空白のノート
目を覚ました瞬間、世界が知らない顔をしていた。
天井の模様も、壁の色も、窓の外の景色も、すべてが見覚えのないものだった。
名前が思い出せない。年齢も、住んでいた場所も。
ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いているような感覚だけが、確かだった。
「おはようございます、佐伯さん」
白衣の女性が微笑む。
佐伯?それが自分の名前なのか。
頷くと、彼女は安心したように言った。
「少しずつ、思い出していきましょうね」
病室の窓から見える桜の木は、まだ蕾を抱えていた。
春が来るのだ。自分の中には冬しかないのに。
数日後、ノートが渡された。
「これは、あなたが書いていた日記です」
ページをめくると、見覚えのある字が並んでいた。
けれど、書いた記憶はない。
“3月12日 母の好きだったカレーを作った。味は少し違ったけど、懐かしかった。”
“4月2日 駅前の花屋でチューリップを買った。あの人の誕生日だったから。”
“あの人”とは誰なのか。
日記の中には何度もその言葉が出てくる。
名前は書かれていない。
写真もない。
まるで、意図的に空白にされたようだった。
ある夜、夢を見た。
雨の中、傘もささずに立っている誰か。
その人は笑っていた。
「忘れてもいいよ。でも、思い出してくれたら嬉しいな」
目が覚めると、涙が頬を伝っていた。
それから、少しずつ記憶が戻り始めた。
母の声。好きだった音楽。
そして、駅前の花屋でチューリップを買った日。
その日、渡した相手の顔はまだぼんやりしている。
でも、心の中の空白が、少しずつ色づいていくのがわかった。
空白は、ただの欠落ではない。
それは、何かを取り戻すための余白なのかもしれない。
佐伯は新しいノートを開いた。
そして、初めての一行を書いた。
“今日、桜が咲いた。”
お題♯空白
9/13/2025, 1:41:24 PM