潮風と、十年分の手紙
東京駅のホームに、静かに電車が滑り込んできた。
彼女はキャリーケースの取っ手を握りしめ、深く息を吐いた。
十年ぶりの帰郷。
それは、彼女にとって“旅”というより、“償い”だった。
故郷は、北陸の小さな町。
高校卒業と同時に飛び出して以来、一度も戻っていない。
理由は、あまりにも多すぎて、逆に説明できなかった。
車窓から見える景色は、少しだけ変わっていた。
けれど、山の形も、川の流れも、あの頃と同じだった。
胸の奥が、じんわりと痛む。
駅に着くと、懐かしい匂いが彼女を包んだ。
潮の香りと、古い木造の商店街の匂い。
それは、思い出の匂いだった。
「……帰ってきたんだな」
声をかけてきたのは、幼なじみの尚人だった。
彼は変わっていなかった。少しだけ髪が短くなって、声が低くなっただけ。
「久しぶり」
それだけ言うと、彼女は目を伏せた。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこなかった。
尚人は笑った。
「お前が帰ってくるって聞いて、町中がざわついてたよ。
でも、俺は信じてた。いつか、ちゃんと戻ってくるって」
二人は並んで歩いた。
商店街のシャッターは少し増えていたけれど、あの駄菓子屋はまだあった。
川沿いの桜並木も、秋の風に揺れていた。
「……あの頃、私は逃げてばかりだった」
彼女がぽつりと呟くと、尚人は立ち止まった。
「逃げることも、旅の一部だよ。
でも、戻ってきたってことは、もう一度始めるってことだろ?」
その言葉に、彼女は初めて笑った。
涙が頬を伝っていたけれど、それは悲しみではなかった。
センチメンタル・ジャーニー。
それは、過去を振り返る旅ではなく、未来へ踏み出すための旅だった。
お題♯センチメンタル・ジャーニー
君と見上げた、あの夜の月
夜の公園は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
ベンチに座ると、空には大きな満月が浮かんでいた。
その光は、街灯よりも優しく、けれど確かに世界を照らしていた。
「月、綺麗だね」
隣に座った彼女が、ぽつりと呟いた。
その声は、風に乗って耳に届いたけれど、どこか遠く感じた。
僕たちは、もうすぐ離れ離れになる。
彼女は来月、遠い街へ引っ越す。
理由は夢のため。反対する理由なんて、どこにもない。
でも、心の中にはぽっかりと穴が空いていた。
「ねえ、月ってさ、どこから見ても同じ形なんだって」
彼女は笑った。
「だから、離れても、同じ月を見てるって思えば、少しだけ寂しくなくなるかも」
僕はうなずいた。
言葉にできない想いが、胸の奥で渦を巻いていた。
「君がいなくなるのは、やっぱり寂しいよ」
ようやく絞り出した言葉に、彼女は少しだけ目を伏せた。
「私も、寂しい。でもね、月を見上げるたびに、君のこと思い出すと思う」
その言葉は、僕の空白を少しだけ埋めてくれた。
二人で見上げた月は、まるで何も知らないふりをして、ただ静かに輝いていた。
でも、僕たちは知っていた。
この夜、この月、この沈黙が、きっと未来のどこかで繋がっていることを。
別れは終わりじゃない。
それは、同じ月を見上げる約束の始まりだった。
お題♯君と見上げる月
空白のノート
目を覚ました瞬間、世界が知らない顔をしていた。
天井の模様も、壁の色も、窓の外の景色も、すべてが見覚えのないものだった。
名前が思い出せない。年齢も、住んでいた場所も。
ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いているような感覚だけが、確かだった。
「おはようございます、佐伯さん」
白衣の女性が微笑む。
佐伯?それが自分の名前なのか。
頷くと、彼女は安心したように言った。
「少しずつ、思い出していきましょうね」
病室の窓から見える桜の木は、まだ蕾を抱えていた。
春が来るのだ。自分の中には冬しかないのに。
数日後、ノートが渡された。
「これは、あなたが書いていた日記です」
ページをめくると、見覚えのある字が並んでいた。
けれど、書いた記憶はない。
“3月12日 母の好きだったカレーを作った。味は少し違ったけど、懐かしかった。”
“4月2日 駅前の花屋でチューリップを買った。あの人の誕生日だったから。”
“あの人”とは誰なのか。
日記の中には何度もその言葉が出てくる。
名前は書かれていない。
写真もない。
まるで、意図的に空白にされたようだった。
ある夜、夢を見た。
雨の中、傘もささずに立っている誰か。
その人は笑っていた。
「忘れてもいいよ。でも、思い出してくれたら嬉しいな」
目が覚めると、涙が頬を伝っていた。
それから、少しずつ記憶が戻り始めた。
母の声。好きだった音楽。
そして、駅前の花屋でチューリップを買った日。
その日、渡した相手の顔はまだぼんやりしている。
でも、心の中の空白が、少しずつ色づいていくのがわかった。
空白は、ただの欠落ではない。
それは、何かを取り戻すための余白なのかもしれない。
佐伯は新しいノートを開いた。
そして、初めての一行を書いた。
“今日、桜が咲いた。”
お題♯空白
台風が過ぎ去って
朝、目を覚ました瞬間、静寂が部屋を満たしていた。
昨日までの怒号のような風の音も、窓を叩く雨のリズムも、すべてが嘘のように消えていた。
由梨は布団の中でしばらくじっとしていた。
台風が過ぎた後の空気は、いつも少し重たい。
湿った空気に混じって、どこか焦げたような匂いがする。
それは、壊れた何かの匂いかもしれないし、始まりの匂いかもしれない。
「行ってみようか」
由梨は小さく呟いて、長靴を履いた。
玄関を開けると、世界はまるで違っていた。
木々は倒れ、電柱は傾き、近所のコンビニの看板は地面に突き刺さっていた。
けれど、空は澄み渡っていた。雲ひとつない青空が、すべてを見下ろしていた。
由梨は歩きながら、昨日の夜のことを思い出していた。
停電の中、ろうそくの火を囲んで、母と話したこと。
「昔はもっと大きな台風が来たのよ」
「怖くなかった?」
「怖かった。でもね、終わった後は、必ず何かが変わるの」
その言葉が、今になって胸に響いていた。
公園に着くと、池の水が溢れて、遊具は泥にまみれていた。
でも、子どもたちが笑いながら泥を跳ねていた。
誰かが木の枝を拾って、即席の釣り竿を作っていた。
大人たちは黙々と掃除を始めていた。
誰もが、何かを取り戻そうとしていた。
由梨は空を見上げた。
台風が過ぎ去って、世界は少し壊れて、少しだけ優しくなっていた。
そして、自分もまた、何かを始められる気がした。
お題♯台風が過ぎ去って
ひとりきり
東京の夜は、誰にも気づかれずに泣ける場所が多すぎる。
高橋紗季(たかはし・さき)は、仕事帰りの電車を降りると、まっすぐに家には帰らなかった。駅前のコンビニで缶チューハイを一本買い、近くの公園のベンチに腰を下ろす。秋の風が肌を撫でる。誰もいない。誰も、彼女のことを知らない。
「ひとりきりって、こんなに静かなんだっけ」
声に出してみると、思ったよりも震えていた。三年前に婚約破棄された日も、去年母が亡くなった日も、今日のように誰にも言えずに、ただ黙っていた。強がりは得意だった。笑顔も、社交も、全部演技だった。
缶を開ける音が、夜に響いた。
そのとき、ベンチの向こう側に誰かが座った。紗季は驚いて顔を上げる。若い男だった。スーツ姿で、同じように缶チューハイを持っていた。
「ここ、静かでいいですよね」
彼はそう言って、缶を傾けた。紗季は黙って頷いた。しばらく沈黙が続いた。風が落ち葉を転がす音だけが聞こえる。
「俺も、ひとりきりになるために来たんです」
その言葉に、紗季は思わず笑ってしまった。彼も笑った。二人の笑い声が、夜の公園に小さく響いた。
「ひとりきりって、誰かと共有できるんですね」
紗季はそう言って、缶を持ち上げた。彼も缶を合わせた。乾杯の音が、静かな夜を少しだけ温かくした。
お題♯ひとりきり