静寂の中心で
風が止んだのは、あの日の午後だった。
山間の小さな村に、音が消えた。鳥のさえずりも、川のせせらぎも、子どもたちの笑い声も。すべてが、まるで誰かがスイッチを切ったかのように、静寂に包まれた。
村の中央にある古びた神社。そこに住む巫女・澪(みお)は、静寂の理由を知っていた。
それは、百年に一度、神が眠る場所が開かれる時。音が消えるのは、神が夢を見るための準備なのだと、古文書に記されていた。
澪は神社の奥へと進んだ。誰も足を踏み入れたことのない「御神座(みかみくら)」の前で、彼女は静かに座った。
音がない世界では、心の声が響く。
「私は、誰かのために生きているのだろうか」
「この村に、私が必要とされているのだろうか」
澪の胸に、長年押し込めていた疑問が浮かび上がる。
その時、静寂の中心で、微かな鼓動のようなものが聞こえた。
それは、神の夢の始まりだった。
澪は目を閉じ、神の夢に身を委ねた。夢の中で、彼女は村の人々の記憶を見た。笑顔、涙、祈り。そこには、澪がいた。誰かの手を握り、誰かの背を押し、誰かの涙を拭っていた。
静寂が終わるとき、風が戻り、鳥が鳴き、川が流れ出す。
澪は神社の外に出て、空を見上げた。
「私は、ここにいる意味がある」
そう呟いた声は、風に乗って村中に届いた。
お題♯静寂の中心で
想いの葉
秋の終わり、山間の村に一人の青年が戻ってきた。名を蓮(れん)という。五年ぶりの帰郷だった。
村は紅葉の盛りを過ぎ、木々の葉は風に舞いながら地に落ちていた。蓮は幼い頃からこの季節が好きだった。葉が燃えるように赤く染まり、空気が澄み、世界が静かになる。だが、今年の紅葉は何かが違っていた。
「葉が……燃えてる?」
蓮は目を疑った。山の斜面に広がる楓の林、その葉が本当に炎を纏っていた。赤く、橙に、時に青白く。だが燃え尽きることはなく、風に揺れながら、静かに輝いていた。
村の長老に尋ねると、彼は静かに語った。
「それは“想いの葉”じゃ。人の心が強く残った場所に、時折現れる。燃えているように見えるのは、未練や願いが形を取ったものじゃ」
蓮は胸の奥がざわついた。五年前、彼はこの村を出る前に、幼馴染の紗夜(さよ)に別れを告げられた。彼女は病に伏し、静かに命を閉じた。蓮はその事実を受け入れられず、逃げるように都会へ出た。
「紗夜の……想い?」
蓮は燃える葉の中に、彼女の面影を見た。笑顔で、風に髪をなびかせながら、彼を見つめていた。
その夜、蓮は林の中に立ち尽くした。葉が舞い、炎のように彼の周囲を包む。すると、ひとひらの葉が彼の手に落ちた。触れても熱くはない。ただ、心が温かくなるような感覚が広がった。
「ありがとう、蓮。来てくれて」
誰かの声が、風に乗って聞こえた気がした。
翌朝、林の葉はすべて落ちていた。燃えるような輝きは消え、ただの枯葉となっていた。
蓮は微笑んだ。紗夜の想いは、葉となって彼を迎え、そして静かに消えていった。彼はようやく前を向ける気がした。
そして、村に残ることを決めた。
お題♯燃える葉
月光の約束
夜の帳が降りると、街は静寂に包まれる。灯りの消えた公園のベンチに、ひとりの青年が座っていた。名は蒼(あおい)。彼は毎月、満月の夜にこの場所へ来る。理由は誰にも話したことがない。
月光が銀色のベールのように地面を照らすと、空気がわずかに震えた。蒼は目を閉じ、そっと呼びかける。
「来てくれるかい、月の人。」
風が優しく頬を撫でる。次の瞬間、ベンチの隣に少女が現れた。透き通るような白い肌、淡い光を纏った髪。彼女は月の世界から来た、名をルナという。
「今夜も来てくれてありがとう」とルナは微笑む。
蒼とルナは、月光の下で語り合う。日常の些細なこと、夢の話、そして互いの世界の違い。ルナの世界では、時間がゆっくり流れ、感情は光の色で表現されるという。蒼はそれを聞いて、いつも心が温かくなる。
だが、彼らの逢瀬には制限がある。月が満ちている間だけ、ルナは地上に降りられる。残された時間はあとわずか。
「次の満月には、もう来られないかもしれない」とルナが言った。
蒼は言葉を失った。彼女の瞳が、淡い青に染まっていた。悲しみの色だ。
「それでも、僕はここにいる。君が来なくても、月を見上げるよ。君がそこにいるって、信じてるから。」
ルナはそっと蒼の手に触れた。冷たく、でも確かにそこにある温もり。
「ありがとう。あなたの言葉は、私の世界にも届く。月光に乗せて。」
そして、彼女は月の光に溶けるように消えていった。
蒼は空を見上げた。満月が、静かに微笑んでいるようだった。
お題♯moonlight
さよならの前に
朝の光が差し込む部屋で、美咲は静かに目を覚ました。隣には、昨夜遅くまで話し込んだ幼馴染の悠人が眠っている。彼の寝息は規則的で、まるで何もかもが平穏であるかのようだった。
けれど、美咲の胸の奥には、言いようのない罪悪感が渦巻いていた。
「今日だけ許して」
それが、彼女が昨日の夜、悠人に言った言葉だった。
美咲は来週、遠くの街へ引っ越す。夢だった舞台の仕事が決まり、東京を離れることになった。悠人にはまだ言っていない。言えなかった。彼と過ごす時間が、あまりにも心地よかったから。
昨日の夜、二人は高校時代の思い出を語り合い、笑い合い、そして自然と唇が重なった。
「ごめんね、悠人。これはずるいよね。でも、今日だけ…今日だけ許して」
彼は何も言わず、ただ彼女を抱きしめた。
美咲はそっとベッドを抜け出し、キッチンでコーヒーを淹れる。窓の外には、秋の風が街路樹を揺らしている。彼女はマグカップを両手で包みながら、心の中で何度も繰り返す。
「ありがとう。そして、さようなら」
その日、美咲は何も告げずに部屋を後にした。悠人が目を覚ましたとき、テーブルの上には一枚の手紙が置かれていた。
悠人へ昨日はありがとう。
あなたと過ごした時間は、私の宝物です。でも私は、自分の夢を選びます。今日だけ、許して。美咲
悠人は手紙を読み終え、静かに微笑んだ。
「…バカだな。許すに決まってるだろ」
そして彼は、窓の外に広がる空を見上げた。そこには、美咲が向かった未来が、確かに広がっていた。
お題♯今日だけ許して
大荘に響く音
夜の帳が降りる頃、古びた山荘に一人の男が戻ってきた。名を佐伯といった。彼は十年ぶりにこの場所を訪れた。かつて家族と過ごした思い出の地。今は誰も住んでいない。
玄関の鍵を開けると、木造の床がきしむ音が静寂を破った。懐かしい匂いが鼻をつく。埃と湿気、そして微かに残る薪の香り。
佐伯はリビングのソファに腰を下ろし、静かに目を閉じた。すると、遠くから「コツ、コツ」と足音が聞こえた気がした。風の音か、木々のざわめきか。いや、それは確かに人の足音だった。
彼は立ち上がり、窓の外を見た。誰もいない。だが、足音は少しずつ近づいてくるように感じた。
十年前の冬、妹の美咲がこの山荘で姿を消した。警察も捜索隊も手がかりを見つけられなかった。佐伯はその日以来、罪悪感と後悔を抱えて生きてきた。
「兄さん、待ってて」と言った美咲の声が、今も耳に残っている。
足音は止まった。玄関の前だ。
佐伯はゆっくりと扉に近づき、手を伸ばした。ノブに触れると、冷たい感触が指先に伝わる。深呼吸をして、扉を開けた。
そこには、誰もいなかった。
だが、足元には小さな足跡が残っていた。雪もないのに、濡れたような跡が玄関から奥へと続いている。
佐伯はその跡を追った。足音は、彼の心の奥に眠っていた記憶を呼び起こす。遠い足音は、過去からの呼び声だった。
そして彼は、山荘の奥の部屋で、古びた日記帳を見つけた。美咲のものだった。
「兄さんへ。私はここにいるよ。」
佐伯は涙を流しながら、ページをめくった。遠い足音は、彼を導くために響いていたのだ。
お題♯遠い足音