家を出る。住んでいるマンションは古びていて変なところにあるから、スーパーまでがやや長い。こんな丘の上にどうして建てたんだろうねと訊いたら、昔は人がいっぱいいて場所がなかったんだとユキが教えてくれた。
坂を下る途中には、やっぱり同じくらい古びたり、それを潰して建てたから妙に新しかったりする家と空き家と空き地がぽろぽろあって、それから郵便局に、シャッターのおりた本屋。その向こうに図書館がある。本は好きだ。うちには分厚くて古びた本が多いから、おれだけ図書館に行くこともある。漫画を初めて見た時は衝撃だったなあ、絵がたくさんあって。
ほわ、と息を吐くと空気が白く染まる。
ユキはこの町を、古くて小せえ町だよと揶揄うようにいう。多分好きなんだと思う。おれも好きだ。
ユキは歳をとらない。いや、とってるんだと思うが、見た目の変化は少なくともおれにはわからない。これは割と不便なんだそうだ。永遠にそこにいるわけにいかないから。疑われる前に引っ越さないといけないから。人に疑われるほど人に会ってないのになあ、とユキは言う。どちらかといえば多分、横におれがいるから悪いのだ。去年より背が六センチ伸びた。おれに比べて、ユキは変わってなさすぎる。
俯いていた首を空に向ける。曇り空からふわふわしたものが落っこちてきている。
「雪だ」
この町は雪が積もる。ベランダから見ると、世界中真っ白になったみたいで、おれはそれを、あのベランダから眺めるのが好きだ。はあ、ともう一回空に向けて息を吐いた。
引越しの話が持ち上がっているのを、こないだうっかり知ってしまった。うっかりだった。ユキが聴かせたくないことは、聴かないようにしていたのに。
この町が好きだ。多分、おれよりユキのほうが。前の引越しはおれが生まれて少ししてから、二つ隣の町からだった。そこに住んでいた時、ユキは今より外に出ていたらしい。
引っ越したくないからだ。この辺りから。ユキは引っ越したくないのに、おれが足を引っ張っている。
もういっぺん、空に息を吐いた。
「帰りたくない」
「じゃあうち来る?」
月の下、泣いてるガキにそうやって声をかけたとき、俺は大したことを考えていなかった。まあ、久々に吸血鬼らしくするかと思ったくらい。子供を攫うとか、血を吸うとか。ベタで誰でもやっているらしいそういうことが、初めてやるのは難しいんだって知らなかった。結局カリカリに痩せたガキに物を食わせて寝かせて起こして、それを何日かやって、そしたらそいつはふいにいなくなった。
まあそう、さよならーと思っていたら、数日後に家でなったとかいう柿を持ってそいつは帰ってきた。それからも、芋とか、茶梅、椿、梅。梅の実がなったら梅酒や梅干し。他にも蔵で眠っていたとかいう古臭い本なんかを山のように。ヤツが俺を家族にどう紹介していたのか、ヤツの家族が俺をどう認識していたのか、謎だ。
小学校。中学校。高等学校。ヤツは成長して、少しずつ来る頻度が空いて、やがてこなくなった。ああそう、さよならーと思って、……。
「ごめん、ユキ、たすけて」
「……お前ってさあ」
「帰りたくない」
ヤツは、いつの間にかガキから人間になっていて、そう、でかい腹を抱えてウチに来た。なあお前、俺が吸血鬼ってわかってる? 人間食っちゃうんだぞ、最悪の場合。──そう脅したら、でも私は食べなかったでしょとそいつは笑った。
「ユキ」
急に冷たい風が吹いて目が覚めた。懐かしい夢だった。跳ね起きた俺をみて、シンヤは夢の中のそいつによく似た顔で笑う。ああそう、コイツも気づいたらガキから人間になってきた。
「吸血鬼だからって寝すぎじゃない? もっとなんかないわけ」
「……なんかってなに」
「世に貢献するようななにか……株とか?」
「かぶ? なに、かぶってまだあったっけ。今は大根の方が売ってんじゃないの」
「……まあ似たようなもんじゃん」
呆れたような顔。似てきた、あいつに。違うのは、こいつは、一度も俺にさよならをしたことがないってこと。する予定もおそらくないってこと。
「買い物行くけど、ユキ欲しいもんある? てかまだ金ある?」
「あるんじゃない? なかったら電話するから言って」
手を伸ばしてその頭を撫でる。ああ、あいつの髪はもっとまっすぐだった。こいつの頭は前は俺より低い位置にあった。こんなふうに、鬱陶しそうに手を払われることもなかったのに、可愛くないったら。
「やーめて。おれもう十七なんですよ」
「十七はまだガキだよ」
「でもお母さんがおれを産んだのってこれくらいじゃないの」
「……忘れた」
「忘れんなよー」
おれお母さんのこと覚えてないのに、ととんがらせた唇を摘んで引っ張ってやる。
うるさいよ、生意気だな、忘れるわけないだろ、最後までずっと一緒にいたんだから。
すこん、と抜けるような青空に眩暈がした。
例年並みとされる気温は寝起きの肌を凍らせんばかりなのに、目に映る色の鮮やかさがやけにアンバランスだ。頭の上で輝く太陽が、眼下の道路脇に並ぶ常緑樹の葉を鮮やかに見せる。なんでこんなに晴れているのに寒いのか、少しばかり腹が立つ。
そういえば昔、冬は曇りの方が暖かいのだと聞いた気がする。正しくいえば、昼が晴れで夜が曇りだと、昼間温められた空気が夜間宇宙に出ていかず、翌日も暖かいのだった。
「だからなんなんだ」
部屋の中からユキが声をかけてきた。彼は全身に毛布を巻き付けて、不機嫌そうに「寒いから早く閉めろ」と言う。なんて不健康なやつ。空気を入れ替えないとそのまま腐っちゃうよ、と反抗しようとし瞬間、強く風が吹きこんだ。布団の中からユキが悲鳴を上げる。ぎゃああ。
「閉めろ! バカ!」
「換気だよ。冬でもたまに窓を開けないと」
「冬でもってなんだ、寒気は冬が本番だろ。なんでもいいから閉めろ」
「そのカンキじゃないし。そもそもユキは布団に守られてるじゃん」
「いいから!」
あまりにうるさいから、仕方なく俺は生ゴミをベランダのゴミ箱に捨てて室内に戻った。カラカラ、パタンというこの音を、おれは好きだと思っている。でもジャッというカーテンを引くこの音はそうでもない。耳触りが良くない。個人の感想です。
遮光カーテンが日光を遮ったのを察知して、ユキが布団から出てくる。白い肌、赤い目。鋭い牙。
「ああ、死ぬかと思った」
「わざわざリビング出てこないで、寝てればいいのに」
「いんだよ、目が覚めたんだから」
さ、餅。餅。尊大な態度で強請ってくる我儘吸血鬼にため息をついてやる。まあべつに、外の様子が見えない冬の日も、こいつがいればいいのだった。結局。