夜の祝福あれ

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ほどけた靴紐

駅のホームで、彼女は立ち止まった。
朝の通勤ラッシュ、人々は流れるように歩いていく。だが彼女だけが、しゃがみ込んで靴紐を結び直していた。

「またほどけた…」と、彼女は小さくつぶやいた。

その靴は、大学入学のときに母が買ってくれたものだった。白地に淡いブルーのライン。少し色褪せてはいたが、彼女はずっとそれを履き続けていた。靴紐も何度も交換したが、なぜかすぐにほどける。

「ちゃんと結んだはずなのに…」

彼女は結び目を見つめながら、ふと大学時代のことを思い出した。
初めての一人暮らし。慣れない講義。孤独。
そんなとき、同じゼミの彼が声をかけてくれた。

「靴紐、ほどけてるよ」

それが、彼との最初の会話だった。

彼は器用に彼女の靴紐を結び直してくれた。蝶々結びではなく、ほどけにくい「イアン結び」という方法で。

「これなら大丈夫。ほどけにくいから」

彼の指先は温かかった。
それから二人は、少しずつ距離を縮めていった。

だが、卒業と同時に彼は遠くの都市へ就職。
「また会おうね」と言ったきり、連絡は途絶えた。

彼女はその靴を履き続けた。ほどけるたびに、彼の指先を思い出した。

ホームに電車が滑り込んでくる。
彼女は立ち上がり、結び直した靴紐を見下ろした。

そのとき、向かいのホームに立つ男性が目に入った。
スーツ姿。少し疲れた顔。でも、見覚えのある横顔。

彼だった。

彼女は思わず一歩踏み出した。
そして、ほどけた靴紐につまずいた。

「大丈夫ですか?」

声がした。
顔を上げると、彼が目の前にいた。

「…靴紐、ほどけてるよ」

彼女は笑った。
「また、ほどけちゃった」

彼はしゃがみ込み、あのときと同じように結び直してくれた。
ほどけにくい、イアン結びで。

お題♯靴紐

9/17/2025, 1:23:52 PM