夜の祝福あれ

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時の窓とコーヒーの記憶

喫茶店「時の窓」は、駅前の古びたビルの二階にひっそりと佇んでいる。店内は木の温もりに包まれ、昼下がりには柔らかな陽光がステンドグラスを通して差し込む。ここには、ある不思議なルールがある。

「この席に座ると、過去に戻れる。ただし、コーヒーが冷めないうちに戻ってこなければならない。」

その噂を聞きつけて、今日も一人の客が店を訪れた。

彼の名は遥人(はると)。30歳の会社員。手には一冊の古びたノートを握りしめていた。

「この席、空いてますか?」

店主の静かな頷きとともに、遥人はその特別な席に腰を下ろした。注文したのは、深煎りのブレンドコーヒー。湯気が立ち上るその瞬間、彼は目を閉じた。

戻った先は、5年前の冬。大学時代の恋人、紗季(さき)と最後に会った日だった。

「どうして、あの日何も言わずに消えたの?」

紗季の声が、今も胸に刺さる。彼は仕事に追われ、夢に焦がれ、彼女の存在を後回しにしてしまった。気づいたときには、彼女は遠くへ引っ越していた。

「紗季、ごめん。あの時、君のことをちゃんと見ていなかった。」

彼女は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「言ってくれて、ありがとう。私も、ちゃんと前に進めそう。」

その瞬間、コーヒーの湯気が消えかけていた。遥人は席を立ち、現代へと戻った。

喫茶店の空気は変わらず穏やかだった。カップの中には、まだ少し温もりの残るコーヒー。

遥人はノートを開き、そこに一行書き加えた。

「過去は変えられない。でも、心は救える。」

彼は静かに微笑み、最後の一口を飲み干した。

お題♯コーヒーが冷めないうちに

9/26/2025, 10:27:41 AM