【燃える葉】前編
「ねえ、何考えてるの?」私といるのに、みたいな。
僕に腕を絡ませながら不満げに頬を膨らませる。
かわいく着飾った、どうでもいい女の子。
女遊びは呼吸のようなもので、意味なんてなかった。
わざとらしく胸を当ててくる女の子を見下ろす。
男の庇護欲をそそるメイク。体の一部が露出した服。
自分の武器をわかっていて、魅せ方も熟知している。
このあざとさの欠片でもあの人にあったなら。
考えながら頭に浮かぶのは、先輩の泣き顔。
空き教室で人知れず涙を流す、綺麗な横顔。
僕は廊下に座り込んで、痛いほど胸を押さえた。
初めて高鳴る鼓動にひどく動揺して動けなかった。
思い出に耽っていると、女の子が僕の顔を覗き込む。
「他の女のこと考えてるでしょ」
女の勘ってやつだろうか。妙に鋭いときがある。
「悪い?」どうせ遊びの関係に誤魔化しはいらない。
女の子は腕を解いて正面に移動し、微笑んだ。
「いいよ」直後、バチーンと響く。
目眩がするほど強烈なビンタをお見舞いされた。
「サイテーだね」女の子は怒らせると容赦がない。
頬の痛みに耐えながら先輩の家を訪れる。
女の子に会った後はここに来るのがいつもの流れ。
気配を察せる程度に匂わせることが大切だ。
そうしないと、鈍感な先輩は気づいてくれない。
今日はわかりやすい跡があるから都合がいい。
きっと心配して、その頭を僕でいっぱいにさせる。
一人になった後もしばらく考えてくれるだろう。
黒い思惑を胸に秘め、僕はインターホンを押した。
【燃える葉】後編(Another Side)
前触れのない来客。宅配の届く予定はない。
また彼だろうと予想して扉を開ける。
「どうぞ」見慣れた笑顔。「お邪魔しまーす」
その頬にくっきりと残る、真っ赤なモミジ。
「今日は男前だね」彼はいつもこうだ。
まるで見せつけるように女の影を匂わせる。
来る度に変わる香りは、たぶん誰かの香水の残り香。
大人の付き合いでもそれ以外でも、私には関係ない。
気づけば、彼とは高校からの付き合いになる。
女遊びの盛んな後輩がいることは有名だった。
その人だと気づいたのは、女子の嫉妬を受けたから。
棘のような視線だけでなく、時に言葉で。行動で。
学年が違えば校舎が違い、部活も委員会も違う後輩。
近づかれなければ、一生関わることのない相手。
彼も入学当初は私のことなど知らなかっただろう。
私の初恋相手の卒業後、初めて話しかけられた。
真意はわからないけど、そのうち飽きるだろう。
どうせ学生の間だけの付き合いだと思っていた。
それが不思議なことに、成人後も関係は続いている。
なぜこんなに懐かれたのか、まるで心当たりがない。
持ってきた保冷剤を痛々しい頬の跡に押しつける。
「いつか刺されるよ」こんなのでも今では友達だ。
「刺されたら泣いてくれる?」笑えない冗談。
どうして彼は、私のところに来るのだろうか。
「ねえ」帰る背中を呼び止めた。「何考えてるの?」
彼は振り返って笑う。「なんて言ってほしい?」
瞳の奥でじっと目が合って、彼は軽く両手を上げた。
「残念。まだ内緒」困惑が期待に変わるまで。
【moonlight】
忙しなく家を出る二人の姿をよく覚えている。
あの人たちはテレビの中で生きる、遠い存在。
父ではなく、大物俳優。母ではなく、人気アイドル。
二人が親になるのは年に一度、僕の誕生日だけ。
それでも僕は二人のことが大好きだった。
出演する番組は必ず録画して何度も見返す。
中学生になって、僕は俳優の道を志した。
芸能界なんて、と言いつつ二人は応援してくれる。
僕は出自を隠したまま、小さな劇団に入団した。
芸名で活動する二人と僕の関係を知る人はいない。
親の名を出せば、きっと簡単に有名になれるだろう。
でも、そうして得た名声に何の意味がある。
劇団とバイトの合間にオーディションを受ける日々。
先輩の厳しい演技指導を受け、仲間と励まし合う。
苦しい思いばかりの中でも充実感で満たされていた。
堅実に練習を繰り返し、少しずつ実績を積んでいく。
実力が認められ、テレビ出演が活動の中心になった。
そして敬愛する監督の映画への出演が決まった矢先。
『衝撃! 話題の俳優はあの大物夫婦の一人息子!』
下世話なゴシップ誌が、隠していた事実を暴露した。
親の七光りで売れた二世俳優。
そのレッテルは十分すぎるほど僕を貶めた。
「どうりで」業界内の噂も世間の声も冷ややかだ。
必死に築いてきた信頼はこの程度だったのか。
恵まれた出自に甘えず、努力を続けてきたつもりだ。
現場で暗い表情を隠せない僕に、監督が言った。
「お前の親が犯罪者でも俺はお前を選んだぞ」
さすがに親に失礼だけど。なんか、心が軽くなった。
【今日だけ許して】
「いったいどうして、こうなったのかしら」
ため息まじりに嘆く母。父は豪快に笑っている。
腫れた頬に保冷剤を当て、苦笑いの私は目を逸らす。
母の悩みのタネは私の性格にあった。
理性的で口の達者な長男と直情的で喧嘩っ早い次男。
三兄弟の末っ子の私は、口より先に手が出るタイプ。
年の近い次男とは何度殴り合いをしたことか。
その度に母を心配させ、やめなさいと怒られる。
男女の体格差があるので、私のほうが重傷を負う。
悔しくて悪態をつく私を見かねてか。
「喧嘩の仕方を教えてやる」と父は言った。
おかげで、怪我もだいぶマシになったと思う。
半端に育った自信は、私に無謀な勇敢さを与えた。
ガキ大将相手でも戦えるようになってしまった。
勝ち気な性格が噂になり、遠巻きにされた中学時代。
さすがに寂しかったので噂の届かない高校を選んだ。
遠くの寮に入るにあたり、母に約束をさせられた。
『争いごとは言葉で解決し、絶対に手を出さない』
言われずとも、高校では大人しくするつもりだ。
そうして静かに、目立たないように日々を過ごした。
ある日の放課後、制服姿のまま街に出掛けた。
残念ながら一人だ。友達をつくるのは簡単ではない。
喉が渇いたので自販機を探し、路地の奥に入る。
声が聞こえて見れば、複数人が一人を囲んでいる。
恫喝でもされているのか、ひどく怯えた様子だ。
明らかに厄介な状況。母との約束が頭を過ぎる。
だが、気づいたのに見て見ぬふりはできない。
無鉄砲な正義感が私を突き動かした。
【誰か】
絵を描くことが好き。話を想像することが好き。
だから将来は漫画家になりたいと思っていた。
SNSに投稿したり、新人賞に応募したり。
そのうち話題になって雑誌への掲載が決まった。
あまりに順調で、正直、調子に乗っていた。
学生のうちにデビューできるなんて天才では?
爆発的に人気になってアニメ化されるかも。
期待に胸を膨らませていたが、現実はそう甘くない。
拙い処女作に寄せられたのは批判ばかりだった。
子どもの落書き。つまらない展開。時間の無駄。
匿名の冷たい刃が僕の心を抉る。
大好きな描くことが怖くてたまらなくなった。
ペンを持つと手が震えて直線すら引けない。
あまりに情けなくて、思わず乾いた笑いがこぼれた。
苦しみながら描くほどの価値が僕の漫画にあるのか。
そんな失意の中、編集部から転送された一通の手紙。
拙い処女作に寄せられたのは批判だけではなかった。
感情がわかる、面白かった、続きが待ち遠しい。
匿名の温かい声が僕の心を満たす。
大好きな描くことを恐れる理由はなくなった。
その後、緩やかに人気が出て有名な作品も生まれた。
数え切れないほど多くのファンレターを貰った。
だけど、初めて貰った相手はやはり特別だ。
送り主の名前がなくても筆跡でその人だとわかる。
いや、筆跡だけで個人を特定するのは変態っぽいな。
読み返しながら、ちょっと複雑な気持ちになった。
来月のサイン会に思いを馳せる。楽しみだ。
顔も名前も知らない恩人は来てくれるだろうか。
【遠い足音】
ふいに眠りが浅くなり、導かれるように覚醒する。
今年も無事、私の季節がやってきた。
暦を確かめると、もう十月に入ったところ。
年々、目覚めが遅くなっている。
今年は何日起きていられるだろうか。
不安を抱えながら外に出て、朝日を浴びる。
家を囲む木々の葉の色はまだ変わっていない。
時おり涼し気に風が吹くものの、残暑は続いている。
リビングに戻り、机に置かれた日記を開く。
〈おはよう。今年も起きられてよかった。〉
それは同じ家に住む四人で共有して書いている。
誰も言えないおやすみの代わりに、朝の挨拶をする。
私は他の三人より起きていられる時間が短い。
暑さが弱まる頃に起き、寒さが本格化する前に眠る。
それまで特別することはなく、ただ起きているだけ。
暇つぶしに日記を読んで、恋しさを知ってしまった。
寒さが増すほどに、あなたの気配が近づく。
寒さが増すほどに、私の意識が薄らいでいく。
寒さが増すほどに、残り時間が少ないのだと知る。
あなたが目覚める日は、私が眠りにつく日でもある。
私は知らない。あなたの目の色を、声を、性格を。
今までもこれからも、きっと知ることはないだろう。
几帳面さを感じさせる、綺麗に並んだ文字を撫でる。
あなたを知るヒントは日記の中にしか存在しない。
〈起床。枯れ木ばかりで景色が淋しい。〉
〈天気は曇り。昨夜の雪が残っている。〉
〈椿が咲いていた。鮮やかで美しい赤色の花だ。〉
淡々と綴られる日々に、今日もその姿を探している。