藍田なつめ

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 電車に乗った記憶がないから勝手がわからないと言うと、アオイは信じられないものを見るような目をして、それから丁寧に切符の買いかたを教えてくれた。
「最近は切符を買う人そんなにいないけどね……」
「そうなんだ」
「タッチで乗るから」
「?」
 じゃあどうするんだろう。言葉にはしなかったが、アオイは本当に電車乗らないんだね、と笑った。いつも見ているのより随分自然な笑みで、すこし安心する。
 駅にはあまり人がいなかったし、電車も似たようなものだ。アオイとおれは隣同士に腰掛けて、ぼんやりと窓の外を見る。白かった。
「積もってるね」
「うん、積もってる」
 ここから大きな駅まで移動して、そこから特急電車で西に移動するらしい。アオイが昔住んでいた街。海が近くて、魚が美味しい。
 そんな話を聞きながら、おれは景色に目を奪われていた。なんせ(記憶の中では)初めての電車だ。かたん、かたん、という音と振動、流れていく町、街。雪景色はすぐに姿を消し、四角い建物の群れが姿を現す。ベランダにタオルが揺れている。大きな窓の向こうで、黒い格好の人たちが机に向かっている。キャットタワーの上から猫がこちらを見ている。目まぐるしく変わっていく。
 二つ目の駅で、おれたちと同じ年頃の女の子たちが何人も何人も乗ってきて、急に電車の中が騒がしくなった。黒、白、いろんな色の上着の一方で、足元は揃って同じ革靴と黒いスカートだ。きんと響く声があちこちを飛び交う。思わず耳を塞ごうとして、片方の腕が動かないことに気づく。見ると、アオイがおれの腕にしがみついていた。震えている。そういえば、アオイも同じ革靴とスカートだ。
「大丈夫?」
 小声で聞くと、アオイは答えずにぎゅっと腕の力を強くした。アオイの横に座っている妙齢の男性が、ちらりとこちらを見て眉を寄せのが見える。遠くからくすくす笑う声が一瞬聞こえて、それが別の笑い声にかき消された。ゴホン、咳の音。なにか不満を話す声と、それに被せる別の声。ざわざわ、と脳みそが混ぜられるような不快感。腕に縋り付いてくる腕に触れて、目を閉じる。遠く昔に、同じようなことがあった気がする。だとしたら、隣にいたのはおそらくユキだ。
 ユキ。
 心の中で呼ぶ。本の中で読んだおいのりとか、母親を呼ぶ子どもとか、そういうのはこういう気持ちだったんだろうか。ユキ。そういえば、アオイの目指す街はどれくらい遠いんだろう。晩飯の準備に間に合うんだろうか。間に合わなかったら、と考えて、物語の中の人々に思考が移る。家を抜け出し、夜を走る。故郷を出てたどり着いた先で身を立てる。そうやって、物語が進んでいく。
 うっすら目を開くと、相変わらずいろんな色が、それぞれの意思を持って生きていて、その合間から流れていく景色が見えた。
 進んでいく。どこかに。

1/30/2026, 4:29:10 PM