時の窓とコーヒーの記憶
喫茶店「時の窓」は、駅前の古びたビルの二階にひっそりと佇んでいる。店内は木の温もりに包まれ、昼下がりには柔らかな陽光がステンドグラスを通して差し込む。ここには、ある不思議なルールがある。
「この席に座ると、過去に戻れる。ただし、コーヒーが冷めないうちに戻ってこなければならない。」
その噂を聞きつけて、今日も一人の客が店を訪れた。
彼の名は遥人(はると)。30歳の会社員。手には一冊の古びたノートを握りしめていた。
「この席、空いてますか?」
店主の静かな頷きとともに、遥人はその特別な席に腰を下ろした。注文したのは、深煎りのブレンドコーヒー。湯気が立ち上るその瞬間、彼は目を閉じた。
戻った先は、5年前の冬。大学時代の恋人、紗季(さき)と最後に会った日だった。
「どうして、あの日何も言わずに消えたの?」
紗季の声が、今も胸に刺さる。彼は仕事に追われ、夢に焦がれ、彼女の存在を後回しにしてしまった。気づいたときには、彼女は遠くへ引っ越していた。
「紗季、ごめん。あの時、君のことをちゃんと見ていなかった。」
彼女は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「言ってくれて、ありがとう。私も、ちゃんと前に進めそう。」
その瞬間、コーヒーの湯気が消えかけていた。遥人は席を立ち、現代へと戻った。
喫茶店の空気は変わらず穏やかだった。カップの中には、まだ少し温もりの残るコーヒー。
遥人はノートを開き、そこに一行書き加えた。
「過去は変えられない。でも、心は救える。」
彼は静かに微笑み、最後の一口を飲み干した。
お題♯コーヒーが冷めないうちに
鏡の向こうの君
鏡の中の自分が、瞬きしなかった。
それに気づいたのは、朝の支度をしていたときだった。いつものように髪を整え、ネクタイを締め、鏡に映る自分を確認する。だがその日は、鏡の中の「僕」が、ほんの一瞬、僕よりも早く動いた。
「……気のせいか?」
そう思って仕事へ向かったが、違和感は消えなかった。電車の窓に映る自分、ビルのガラスに映る自分——どれも微妙に、何かが違う。表情が硬い。目が冷たい。まるで、僕を見ているのではなく、観察しているようだった。
その夜、鏡の前に立った僕は、意を決して話しかけた。
「君は……誰だ?」
鏡の中の僕が、口を開いた。
「やっと気づいたか。僕は“君”だよ。別の世界の。」
言葉を失った僕に、鏡の中の“僕”は語り始めた。そこは、僕が選ばなかった選択肢で構成された世界。大学を辞めた世界。恋人と別れなかった世界。夢を追い続けた世界。
「君が捨てた可能性で、僕は生きている。だけど、最近、君の世界が気になって仕方がない。君は、僕より幸せに見える。」
「そんなこと……」
「交換しよう。少しだけ。君の世界を、僕に見せてくれ。」
鏡の中の“僕”が手を伸ばす。僕は、なぜかその手を取ってしまった。
次の瞬間、世界が反転した。
目の前に広がるのは、見慣れた部屋。でも、写真の中の恋人は違う人。スマホの中の連絡先も、知らない名前ばかり。仕事は、夢だったはずの小説家。机の上には、出版されたばかりの本が置かれていた。
「これが……僕の、もう一つの人生?」
その夜、鏡の中には、僕がいた。元の世界の僕が、静かにこちらを見ていた。
「どうだい? そっちは。」
僕は答えた。
「まだ分からない。でも、少なくとも——君の世界も、悪くない。」
お題♯パラレルワールド
零時の重なり
午前零時、古びた時計塔の鐘が静かに鳴った。
その瞬間、時計の針がぴたりと重なり、街の時間が止まった。
誰も気づかない。けれど、彼女だけは知っていた。
「また来たのね」
時計塔の下、白いワンピースを揺らしながら少女はつぶやいた。彼女の前に現れたのは、灰色のコートを着た青年。彼は、毎月満月の夜、時計の針が重なる瞬間にだけ現れる。
「君に会えるのは、この一瞬だけだ」
青年は微笑む。彼の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
少女は彼の手に触れようとするが、指先はすり抜ける。彼はもうこの世界の人間ではなかった。事故で亡くなった恋人。彼女はその事実を受け入れられず、時計塔に通い続けていた。
「時間が重なるとき、僕は君の記憶の中に戻ってこられる。けれど、針が離れれば、僕も消える」
「それでもいい。あなたに会えるなら、何度でもここに来る」
青年はそっと彼女の髪に触れるふりをした。風が吹き、彼女の髪が揺れる。
「ありがとう。君が僕を忘れない限り、僕はここに来られる」
鐘が二度目の音を鳴らす。針がずれ、時間が再び動き出す。
青年の姿は、夜の闇に溶けて消えた。
少女は静かに目を閉じた。
「また、来月ね」
時計の針が重なるその瞬間に、彼女は永遠の一秒を生きていた。
お題♯時計の針が重なって
屋上の約束
秋の風が校庭を吹き抜ける午後、僕は屋上で彼女を待っていた。
「遅いな…」
空は高く、雲は薄く、世界は静かだった。そんな中、ドアが開いて、彼女が現れた。制服のリボンが風に揺れている。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、来てくれてありがとう」
彼女――美月は、転校してきたばかりだった。誰とも話さず、いつも一人でいた。僕はなぜか気になって、声をかけた。最初は無視された。でも、ある日、彼女がぽつりと言った。
「…一緒にいてくれる?」
それから僕たちは、放課後を屋上で過ごすようになった。話すことは少なかったけれど、沈黙が心地よかった。
ある日、美月が言った。
「ねえ、もし私がいなくなったら、どうする?」
「…困るよ。僕、君と一緒にいたいから」
彼女は少し笑って、空を見上げた。
「ありがとう。そう言ってくれる人、初めてだった」
その日を境に、美月は少しずつ変わった。笑うようになり、教室でも話すようになった。僕は嬉しかった。でも、ある朝、彼女は学校に来なかった。
先生は言った。
「美月さんは、遠くの病院に入院することになりました」
僕は走った。電車に乗って、病院へ向かった。病室の窓から見える空は、屋上と同じくらい高かった。
「来てくれたんだ」
「うん。僕と一緒にいたいって言っただろ?」
彼女は涙を浮かべて笑った。
「じゃあ、約束して。これからも、ずっと一緒にいてくれる?」
僕は頷いた。
「もちろん。僕と一緒に、未来へ行こう」
お題♯僕と一緒に
曇りの庭
午後三時、庭の紫陽花が静かに揺れていた。空は一面の灰色。雨が降るでもなく、晴れる気配もない。そんな曇りの日は、いつも彼女の記憶を呼び起こす。
「曇ってるね」と、祖母はよく言った。「でも、曇りの日こそ、色がよく見えるのよ」
その言葉を思い出すたび、彼女は祖母の庭に立っている気がした。色褪せたベンチ、苔むした石畳、そして、曇り空の下で鮮やかに咲く花々。祖母は、曇りの日にしか庭を歩かなかった。
「晴れの日はまぶしすぎて、花の本当の色が見えないの」
彼女は祖母の死後、庭を受け継いだ。最初は何もわからず、花も枯れかけていた。でも、曇りの日にだけ水をやり、剪定をし、語りかけるように手入れをするうちに、庭は少しずつ息を吹き返した。
今日も曇り。彼女はベンチに座り、祖母の古い日記を開いた。そこには、曇りの日の庭の記録がびっしりと書かれていた。
「6月12日、曇り。紫陽花が青くなった。雨はまだ。風は西から。庭は静か」
その静けさの中に、祖母の声が聞こえる気がした。
曇りの日は、過去と現在が重なる。色が浮かび上がり、音が沈み、記憶がそっと寄り添ってくる。
彼女は立ち上がり、紫陽花に触れた。冷たい葉の感触。曇り空の下で、それは確かに生きていた。
そして彼女は思った。
「曇りって、悪くない」
お題♯cloudy