好きな人を見る時、人間は無意識に瞳孔が開いているのだそうだ。好きな人をもっとじっと見ていたくて瞳孔が開くから、目が周りの光をいつもより多く取り込んで、景色が明るいと感じるのだそうだ。
それならば、今自分が感じているこの眩しさにも納得がいく。暑さの去らない秋の午後、ソーダ味のアイスを片手に笑う相手を見て思った。
「夏がまだまだ居座っているみたい。いつになったら涼しくなるんだろうね」
そう、なんてことはない世間話。そんな世間話になんてことはない相槌を打ちながら、やっぱりどうしても見てしまって、眩しくて、目を細める。
溶けたアイスが服にぼたりと落ちた。慌てて視線を逸らした時、隣から楽しんでいるような声。
「あはは、ずっとこっちばっかり見てるからだよ!」
見ていたのがバレていた。恥ずかしさと少しの罪悪感に、再び顔に猛暑が到来する。
【きらめき】
昨日、小雨の降る窓辺で、こんなことを話した。
「あじさいの色は、土によって変わるんですよ。ざっくりいうと、酸性の土の場合は青色、アルカリ性だと赤色……といった具合に」
「へえ。じゃあ、紫色のは中性の土だからってことかな?」
「そのとおりです。厳密にはもっと細かく理由があるみたいですが」
じゃあ白いあじさいはどういう理屈だとか、卵の殻を撒くといつかは真っ赤になるだとか、たわいない話をぽつぽつと。
今日は朝から強い雨が降っている。昨日のことを思い出しつつも、濡れてしまったズボンの裾にうんざりとする気持ちが勝ってしまう。傘を差してきたのになあ。
「……ん?」
ふと見たスマホに、起きた時にはなかったメッセージ受信の通知が届いていた。差出人は昨日楽しくおしゃべりをしたあの人。
『おはよう! 面白いあじさい見つけたよ! これは、土の成分がミックスされているってことなのかな?』
画像が二枚添付されていた。一枚目は本文に合わせてだろう、雨の中でピンクやら水色やら薄紫やらをいっぺんに咲かせたひと株のあじさい。二枚目は、見事な紫色のあじさいの前で自撮りをしている濡れた姿。顔の隣のまあるいパープルが、まるで真横にある頬にキスをしようとしているみたいで、少しドキリとした。
『面白いあじさいですね。どれも素敵です』
一回だけ深呼吸をしてから、短い返事を打った。スマホを机に放って今度は大きく息を吐く。頭の中が届いた写真でいっぱいに塗り替えられて、ズボンの裾は気にならなくなった。
雨はまだまだ止みそうにないけれど、今日も一日頑張れそうな気がする。
「……っあ、そうだ……!」
作業に入る寸前に思い出す。そうだ、あの写真を見て思ったことが、伝え忘れたことがあったんだ。急いで追伸を送らなきゃ。
『追伸、ちゃんと傘を差して! 風邪なんて引かないでくださいね』
【あじさい】
「全然、片付いていませんが……」
本と書類とペン類と、それからマグカップ、たまにお箸。物にあふれた、お世辞にも綺麗とは言えない部屋に人を入れるのは久しぶりだ。
「こちらこそ、突然無理言っちゃってごめんね」
長居はしないから安心してよと続いた相手の言葉に本当に少しほっとしながら、目的の本を探す。
昼休み、ただの雑談だった。最近読んだ本が面白くて、それほどボリュームがあるわけでもないのに没入感がすごいんだと。もし嫌でなければ、機会があればぜひ読んでほしいと。
「じゃあ、その本、借りてもいい?」
そんな話をしていたら、無邪気な笑顔で返された。興味を持ってくれたのが嬉しくて、「もちろん!」なんて即答。夕方に約束して、部屋まで来てもらった。のが、今。
「うわあ、たくさんあるね……ジャンルも色々、勉強家だね」
「いやぁ、そんなことは……少しでも気になると手を伸ばして、それでどんどん増えていってしまうんです」
紙に埋もれるようにして置いてある机に狙いを定めて、貸すための本を探しながら答える。言葉にすると改めて、心から反省の念が湧いてくる。せめて整理整頓くらいすれば、もっとスマートな部屋になるだろうに、自分の体たらくにがっかりしてしまう。
待たせている相手はというと、あちこちに散らばる本や書類を手に取っては興味深そうに眺めている。時折小さく「次はこれ」「その次はこれ」と聞こえてくる。ひょっとして、次やその次の機会、またこの部屋に来るのだろうか。来てくれるのだろうか。絶対に片付けておこうと思った。
「あ、ありましたぁ。お待たせしました、どうぞ」
「ううん、そんなに待ってないよ。どうもありがとう」
思ってもいないところでそれを見つけ、その場で手渡す。眩しい笑顔を見てこちらまで表情がゆるむ。気付けば自分の根城に好きな人を招いたというのに、緊急やときめきを感じている暇なんてなかった。
「急がなくていいですからね、なんならずっと持っていてくれても」
「そんなことしないよ! 次に借りる本、さっき決めておいたから」
親指を立てた姿が余計に眩しい。恋心のせいだろうか。少しくらりとしながらも、渡した本が返ってくるまでにせめて食器くらいは片付けようと固く決心した。
【狭い部屋】
「どうしたの、変な顔してるよ」
調べ物をしている時の難しい顔、お昼ご飯を食べている時の美味しそうな顔、誰かとおしゃべりしている時の楽しそうな顔……普段からよく百面相をしている彼が、あまり見たことのない顔をしている。
「……あ、え、そんなに変な顔でしたか?」
「うん、初めて見る顔だよ」
あえて表現するなら、ムズムズを我慢しているような、解けない問題をずっと考えているような、個性的な味の食べ物を口にしたような……とにかく複雑な顔。彼はえへへと気まずそうに笑い、しかし正直に答えてくれた。
「ぼく、この時期がどうしても苦手で」
「この時期……ああ、雨がよく降る」
「そう。じめじめしたまとわりつくような空気とか、何となく身体がだるい感じとか……」
机に突っ伏し彼は続ける。両腕の下では数枚の書類が少し皺になる。
「極めつけは髪の毛です。普段からそんなにこだわってはいませんが、髪がどうしてもバクハツしてしまうんですよねえ。本当にこれには参ります」
「わあ、それは大変そうだ」
一本一本が細くて、人より量もあるのだろう。ふわふわと軽そうな髪が、なるほどいつにも増してあっちにこっちに跳ねていた。自分は短くしているからあまり影響は受けないが、これなら確かに愚痴だって零したくなる。
机に乗るその頭に思わず手を伸ばした。そっと触れた髪の毛はやはり柔らかくて、気の毒に思う気持ちよりも癒される気持ちのほうが勝ってしまう。たくさん触ると嫌がられてしまうかもしれないので、早めに手を引っ込める。
「とっても素敵な髪だと思うけどね」
断りもなく触ってしまったことへの言い訳めいた感想も添えながら。
「……ありがとうございます。今だけは素直に喜んでおきましょう」
僅かに顔を上げ、こちらを見てふにゃりと笑ったのを見て、あ、いつもの彼が戻ってきたと感じた。
「だとしても、この時期がしばらく続くのはちょっと……あなたは苦手じゃないんですかぁ?」
「んん、どうだろう?」
うんざりといった表情で問われる。長い雨は好きでも嫌いでもない。けれど、彼のこんな一面が見られるのだから、どちらかというと。
【梅雨】
できません。あくまでもぼくの持論ですが。
なぜなら、どんなに深く愛していたとしても、ぼくとあの人が共に生きるなんてことは不可能に近いから。多少の法を犯して道徳を捻じ曲げればまあ、いけなくもないんでしょうけど、それはあの人が悲しむのでいけません。円満な結ばれ方をしたいんです、できることならば。
――そう、円満な結ばれ方。そうなんですよ、結ばれるという部分からして破綻、もう駄目です。あの人は既に結ばれてしまっているんですから。しかも幸せな結ばれ方をしています。とっくのとうに誰かのものなんです。そこからどう動けば円満になんて行き着くのでしょう、ぼくには皆目見当もつきません。まったく困ったものです。
「愛があってもどうしようもないことだってありますよぉ」
「ん? 何か言った?」
なのでぼくは今日も、あなたへの思いを胃に押し込めたまま、良き同僚としてランチを楽しみます。
「いいえ何も。あ、ついでにポテトも頼みませんか?」
「わ、いいね、ダブルサイズにしよう!」
「賛成です」
店員さんを呼び止めてくれる左手、薬指を、ぼくは今日も見ないふりをする。
【愛があれば何でもできる?】