鏡の向こうの君
鏡の中の自分が、瞬きしなかった。
それに気づいたのは、朝の支度をしていたときだった。いつものように髪を整え、ネクタイを締め、鏡に映る自分を確認する。だがその日は、鏡の中の「僕」が、ほんの一瞬、僕よりも早く動いた。
「……気のせいか?」
そう思って仕事へ向かったが、違和感は消えなかった。電車の窓に映る自分、ビルのガラスに映る自分——どれも微妙に、何かが違う。表情が硬い。目が冷たい。まるで、僕を見ているのではなく、観察しているようだった。
その夜、鏡の前に立った僕は、意を決して話しかけた。
「君は……誰だ?」
鏡の中の僕が、口を開いた。
「やっと気づいたか。僕は“君”だよ。別の世界の。」
言葉を失った僕に、鏡の中の“僕”は語り始めた。そこは、僕が選ばなかった選択肢で構成された世界。大学を辞めた世界。恋人と別れなかった世界。夢を追い続けた世界。
「君が捨てた可能性で、僕は生きている。だけど、最近、君の世界が気になって仕方がない。君は、僕より幸せに見える。」
「そんなこと……」
「交換しよう。少しだけ。君の世界を、僕に見せてくれ。」
鏡の中の“僕”が手を伸ばす。僕は、なぜかその手を取ってしまった。
次の瞬間、世界が反転した。
目の前に広がるのは、見慣れた部屋。でも、写真の中の恋人は違う人。スマホの中の連絡先も、知らない名前ばかり。仕事は、夢だったはずの小説家。机の上には、出版されたばかりの本が置かれていた。
「これが……僕の、もう一つの人生?」
その夜、鏡の中には、僕がいた。元の世界の僕が、静かにこちらを見ていた。
「どうだい? そっちは。」
僕は答えた。
「まだ分からない。でも、少なくとも——君の世界も、悪くない。」
お題♯パラレルワールド
9/25/2025, 1:34:38 PM