目を覚ますと、シンヤはいなかった。代わりにシンヤが被っていた布団が自分にかぶさっていて温かい。優しい人間に育ったと考えていいんだろうか。ふわふわの掛け布団に顔を埋め直して、気づくと太陽が高く昇っていた。畳とはいえ硬い床で寝たせいで、身体を起こすとあちこちが軋んだ。
リビングと部屋を仕切る引き戸を開ける。
「おそよ」
「ん」
ルビンがこたつに座って、もそもそとパンを頬張っている。こたつ机の上にあった山の中からひとつとってかじると、口の中でぱりっと音を立てた。
「お前今日もパン屋行ったの」
「うん。昨日買わなかった分買ってきた」
やっぱりパンは焼きたてに限るよねえ、とルビンは嬉しそうだ。パンは焼きたて、ご飯は炊きたて、果物は採れたて。そういえば以前春先に来て、連日とこぞのいちご狩りを楽しんでいたな、こいつは。
ベランダに目をやる。特に意味も意図もなかった。レースのカーテンごしに、すこんと抜けるような青空が見える。遠く、地平の端が見える。……白い。
思わずガラス戸を開けて外に出た。今日は洗濯物が少ない。かき分けるまでもなく空と、手すりと、眼下に雪に埋まった町が見えた。はあ、と吐いた息が白い。何もかも生き絶えたような白い町で、俺は確かに、死ねず、息をしている。
かり、とベランダを靴底で擦る音がした。振り返るまでもなく、ルビンだ。
「積もったね」
「……うん」
その高い背を手すりにもたれかけて、ルビンはこちらを見た。一つ間違えたらここから落ちそうだな、と細い影のようなそいつを見上げる。その目は、生ぬるくこちらを見ていた。目尻のしわが心なしか深い。
「連れて行くよ」
「……シンヤが望んだのか」
「さあ? でも否定しなかった。それに、最初の一歩は誰だって怖気付くものだよ」
この町を出て行く。シンヤが。この住処から。俺の手元から。
恐ろしいと思う一方、けれどそれが、正しいことなのだろうと最初からわかっている。人の子を人の社会の中に帰す。外れている俺が囲い込んでいた、それこそが異常だったのだと、すぐにわかるだろう。
ルビンから目を背けた。真っ白い世界に目を向ける。
ゴミ屑みたいに小さい人間たちがあちこち歩いているのが見える。ぐっと指先で潰してしまえば、あっという間に終わってしまう、それぞれ個々のいのちたち。その群れの中に返すのか。
ルビンの手が伸びてきて、俺の頭を軽く撫ぜた。キモくて普通に振り払って、それから温かい部屋に帰る。こたつに潜り込むと、ルビンがガラス戸を閉めて、俺の隣の辺に足を突っ込んだのがわかった。
「シンヤが帰ってきたら、どっちが話をする?」
「……お前」
「わかった」
それから、特に会話もなく過ごした。ゲームをやる気も本を捲る気も起きず、とりあえずテレビをつけて人間の話し声を小さい音量で聞く。緑の海。灰色の雨。色とりどりの傘。温泉街。流される映像を流し見て、見て、見ているうちに、青かった空は橙に染まり、それから藍色、黒。ちらちらと星が瞬くのを見たルビンが「遅いな」とつぶやいた。
シンヤはその日、帰らなかった。
1/28/2026, 9:56:54 AM