夢の橋を渡って
雨が降り続いた三日目の午後、空に大きな虹がかかった。
その虹は、町のはずれにある古びた時計塔から、遠くの山の頂までをつなぐように、まるで誰かが意図して描いたかのように鮮やかだった。
「おじいちゃん、虹って渡れるの?」
七歳の遥が、祖父の膝の上で問いかけた。
祖父は目を細めて、遠くの虹を見つめながら言った。
「昔な、虹の架け橋を渡った少年がいたんじゃ。心に願いを持っていた者だけが渡れる橋だったそうじゃよ」
遥の瞳が輝いた。
「じゃあ、私も渡れるかな。ママに会いたいって願ってるから」
母を亡くして一年。遥の願いは、ただ一つだった。
その夜、遥は夢を見た。
虹のふもとに立つ自分。空に向かって伸びる七色の道。足元はふわふわと雲のようで、風が優しく背中を押す。
遥は一歩、また一歩と虹を登っていく。
途中、色とりどりの光が彼女の周りを舞い、どこからともなく母の声が聞こえた。
「遥、よく来たね」
振り向くと、そこには優しく微笑む母の姿。
「ママ!」
遥は駆け寄り、母の腕の中に飛び込んだ。
母は遥を抱きしめながら言った。
「あなたの願いが、虹を架けたのよ。でもね、今はまだ帰る時じゃない。おじいちゃんのそばで、たくさんの幸せを見つけてね」
遥は涙をこらえながらうなずいた。
そして、目を覚ますと、窓の外にはまだ虹が残っていた。
祖父がそっと言った。
「夢を見たかい?」
遥は笑って答えた。
「うん、ママに会えた。虹の架け橋を渡って」
祖父は何も言わず、ただ遥の頭を撫でた。
その日から、遥は毎日空を見上げるようになった。
虹がかかるたび、心の中で母に話しかける。
そして、いつかまた虹の架け橋を渡る日を、静かに待ち続けている。
お題♯虹の架け橋
青いチェックのまま
第一章:沈黙の通知
春の終わり、東京の空は曇っていた。
美咲はスマホを握りしめたまま、駅のホームで立ち尽くしていた。画面には、昨日送ったメッセージが表示されている。
「久しぶり。元気にしてる?」
その下にある、灰色の「未読」のチェックマーク。
それは、彼との距離を測る物差しのようだった。
第二章:青いチェックの記憶
彼――悠人とは、大学時代に出会った。
いつも既読はすぐについた。返信も早かった。
「美咲の文章って、なんか落ち着くんだよね」
そう言ってくれたのは、あの冬の夜だった。
でも、卒業と同時に彼は地方に就職し、連絡は次第に減っていった。
最後に会ったのは、去年の夏。
「また連絡するね」
その言葉を信じて、美咲は待ち続けた。
第三章:未読の理由
メッセージを送ってから三日。
既読はつかない。
スマホの通知音が鳴るたびに胸が跳ねる。
でも、それはいつも違う誰かからだった。
「もしかして、事故にでも…」
そんな不安がよぎる。
でも、SNSでは彼が昨日「ラーメンうまかった」と投稿していた。
元気なのだ。
ただ、美咲のメッセージには触れていない。
第四章:返信のない返信
美咲は、もう一度だけ送ることにした。
「読んでくれてなくてもいい。
ただ、元気ならそれでいい。
ありがとう、今まで。」
送信ボタンを押した瞬間、涙が頬を伝った。
そして、スマホを伏せた。
数時間後。
画面を見た美咲は、息を呑んだ。
そこには、青いチェックがついていた。
でも、返信はなかった。
それでも、美咲はスマホをそっとしまった。
それは、彼からの最後の「返信」だったのかもしれない。
お題♯既読がつかないメッセージ
紅葉の約束
風が冷たくなり始めた十月の終わり、由梨は久しぶりに故郷の山道を歩いていた。
赤や橙に染まった木々が、まるで空に向かって燃え上がる炎のように揺れている。
「今年も綺麗だね」
隣で歩く祖母が、ゆっくりとした足取りで言った。
由梨がこの道を歩くのは、五年ぶりだった。東京での仕事に追われ、季節の移ろいを感じる余裕もなかった。祖母が体調を崩したと聞き、急遽帰省したのだ。
「昔、ここで約束したの覚えてる?」
祖母が立ち止まり、一本の紅葉を見上げた。
由梨は記憶をたどる。小学生の頃、祖母とこの道を歩いたときのこと。
「大人になっても、秋になったら一緒に紅葉を見ようね」
あのときの約束。
「覚えてるよ。忘れるわけない」
由梨は微笑んだ。
祖母は目を細めて、紅葉の葉が舞い落ちるのを見つめた。
「秋はね、終わりじゃなくて始まりなのよ。葉が落ちて、土に還って、また春に芽吹く。人生もそう。終わりのように見えて、次の季節が待ってるの」
由梨はその言葉を胸に刻んだ。
二人はしばらく黙って歩いた。風が吹くたび、葉が舞い、空が染まる。
秋色の中で、由梨は初めて「帰ってきた」と感じた。
そして心に誓った。
来年も、再来年も、この道を祖母と歩こう。
紅葉の約束を、ずっと守り続けよう。
お題♯秋色
最後の手紙
世界が終わるまで、あと七日。
政府の発表は突然だった。科学者たちが長年警告していた小惑星が、ついに地球に衝突する軌道に乗ったという。回避は不可能。人類は、滅亡を受け入れるしかなかった。
東京の片隅で、郵便配達員の佐藤遥は、最後の週をいつも通りに過ごすことに決めた。彼女は毎朝、赤い自転車に乗って手紙を届ける。誰もがスマホで連絡を取る時代に、手紙を送る人は少ない。でも、今週だけは違った。
ポストは溢れていた。別れの言葉、感謝の気持ち、告白、懺悔。人々は最後の瞬間に、言葉を紙に託した。
遥は配達先で、泣きながら手紙を読む人々を見た。ある老人は、50年前に別れた恋人からの手紙を握りしめていた。ある少女は、父親に宛てた「ありがとう」の手紙を空に向かって読んでいた。
六日目の夜、遥は自分の部屋で一通の手紙を書いた。
「お母さんへ。
あなたが亡くなってから、ずっと寂しかった。
でも、あなたが教えてくれた“人に優しくすること”を、私は守ってきたよ。
最後の瞬間まで、私は誰かの心を運び続ける。
ありがとう。愛してる。」
七日目の朝。空は赤く染まり、街は静まり返っていた。
遥は最後の配達に向かった。手紙の宛先は「未来の誰かへ」。
彼女は丘の上に立ち、手紙を風に乗せた。
「もしも、誰かがこの世界の記憶を拾ってくれるなら。
私たちは、愛し合っていたと伝えてください。」
そして、空が光に包まれた。
お題♯もしも世界が終わるなら
ほどけた靴紐
駅のホームで、彼女は立ち止まった。
朝の通勤ラッシュ、人々は流れるように歩いていく。だが彼女だけが、しゃがみ込んで靴紐を結び直していた。
「またほどけた…」と、彼女は小さくつぶやいた。
その靴は、大学入学のときに母が買ってくれたものだった。白地に淡いブルーのライン。少し色褪せてはいたが、彼女はずっとそれを履き続けていた。靴紐も何度も交換したが、なぜかすぐにほどける。
「ちゃんと結んだはずなのに…」
彼女は結び目を見つめながら、ふと大学時代のことを思い出した。
初めての一人暮らし。慣れない講義。孤独。
そんなとき、同じゼミの彼が声をかけてくれた。
「靴紐、ほどけてるよ」
それが、彼との最初の会話だった。
彼は器用に彼女の靴紐を結び直してくれた。蝶々結びではなく、ほどけにくい「イアン結び」という方法で。
「これなら大丈夫。ほどけにくいから」
彼の指先は温かかった。
それから二人は、少しずつ距離を縮めていった。
だが、卒業と同時に彼は遠くの都市へ就職。
「また会おうね」と言ったきり、連絡は途絶えた。
彼女はその靴を履き続けた。ほどけるたびに、彼の指先を思い出した。
ホームに電車が滑り込んでくる。
彼女は立ち上がり、結び直した靴紐を見下ろした。
そのとき、向かいのホームに立つ男性が目に入った。
スーツ姿。少し疲れた顔。でも、見覚えのある横顔。
彼だった。
彼女は思わず一歩踏み出した。
そして、ほどけた靴紐につまずいた。
「大丈夫ですか?」
声がした。
顔を上げると、彼が目の前にいた。
「…靴紐、ほどけてるよ」
彼女は笑った。
「また、ほどけちゃった」
彼はしゃがみ込み、あのときと同じように結び直してくれた。
ほどけにくい、イアン結びで。
お題♯靴紐