「心と心」
親友なんだから、何でも相談してよね!と言ってくれる彼女達のなんと心強いことか。
部屋でラインを開き、言葉に視界が滲む。
いくら時が過ぎようとも彼女達と仲間でいられることに感謝が溢れた。
普段は私から連絡をしないのに(こういう所が薄情というか気分屋な所だと度々反省するのだけれど)
きっと彼女達は、私の事も心の何処かで思ってくれているのだと、胸の内が温かくなった。
かねてから心の在り様や、精神医学に興味がある私は、
宗教や犯罪心理学をテーマにした作品に惹かれる節があり、異常とよばれる心をついつい覗いてしまう癖がある。
悲惨な過去を過ごしてきた者や、正しさと過ちの境目が理解できず狂気を正気と捉える人生は、心で心を砕く衝撃がつきまとう。
目を背けたくなるほど痛々しい傷が、暴力として他者を傷つける。
私の日常に無かっただけで、これから起こるかもしれないし、世界では悲しいほど多くの事件が起こっている。
痛める心も、温かさを感じる心も、暴力を行使する心も、どれも「心と心」の繋がりによって自分を作るという現象が起こるのだ。
どのように心を育てていくのかは、自分が決めていい。
環境や受けた仕打ちで育てられた心より、自分のためになるような、心と心の繋がりこそが人の生きる糧になると私は思う。
こう考えられるようになれたのは、彼女達がいてくれたからだ。
いつも本当にありがとう。大好きだよ。
何でもないフリ。
「何でもないフリ」は日常の中に影のように潜んでいる。
ある日SNSを観ていたら、電車での席を譲るか、譲らないか問題が勃発している動画がオススメに表示された。
私が学生時代は、席を譲ることはただの親切で、譲られた側もただの親切を受け取るだけだったのに、と驚いてしまった。
内容は、妙齢の方に席を譲ることが失礼に当たるのだというものだった。
人の親切を裏返しに受け取ることには「何でもないフリ」ができるのに、自分のプライドには「何でもないフリ」ができないのだと、感じた。
席を譲ることは失礼に当たる、年齢を考えて声を掛けるべき、そういったコメントが多く見られ、しまいには席なんて怖くて譲れないといった声まであった。
こんな窮屈な社会になってしまっていたのかと驚いた。
他人を傷つけることに敏感になった私達は、「何でもないフリ」という鈍感力を何処かに置き忘れてきてしまったのだと思う。
嘘をつく事、世間体を保つ事、見栄を張る事で、守れるものもたくさんあるのは事実だが、
それでも人に対する心の持ちようや思いやりといったものは、私達が誇って良い文化ではないのだろうか。
人に優しく、周囲の人に気を配る、ただそれだけで日常はもっと温かい気持ちを共有できるはずではないのか。
眼の前で困っている見知らぬ人にそっと目配せをする。
相手の意思を慮る、察する事ができる私達の一種の超能力みたいなこの共感性は、これまでの文化を築いてきた遺産でもあるはずだ。
私はその動画を観て、悔しくなった。
けれども、そんな私も窮屈と感じるまで「何でもないフリ」をしてきてしまっていたのだ。
眠れないほど。
冬の夜はなんとなく長く感じる。
冬になると日が短くなるからと小学生でも知っている理屈を、大人になった証拠かな、なんて自分のことを背伸びして俯瞰してみる。
そして、大人になるほど眠れない夜というものが増えていく。
自分では気づかないほどに、小匙1杯の砂糖よりも少しの夜が、こんばんわと言って私に挨拶をしに来るのだ。
彼らはとても多彩で個性的で、普段気にかけない底にある感情(ちょっとした寂しさとか、心細さとか、後悔とか、嬉しかったことを)が仕舞ってある箪笥をの引き出しを、
「今日はここを開けて、空気の入れ替えをしますね」と勝手に引っ張り出してくる。私の底にある感情だけれど、私の知らない絵柄をした扉を「開けて開けて」と急かしてくる。
その扉の先では、眠れないほどさらさらと流れる黄色い時間を過ごす事もあれば、布団3枚掛けの中に包まった時のように重く苦しい、群青色をした時間を過ごす事もある。
なんで勝手にその引き出し開けるの、と文句を言いたくなる。
でもその引き出しは、ずっと横目で、あるなぁと思いながら存在している。自分からは永遠に開けない引き出し。
中身の感情はきっと悲しんでいるだろう。本来だったら自分で開けて、元気だった?と会話をして欲しいはずだから。
だから怒りたいけれど、怒れない。私の代わりに小匙1杯よりも少ない、眠れない時の夜がタイミングを作ってくれているからだ。開けるタイミングを見失った気持ちと会話をするほんの少しの機会を、届けに来てくれている。
今くらい向き合おうかな、と思わせてくれる。向き合う間、夜はそっと背中越しに温かさを伝えてくれている。
だから人は、眠れないほど、自分の気持ちに向き合えるのではないだろうか。
眠れないほど、何かを思う、そんな日は誰にでも訪れる。
お節介な彼らと眠れないほど語り合うのも、大人になった証拠かな。
冬になったら。
「寒い!」
11月に入り、一週間ほど続いた夏日の気温が一気に下がり、秋を通り越して冬を連れてきていた。冬になったら寒くて嫌だなと思っていたのもついこの間に感じているのに、とんでもなく寒い。冬って結構温かいもんだったっけな、なんて呑気なことを考えていた自分に、令和ちゃんから活を入れられた気分である。
季節は冬並みで寒さが体の芯に堪え始めていたが、季節は紛れもなく秋なのだ。
それだったらもう少し温かくても良かったのではないかと苦言を呈したくなったけれど、空を見上げた瞬間、映った景色に頭が一杯になった。
夏とは違ったカラリとした寂しさが残る、澄み切った青空。
薄くもなく、濃くもない、何事もない平凡な一日の中で、なんとなく日暮れを見た時と似ている感覚にしてくれる空の青さがそこにあった。
周りの木々が少しずつ色付いて美しい。赤や黄の鮮やかさが冷たくなった私の体温に移るようだ。
冬になったらの前に、当然秋がある。焼き芋の香りが駅前に漂っていた。
しだいに焼き芋から栗に変わって、だんだんとコンビニのおでんの香りに変わっていく。夕暮れ時の住宅街では夕食のお鍋の香りが漂ってくるようになるだろう。
我家のアイドル「りんちゃん」は焼き芋が大好きで、買って帰った日の喜びようは凄まじく、香りがすると一目散に走っていき、早くよこせと鳴いて甘えていた。
そんな喜び方をするものだから、よく買って帰って、家で一緒に食べたものだった。
鼻の奥がツンと痛む思い出の甘い香りは、私の心を温めてくれる。
冬になったらこたつを出して家でぬくぬくしていたいものだ。
みかんを食べて、漫画を読んで、起きたらゲームをして、こたつから出たくない。これの代わりが布団だと思う。コロナ禍によりリモートワークが普及したのは世間の噂話で、部長が常々口にしていたリモート推奨を掲げているというでまかせに誤魔化されることなく、私はせっせと出社していた。数年前、寒さに耐えきれず綿が入った履き物(ズボン)を購入したところ、母の目を引いたようで、私にも注文してとお願いされたのはいい思い出である。今も我が家で大活躍しているズボン、とてもオススメなのだけれど、これを履いてデートに行ったり、街中に出てウィンドウショッピング出来ないのが難点だ。せいぜい出勤時の寒さ対策に履いていますとアピールするくらいしか活躍させられないのが悔しい。
大きなクリスマスツリーが見たくなる季節は来月12月、大仕事や大掃除に心が穏やかでなくなるのも今頃から12月にかけてではないだろうか。
皆さんはどのような冬になったらを想像し過ごしているだろうか。
あるところでは雪対策をし、電気代に気を使い、大感謝祭を心待ちにし、クリスマスコフレに心をときめかせ、就活や進学のため勉学に励み、人生が大きく変わる人もいるだろう。私は、冬になったら今年一年を後悔しないように過ごしたいと思う。
どうか、息災でありますように。
飛べない翼
私はポストアポカリプスな世界観の作品が好きだ。
ポストアポカリプスとは、滅亡した後の世界を描いた作品のことを指す。滅亡した理由は一概には言えず、核兵器使用によっての滅亡や、隕石が落ちて滅亡するなど、多様である。
壊れてしまったが、かつて存在したと思われる文化や文明を、静かに消えてゆくまで、そっと語り継いでいく。そういう在り方をしている物語が好きだ。
生きているものも、物資も、食料も、移動手段も、全てが制限された世界の中、たった1人で、今手に入る物を、生きる為に探す。
歴史ある遺物や無機物から生物とは違う息遣いが聞こえてくる。嵐が去った静けさが横たわる世界観は寂しさの中にかすかな希望の光が見える。
ただこれはフィクションだから楽しめているし、好きだと言えることなのだ。
今生きている世界で、自分の今ある環境が壊れてしまったらと考えると心の底から恐ろしい。
戦争は終結して欲しい、疫病も食糧難も、本当の意味で解決し、世界が平和になれたならと祈っている。
ファンタジーだから、終わってしまった非科学的な世界を想像することが出来る。
滅亡した後を生きることは、例えるならば、飛べない翼を背負った世界の形なのではないだろうか。
今、戦争が起きているこの世界が背負っている翼は、傷ついても痛くても何度でも、平和を望む人類が生き続けている限り、
大きく広げて、飛び立つことが出来る翼であると信じている。
いつかはこの地球の寿命が来て、本来の意味での滅亡が未来にあるのだろうけれど、それは人類によって終わらせた結果にあるものではないと、信じている。