藍田なつめ

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 廊下は玄関から染み込んだ冷気で満ちていて、一歩踏み出すだけでも足が凍るようだ。凍ったところで、だけれど。
 この住処もずいぶん長くいる。白い玄関の扉、狭い土間。右にトイレと洗面所、そこからつながる浴室。左に俺の部屋。短い廊下の突き当たりにある扉を開けると、リビング。右手にキッチン、ベランダ前にテレビとこたつ、左側に引き戸があって、そこにシンヤの部屋がある。畳の部屋だ。まだ身長が俺の胸ほどもなかった頃、熱を出したシンヤを一日中面倒見るためにリビング横の和室に布団を敷いて、そのままそこがシンヤの部屋になった。水仕事は主にシンヤがやるから、いい配置だったとも言える。
 そっと引き戸を開けると、本棚と文机、それから布団が敷いてあって、そこにシンヤが寝ている。すう、すう、と寝息が囁くように聞こえる。
 枕元に座り込み、その顔を見下ろす。下ろされたまぶた、高くなった鼻梁、唇、うっすら生えたひげ。おとがい。……首。そっと指を添えると、温かく、皮膚の下を走る血液と拍動を感じる。ざわりと胸が鳴った。理性で、力を込めて指をそこから引き剥がす。
 吸血鬼がどう生まれるのか、どうして姿形が人間と変わらないのか、よくわかっていない。人間との間に子どもを生せること、その子どもも子を生せることから、おそらく人間のうちなんだろうということは協会の人間から聞いたことがある。
 不老で、怪我の回復が異様に早いだけ。
 身体の中に不老を成すバクテリアだかなんだかがいて、それを感染させることで相手を吸血鬼にする。感染率は高くない。……故意にやらない限りは。
「……」
 シンヤの母親が死んでしまったとき、ああ、しておけばよかったと思ったのだ。こちら側にしてしまえば、死ぬことなんてなかった。シンヤは母親の愛情を受けることができた。そうできなかったのは、あいつに、俺が、言い出せなかったからだ。俺のせい。だから、責任を持って、俺はシンヤが正しく育つことができるように、時に人間の手に預け、そこから取り返して、俺の手で育てた。
 言い出しておけば。
 一緒に生きてくれと頼んで、頼み込んで、そうすれば、あいつはここにいたかもしれないのに。──もし拒絶されても、無理やりそうしてしまえば。ここにいなくても、どこに行っても、生きていてくれたかもしれないのに。
 それだけでよかったのに。
「……シンヤ」
 この子を抱き上げて、その体温を、血液を感じるたびに思ってきた。守りたい。死なせない。その一方で、この首筋に噛みついてしまいたいという衝動がずっとある。最初はきっと、バクテリアかなんかに思考を侵されているだけだった。それが少しずつ大きくなっていって、最近はずっと、そのことを考えている。どこまでがバクテリアで、どこからが俺の執着だろう。
 この子を手放したくない。
「……ゆき?」
 甘やかな声がして、その顔を見る。シンヤが瞼の隙間から、うっすらこちらを見ていた。無意識に喉が鳴る。
「シンヤ……」
 布団の隙間からシンヤの指が這い出て、俺の指を掴んだ。つめた、ともごもご言っているのをどこか遠くに聞く。温かい。血液の熱さ。皮膚の隔たり。ずうっと昔、まだこの子が言葉を知らなかった頃に、同じことをされた。その頃、縋ってくるのはこの子の方だったけれど。
「一緒に寝ていい?」
「なに、それ……」
 やだよ、と小さく曖昧に聞こえた。無視して身体を横たえると、すでにシンヤの目は閉じていて、しばらく見ていたら再び寝息が聞こえてくる。もう大人の顔をしているくせに、寝顔は小さい頃と変わらない。その狭間で、俺はずっと息ができないのだ。泣きたかった。

1/22/2026, 5:32:17 AM