死後の世界でこの人は自分のいない場所にいる、と勝手に思っている。自分と出会う前の人生と後の人生では、この人が相当長生きしない限りは後者が前者を上回ることはない。大切な人やモノは自分以外に山ほどあって、死んだ後まで自分といなければならない道理もないのである。といったことをついさっき、当の本人にぽろっとこぼしてしまった。酔って口が軽くなっていた。しばらくとんでもない渋い顔をしたのち、向こうに行ったら式を挙げようか、と一言。そんなことは可能だろうか。そもそもこっちでも挙式はしていないのだが。主に自分が照れて躊躇しているせいで。などとうっかり漏らしたせいで勝手にこっちでの挙式の話を進められそうになって完全に藪蛇だった。今後、詮ないことを考えるのはよそうと思った。仮定と逃げ道を作れば作るほど、この人にことごとく潰されそうな気がして。
(題:逃れられない)
「明日にはあなたに振られているかもしれない」交際当初に彼が口にしたその言葉を、いつまで経っても忘れられずにいた。気が急いてあれこれ画策する自分を窘めるための、おそらく彼なりの冗談だ。けれど何だか無性に寂しくて、呆れられるくらいまめに連絡を取って次の日その次の日へと繋いできた。だから「新しいパン屋の視察に行きたい」「観たい映画があるけど一緒にどうか」なんて話してくれると、いつも内心泣きそうなほど嬉しくなる。もう月日が経って同棲までしているのだけど。愛する人に未来を信じてもらえることが、こんなに嬉しいものだとは思わなかった。たとえ他愛のない、ほんの少し先の未来であったとしても。
(題:また明日)
君子豹変す、とは言うが改心と掌返しとの間には紙一重の差しかない。この人は我が道を突き進んでいるように見せかけて、その実常に自らを省みて思考し続ける人だ。紙一枚を慎重に見極め踏み外さないのである。それでも時には、真っ直ぐな心根が揺さぶられて濁ることもある。表情は消えて言葉も失せ、思考の泥沼に嵌ってしまう。こうなると助け舟も出せないのだが、かといって手は離したくない。「あなたが決めたことなら自分は何も言わない」とだけ告げて、迷う目をじっと見る。それだけのことだが、この人の中で何かが定まるらしい。唐突にパチンと晴れて透き通り、泥沼から脱出する。正直一緒に沈むならそれでもいいのだが、決まって明るい場所に引き上げられるのだからこの人には敵わない。何故か毎回嬉しがって自分の体が物理的に抱き抱えられ持ち上げられ振り回されるが、この際気にしないこととする。
(題:透明)
「自分といても面白くない」「気の利いたことはできない」付き合い始めの頃、彼はそんなことを言っていた。もとより献身は先に好いた側がやるものだから、彼が気にすることではない。あなたはそのままでいい、なんて格好つけたことを考えていた。しかし、今となっては。声が聞きたいと電話をかけてきてすぐに照れて黙り込んだり、安かったから一緒にと買ってきた二人分のお菓子の値札が隠せていなくて普通に定価だったり、酔って膝枕を強行したかと思えば頭を延々と撫でながら労り始めたり。想像もしなかったことが次々起こる。好いた相手がどんどん変わって、そのどれもが愛しくて仕方ない。もうあなた以外誰も好きにならないから、どうかこのまま傍にいて。大願はまだ言葉にせず、今日も献身に勤しむ。
(題:理想のあなた)
その報せを受けてから、この人は始終俯き表情を見せなかった。自分の知らない遠い昔の、おそらく大切な誰かのこと。ようやく顔を上げたかと思うと、気を遣わせてごめん、などと言ってこちらに気を遣う。今にも泣きそうに歪んだまま、力なく笑おうとしていた。どんな相手であろうと、傍にいなかった人間は何もできないし何も言えることはない。泣き虫のくせに真っ当な大人だから、肝心なときに限って涙はひとつも出ないらしい。こちらも何と言えばいいかわからない。黙ったまま腕の中にその体を抱え込み、背中に手を回させる。これが正しいとは思えないが、これくらいしかできることがない。少なくとも、受け止めるのは傍にいる人間の役割だろう。自分に縋る指の先がわずかに震えている。物音ひとつない夜、ただそうして互いの存在を確かめていた。
(題:突然の別れ)