね。まあここ乗り継ぎあるから」
「乗り継ぎ」
「目的の駅に行くために、乗ってるのとは方向が違う別の電車に乗るの。ここはたくさんの路線……方向に行く電車が来る駅だから、その分たくさん人がいる」
「電車がたくさん来るから?」
「そうそう」
 アオイと話していくうち、沸騰しそうだった脳みそがゆっくり冷めていくのを感じる。ふう、と息を吐くとアオイがもう一度「大丈夫?」と訊いた。
「うん……」
「人酔いかな。もうちょっと休んでいく?」
「うん、じゃあ、あとちょっとだけ」
 顔を上げて、改めて辺りを見る。駅の端っこ。今いるところから線路を挟んでひとつ、ふたつ、みっつめに電車が停まっている。電車の端のほう、向こうに数字の書いてある看板。数字を見るに、多分同じような線路がまだ何個もあるんだろう。俺たちがいたような、それから通過してきた町が線路の数、それ以上にある。
「ここから私たちも乗り継ぎして、これよりでっかい駅までいく」
「え」
「そこから特急が出てるの。いける?」
 これより、大きな駅。たぶんその分たくさん人がいる。会話がある。普段、こんなたくさんの会話に飲み込まれることはないのは、単純に周りに人がいないからだ。
 知らなかった。いや、忘れていた? 過去にもこういうことが、人の声に支配されて立ちすくんだことがあるような気がする。
 アオイの表情が、ゆっくり暗くなっていく。
「無理?」
「え?」
「元々、わたしの問題だし。シンヤくんがついてくる必要はないんだ」
「……」
「ごめんね」
 ひょい、とアオイが立ち上がり、それからどこかに歩いて行こうとする。慌ててその手を掴んだ。
「大丈夫、行こう」
 置いていかれても、おれには何もできない。もとの町に帰ることも難しい。
 それに、帰ったところであの家にいられるわけじゃない。
 雪が降った。帰ったら、町から去るルビンさんに着いて行くしかないだろう。ルビンさんはそうした方がいいって言うし、ユキも多分、そう思っている。おれもそうだ。そうしたほうがいい。ユキから離れて、働いて金を稼ぐ。ユキじゃない、吸血鬼じゃない、人間たちの社会に入って生きる。そうしたほうがいい。そうするのが正解。
 立ち上がる。多分間違ってる。
「行こう」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 間違ってるのはわかるし、多分大丈夫じゃないんだけど、そう言った。

1/30/2026, 4:29:10 PM

 電車に乗った記憶がないから勝手がわからないと言うと、アオイは信じられないものを見るような目をして、それから丁寧に切符の買いかたを教えてくれた。
「最近は切符を買う人そんなにいないけどね……」
「そうなんだ」
「タッチで乗るから」
「?」
 じゃあどうするんだろう。言葉にはしなかったが、アオイは本当に電車乗らないんだね、と笑った。いつも見ているのより随分自然な笑みで、すこし安心する。
 駅にはあまり人がいなかったし、電車も似たようなものだ。アオイとおれは隣同士に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を見る。白かった。
「積もってるね」
「うん、積もってる」
 ここから大きな駅まで移動して、そこから特急電車で西に移動するらしい。アオイが昔住んでいた街。海が近くて、魚が美味しい。
 そんな話を聞きながら、おれは景色に目を奪われていた。なんせ(記憶の中では)初めての電車だ。かたん、かたん、という音と振動、流れていく町、街。雪景色はすぐに姿を消し、四角い建物の群れが姿を現す。ベランダにタオルが揺れている。大きな窓の向こうで、黒い格好の人たちが机に向かっている。キャットタワーの上から猫がこちらを見ている。目まぐるしく変わっていく。
 二つ目の駅で、おれたちと同じ年頃の女の子たちが何人も何人も乗ってきて、急に電車の中が騒がしくなった。黒、白、いろんな色の上着の一方で、足元は揃って同じ革靴と黒いスカートだ。きんと響く声があちこちを飛び交う。思わず耳を塞ごうとして、片方の腕が動かないことに気づく。見ると、アオイがおれの腕にしがみついていた。震えている。そういえば、アオイも同じ革靴とスカートだ。
「大丈夫?」
 小声で聞くと、アオイは答えずにぎゅっと腕の力を強くした。アオイの横に座っている妙齢の男性が、ちらりとこちらを見て眉を寄せのが見える。遠くからくすくす笑う声が一瞬聞こえて、それが別の笑い声にかき消された。ゴホン、咳の音。なにか不満を話す声と、それに被せる別の声。ざわざわ、と脳みそが混ぜられるような不快感。腕に縋り付いてくる腕に触れて、目を閉じる。遠く昔に、同じようなことがあった気がする。だとしたら、隣にいたのはおそらくユキだ。
 ユキ。
 心の中で呼ぶ。本の中で読んだおいのりとか、母親を呼ぶ子どもとか、そういうのはこういう気持ちだったんだろうか。ユキ。そういえば、アオイの目指す街はどれくらい遠いんだろう。晩飯の準備に間に合うんだろうか。間に合わなかったら、と考えて、物語の中の人々に思考が移る。家を抜け出し、夜を走る。故郷を出てたどり着いた先で身を立てる。そうやって、物語が進んでいく。
 うっすら目を開くと、相変わらずいろんな色が、それぞれの意思を持って生きていて、その合間から流れていく景色が見えた。
 進んでいく。どこかに。

1/29/2026, 9:37:50 AM

 目が覚めたら、横でユキが寝ていてぎょっとした。眉間に皺がよっていて、いや、そらこんな寒い中布団もかけずに寝たら魘されるよと思う。自分はいつもこたつで寝たら風邪ひくとかいうくせに、この吸血鬼は。というか、吸血鬼って風邪もあんまりひかないんだろうか。記憶の中で、ユキが体調を崩したところは見たことがない。
「さむ」
 布団から這い出て、掛け布団はユキにかけてやる。敷布団は畳んで枕と一緒に押し入れへ。自分の部屋からリビングに移動して、まずいつも通りにカーテンを開ける。
 真っ白だった。
「おお……」
 ついに積もったんだ。カーテンを閉じたときは降ってなかったから、夜中に降って積もったんだろう。空に雲の気配はほとんどないから、これは今日も寒くなるだろうな。
 さて、と部屋を見渡す。朝やることはルーティン化している。洗濯物まわして、朝ごはんを作り、食べて、洗濯物を干す。空いた時間に床を軽く掃除して、くらいまでが朝。終わったら本を読む。買い物に行く。ご飯を作る。食べる。日によって図書館に行ったり、散歩したり。ユキのゲームを一緒にやったりもする。
「あ、ない」
 読む本がない。だから今日は図書館に行こう。
 時間は無限にあるのに、本はそれでも読みきれないほどある。おかげでおれは一生退屈しないんだろう。

 図書館に行くたびに、アオイに会う。会うと話さなければいけないが、おれが提供できる話題はそんなに多くないので、ほとんどアオイが話すままに任せていた。アオイの両親はアオイを理解しない。クラスメイトや教師もそうだ。だからアオイは生きづらくしている。そういう話を週に一度か二度、会うたびに聞いていた。
 話される分には構わない。アオイが嬉しそうにするからだ。けれど、今日は違った。
「……シンヤくん」
 いつもの赤いコートを着たアオイは、おれが図書館に着くとすでにいた。多分、開館からいたんだと思う。小さく震えていた。
「どうしたの、それ」
 いつもより青白い顔の中で、頬が赤く腫れていた。叩かれたの、と震えた声でアオイが言う。
「学校、行ってないのバレて。バカにしてるのかーって」
 学校まで車で連れてかれたけど、こんな顔で行けるわけない。そうこぼすアオイの顔を見ながら、じゃあなんで図書館はいいんだろうと思う。ここにも人はたくさんいるのに。森みたいだからだろうか。視線を動かすと、本棚のところにいた人がちらりとこちらを見て、すぐ本に目を戻した。
「ねえ、一緒に来て」
「うん? うん」
 おれが本を返却するのを待ってアオイがそう言ったとき、おれは特に何も考えずに頷いていた。いつものことだからだ。ここ最近追加された、いつも。図書館からアオイを駅まで送ること。
 けれどアオイはおれの手を取った。触れられるのは初めてのことだ。その顔を見ると、少し強張った、怖い顔をしていた。
「一緒に来て」
 でもそれだけしか言われなかったので、おれはどうしようもなく、もう一度頷いた。

1/28/2026, 9:56:54 AM

 目を覚ますと、シンヤはいなかった。代わりにシンヤが被っていた布団が自分にかぶさっていて温かい。優しい人間に育ったと考えていいんだろうか。ふわふわの掛け布団に顔を埋め直して、気づくと太陽が高く昇っていた。畳とはいえ硬い床で寝たせいで、身体を起こすとあちこちが軋んだ。
 リビングと部屋を仕切る引き戸を開ける。
「おそよ」
「ん」
 ルビンがこたつに座って、もそもそとパンを頬張っている。こたつ机の上にあった山の中からひとつとってかじると、口の中でぱりっと音を立てた。
「お前今日もパン屋行ったの」
「うん。昨日買わなかった分買ってきた」
 やっぱりパンは焼きたてに限るよねえ、とルビンは嬉しそうだ。パンは焼きたて、ご飯は炊きたて、果物は採れたて。そういえば以前春先に来て、連日とこぞのいちご狩りを楽しんでいたな、こいつは。
 ベランダに目をやる。特に意味も意図もなかった。レースのカーテンごしに、すこんと抜けるような青空が見える。遠く、地平の端が見える。……白い。
 思わずガラス戸を開けて外に出た。今日は洗濯物が少ない。かき分けるまでもなく空と、手すりと、眼下に雪に埋まった町が見えた。はあ、と吐いた息が白い。何もかも生き絶えたような白い町で、俺は確かに、死ねず、息をしている。
 かり、とベランダを靴底で擦る音がした。振り返るまでもなく、ルビンだ。
「積もったね」
「……うん」
 その高い背を手すりにもたれかけて、ルビンはこちらを見た。一つ間違えたらここから落ちそうだな、と細い影のようなそいつを見上げる。その目は、生ぬるくこちらを見ていた。目尻のしわが心なしか深い。
「連れて行くよ」
「……シンヤが望んだのか」
「さあ? でも否定しなかった。それに、最初の一歩は誰だって怖気付くものだよ」
 この町を出て行く。シンヤが。この住処から。俺の手元から。
 恐ろしいと思う一方、けれどそれが、正しいことなのだろうと最初からわかっている。人の子を人の社会の中に帰す。外れている俺が囲い込んでいた、それこそが異常だったのだと、すぐにわかるだろう。
 ルビンから目を背けた。真っ白い世界に目を向ける。
 ゴミ屑みたいに小さい人間たちがあちこち歩いているのが見える。ぐっと指先で潰してしまえば、あっという間に終わってしまう、それぞれ個々のいのちたち。その群れの中に返すのか。
 ルビンの手が伸びてきて、俺の頭を軽く撫ぜた。キモくて普通に振り払って、それから温かい部屋に帰る。こたつに潜り込むと、ルビンがガラス戸を閉めて、俺の隣の辺に足を突っ込んだのがわかった。
「シンヤが帰ってきたら、どっちが話をする?」
「……お前」
「わかった」
 それから、特に会話もなく過ごした。ゲームをやる気も本を捲る気も起きず、とりあえずテレビをつけて人間の話し声を小さい音量で聞く。緑の海。灰色の雨。色とりどりの傘。温泉街。流される映像を流し見て、見て、見ているうちに、青かった空は橙に染まり、それから藍色、黒。ちらちらと星が瞬くのを見たルビンが「遅いな」とつぶやいた。
 シンヤはその日、帰らなかった。

1/22/2026, 5:32:17 AM

 廊下は玄関から染み込んだ冷気で満ちていて、一歩踏み出すだけでも足が凍るようだ。凍ったところで、だけれど。
 この住処もずいぶん長くいる。白い玄関の扉、狭い土間。右にトイレと洗面所、そこからつながる浴室。左に俺の部屋。短い廊下の突き当たりにある扉を開けると、リビング。右手にキッチン、ベランダ前にテレビとこたつ、左側に引き戸があって、そこにシンヤの部屋がある。畳の部屋だ。まだ身長が俺の胸ほどもなかった頃、熱を出したシンヤを一日中面倒見るためにリビング横の和室に布団を敷いて、そのままそこがシンヤの部屋になった。水仕事は主にシンヤがやるから、いい配置だったとも言える。
 そっと引き戸を開けると、本棚と文机、それから布団が敷いてあって、そこにシンヤが寝ている。すう、すう、と寝息が囁くように聞こえる。
 枕元に座り込み、その顔を見下ろす。下ろされたまぶた、高くなった鼻梁、唇、うっすら生えたひげ。おとがい。……首。そっと指を添えると、温かく、皮膚の下を走る血液と拍動を感じる。ざわりと胸が鳴った。理性で、力を込めて指をそこから引き剥がす。
 吸血鬼がどう生まれるのか、どうして姿形が人間と変わらないのか、よくわかっていない。人間との間に子どもを生せること、その子どもも子を生せることから、おそらく人間のうちなんだろうということは協会の人間から聞いたことがある。
 不老で、怪我の回復が異様に早いだけ。
 身体の中に不老を成すバクテリアだかなんだかがいて、それを感染させることで相手を吸血鬼にする。感染率は高くない。……故意にやらない限りは。
「……」
 シンヤの母親が死んでしまったとき、ああ、しておけばよかったと思ったのだ。こちら側にしてしまえば、死ぬことなんてなかった。シンヤは母親の愛情を受けることができた。そうできなかったのは、あいつに、俺が、言い出せなかったからだ。俺のせい。だから、責任を持って、俺はシンヤが正しく育つことができるように、時に人間の手に預け、そこから取り返して、俺の手で育てた。
 言い出しておけば。
 一緒に生きてくれと頼んで、頼み込んで、そうすれば、あいつはここにいたかもしれないのに。──もし拒絶されても、無理やりそうしてしまえば。ここにいなくても、どこに行っても、生きていてくれたかもしれないのに。
 それだけでよかったのに。
「……シンヤ」
 この子を抱き上げて、その体温を、血液を感じるたびに思ってきた。守りたい。死なせない。その一方で、この首筋に噛みついてしまいたいという衝動がずっとある。最初はきっと、バクテリアかなんかに思考を侵されているだけだった。それが少しずつ大きくなっていって、最近はずっと、そのことを考えている。どこまでがバクテリアで、どこからが俺の執着だろう。
 この子を手放したくない。
「……ゆき?」
 甘やかな声がして、その顔を見る。シンヤが瞼の隙間から、うっすらこちらを見ていた。無意識に喉が鳴る。
「シンヤ……」
 布団の隙間からシンヤの指が這い出て、俺の指を掴んだ。つめた、ともごもご言っているのをどこか遠くに聞く。温かい。血液の熱さ。皮膚の隔たり。ずうっと昔、まだこの子が言葉を知らなかった頃に、同じことをされた。その頃、縋ってくるのはこの子の方だったけれど。
「一緒に寝ていい?」
「なに、それ……」
 やだよ、と小さく曖昧に聞こえた。無視して身体を横たえると、すでにシンヤの目は閉じていて、しばらく見ていたら再び寝息が聞こえてくる。もう大人の顔をしているくせに、寝顔は小さい頃と変わらない。その狭間で、俺はずっと息ができないのだ。泣きたかった。

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