夜の祝福あれ

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台風が過ぎ去って

朝、目を覚ました瞬間、静寂が部屋を満たしていた。
昨日までの怒号のような風の音も、窓を叩く雨のリズムも、すべてが嘘のように消えていた。

由梨は布団の中でしばらくじっとしていた。
台風が過ぎた後の空気は、いつも少し重たい。
湿った空気に混じって、どこか焦げたような匂いがする。
それは、壊れた何かの匂いかもしれないし、始まりの匂いかもしれない。

「行ってみようか」
由梨は小さく呟いて、長靴を履いた。
玄関を開けると、世界はまるで違っていた。
木々は倒れ、電柱は傾き、近所のコンビニの看板は地面に突き刺さっていた。
けれど、空は澄み渡っていた。雲ひとつない青空が、すべてを見下ろしていた。

由梨は歩きながら、昨日の夜のことを思い出していた。
停電の中、ろうそくの火を囲んで、母と話したこと。
「昔はもっと大きな台風が来たのよ」
「怖くなかった?」
「怖かった。でもね、終わった後は、必ず何かが変わるの」
その言葉が、今になって胸に響いていた。

公園に着くと、池の水が溢れて、遊具は泥にまみれていた。
でも、子どもたちが笑いながら泥を跳ねていた。
誰かが木の枝を拾って、即席の釣り竿を作っていた。
大人たちは黙々と掃除を始めていた。
誰もが、何かを取り戻そうとしていた。

由梨は空を見上げた。
台風が過ぎ去って、世界は少し壊れて、少しだけ優しくなっていた。
そして、自分もまた、何かを始められる気がした。

お題♯台風が過ぎ去って

9/13/2025, 7:25:49 AM