例えば、激しく流れる川のほとりに自分がいるような感覚。そこで泳いでいる人は何人もいるけど、自分は泳ぎ方もわからずに、ただ立ち尽くしている。泳いでいる人たちは楽しそうで、見ているうちに本当は自分もそこに行きたいんだと強く思うようになる。激流の中でも優雅に美しく舞うように泳いでいる人たちは、いろんな泳ぎ方を試して遊んでいるようだ。僕はただ、見れば見るほど急に見える流れの早さに怖気付いて、川のほとりでうずくまって、一人顔を沈めるのだ。
僕のバイトしている居酒屋は、都心からちょっと外れた駅の商店街の一角にある。庶民に優しい町の居酒屋という感じの店だ。常連さんはみんな顔を覚えていて、大将ともよく話している。
「最近の大河ドラマはダメだな、安っぽくていけねぇ」
いつも数人のグループで来る客がしている会話が耳に入った。
「そもそも出てる役者がガキばっかりでさ、芝居に重みがねえ。見る気もしねぇよ」
50代くらいだろうか、酔っ払って口が悪くなっている。日本を代表する最高峰のドラマシリーズにケチを付ける、誰にでもできる一番簡単なストレスの発散だ。僕はイライラする気持ちを抑えるのに必死だった。
「邦画もダメだね。人気がある客が来るでキャスティングしてたら、作品として残す意味がないよ。やっぱり映画はハリウッド。バックトゥー・ザ・フューチャーに限るよ」
そこでバットゥー・ザ・フューチャーを持ち出すんかい。まあ名作だけど。
「えー? 私は邦画もいいと思うわよ。いまをときめくイケメン俳優たちをスクリーンいっぱいの大画面で見る! ああ!眼福眼福っ!」
そこじゃないだろ。と思いつつ、そもそも銀幕のスターを観に行くという文化は二枚目俳優が作った面もあるから間違いとは言えない。
「ああもうみなさんだいぶ酔ってますね。今日はそろそろお開きにしましょうか」
グループの中では一番若そうな30歳ぐらいのメガネの男性が仕切ってお会計になった。
「ありがとうございました。またお越しください!」
大将が大声で客を見送る。レジを担当した僕は小さい声で「ありがとうございました」とだけつぶやいた。
川のほとりには僕だけじゃなく、たくさんの人がいた。僕みたいにうずくまっているだけじゃなく、泳いでいる人の姿を真剣に見守っている人もいれば、笑いながらヤジを飛ばしている人もいる。必死で声援を送っている人もいるようだ。
川の中をのぞくと、泳いでいる人の中にも、必死でもがき、なんとか流されずに食らいついている人もいた。よく見ると優雅に泳いでいる人はほんの一握りで、大勢の人がなりふり構わずあの手この手で川の流れに逆らっていた。そして、力尽きて流されていく人の姿も見られた。やはり僕は、この川の魅力に魅せられていた。
バイトの休憩時間、大将の作った賄いをいただきながら僕はスマホを手に取った。YourCubeを開いて途中まで見ていた動画を見る。
「この作品は、主人公の内面を……」
動画の音声が部屋中に鳴り響いた。いけね、音消してなかった。
「なに? 何の動画?」
大将に気づかれてしまった。
「あっ、すいません。音出しちゃって」
「いいよ、休憩中だし」
大将は咎めなかった。
「あ、あの、武村泰臣っていう映画監督のインタビューなんですけど。この前自主映画を撮って話題になってて」
「笛枝くん、映画好きなの?」
大将から直球の質問が来た。
「ええ、あ、まあ人並みには観る方かなって」
「話題になってるとはいえ、映画監督のインタビューまでチェックしてるなんて、相当好きでしょ」
大将の人当たりの良さが会話を促す。逃げられない。
「や、実は映画撮るのにも興味があって、でも全然勉強とかしてないですし、思ってるだけっていうか」
「でも映画たくさん観てるんでしょ? それはもう勉強だと思うけどな」
「そう、ですかね。観るのは好きです」
この人と話していると何故かしゃべってしまう。
「そうだ、いつも来てくれる常連さんいるじゃない。あの人たち確か映画サークルだったような」
常連さん……って、もしかしてあの酔っぱらい?
「今度来たときに話してみなよ」
「いや、あの人たちは……」
ガラガラガラ……
「どうもーまた来ちゃいましたー」
店の戸を開けたのはあの常連グループだった。
「あ、いらっしゃい! いやちょうどみなさんの話をしてたところで」
おいおいおい大将! そんなこと言ったら僕、出てかなきゃいけなくなるじゃん!
「実はウチのバイトで、映画撮りたいって子がいてね」
うわーマジか。あの人たちと話すのか。
激しく流れる川の淵に立たされたような気分だった。
「笛枝と言います」
映画サークルが座るボックス席の前に立って自己紹介をしている自分がいた。大将はもう厨房に戻っている。他にお客さんはいないので、僕はいまホールの仕事を免除されているらしい。
「俺たちはこの地域で活動してる映画サークル。年齢もまちまちだけど、いろんな縁が重なって一緒にやってる」
この前お会計を仕切ったメガネくんが説明してくれた。若いけどリーダーなんだろうか。僕はいつも飲みながら管を巻いているこの人たちがどうにも好きになれなかった。
「どんな活動をしてるんですか?」
「たまに自治体の依頼を受けて、交通安全の啓発動画とか、町おこしのPR動画とかも撮ってるよ。そんな依頼はほとんどないけどね」
そういう依頼を受けるぐらいの知名度はあるのか。
「あとはこの地域の中でロケをして、自分たちの撮りたいものを撮る。それを編集して、町の施設で上映会をやったりもしてる」
「自分たちで撮ったものを、自分たちで見る、まあ自己満足がほとんどだけどな」
メガネくんの話にオッサンが口を挟んだ。
「私は自分の姿が映像を通して見られるのが毎回とても楽しみなの。それだけで女優でいられるじゃない?」
お姉さんは自分のセリフで夢見心地だ。
「そう、プロにはなれてないけど、こうして毎週のように集まって、仲間で映像を続けてる」
「毎週集まって飲みに来てるだけでしょう」
僕はこの人たちの意識の低さに腹が立ってきて、思わず反射のように口を滑らせてしまった。
「あん? なんだって?」
50代のオッサンが凄んでくる。
「ちょっとケンさん、落ち着いて」
「やりもしねぇで抜かしてんじゃねえぞー。オレたちだってただ酒飲みに来てるわけじゃ」
僕はイライラが抑えられなくて、ついに言ってしまった。
「本気でやらないで、真剣に映画作ってる人たちに外野からヤジ飛ばして、のんきに酒飲んでるのが許せないんですよ!」
「なんだとこのガキ……!」
「だったら撮るべきだ」
オッサンの言葉を遮ってメガネくんが言った。
「え?」
「ただ外野からヤジを飛ばす人生が嫌なら、それが許せないなら、映画を撮るべきだ」
メガネくんの言葉が僕の鼓動をえぐる。急流に呑み込まれそうになる。
「でも、機材を買うお金もないし……」
「カメラならここにある。ウチのサークルに入るなら、いつでも使わせてあげるよ」
メガネくんは脇に置かれた高そうなカメラを掲げた。
「カメラひとつで、これだけのメンバーで、それこそ素人の集まりで何ができるんですか」
この期に及んでまだ言い訳をしている自分が情けない。
「どんな名監督だって、はじめは低予算の自主映画からスタートしてる。武村泰臣を知ってるだろう?」
目の前にある川の流れが、いつの間にか穏やかになっている。
「あとは君が飛び込むだけだよ」
僕は後ずさって川から距離を取った。
「……僕は」
そして助走をつけて頭から川に飛び込んだ。
「映画を撮りたいです!」
タイトル「安い映画のイントロに」
朝の公園は意外と人がいるものだ。休みの日でも早起きをするようになって、もう3年ぐらいが経つ。トコトコと歩き回る子どもの姿を目で追いながら、わたしは目を細める。3歳になる女の子。名前はメイ。わたしの一人娘だ。メイは何にでも興味を持って、公園のあちこちで何かを見つけては報告してくる。
「ここのお花がね、きれいに咲いてるの。元気だね」
「あっちのお池にいる鯉さんたち元気かな? 見に行ってきていい?」
「あのワンちゃん、今日は元気ないみたい」
メイは生き物が大好きだった。
「ねえパパ、見て! アリさんたち、とっても元気だね」
「……うん、そうだね」
嬉しそうに笑う娘を見ながら、わたしは何を言っているのかまったくわからなかった。この子は動物や植物が元気か元気じゃないかを自分で判断してわたしに同意を求めてくる。当然わたしも理解してくれると思いながら。でもわたしにはその判断ができないから、どう答えたらいいかわからず、とりあえず同意の言葉を返していた。
もちろん子ども特有の想像力からくる決めつけだと断じることは容易い。そう理解した上で「そうだね」と軽く合わせてやるのが波風の立たないやり方だと思う。でも仮にこの子が意図的に嘘をついていたらどうだろう。周りに指摘されないのをいいことに、嘘を言ってもバレないんだと思い込んで、いずれ成長して美貌と色気を獲得した時には取り返しがつかない悪女に成り果ててしまうことだってあり得なくはない。ならば今すぐ正さなければならない。「嘘はダメだよ、植物の感情なんかわからないでしょ」と諭すべきなのかもしれない。でも、目を輝かせながらわたしに向かって教えにくるこの子にそんなことは言えない。メイの笑顔を曇らせるような夢のない言葉など、わたしの口から言えようはずがなかった。
もしかしたら本当に、この子にはその生き物の好不調のバロメーターが何かの形で見えているんだろうか。
「パパ、帰ろう?」
突然メイが言い出した。
「え、なんで? どうしたの?」
ついさっきまで元気に遊んでいたのに、どこか具合が悪くなったのかと心配になった。
「もうすぐ雨が降るって、ほら、鳥さんたちが言ってるから」
わたしは血の気が引いていくのを感じた。さすがにこれは……
「パパ、なんでそんなに怖がってるの? 雨に濡れるのそんなにイヤ?」
家に着いて5分と経たないうちに雨は降り始めた。わたしは部屋の中からベランダの外をしばし呆然と眺めていた。
「あら、雨じゃない。降られなかった?」
家にいた妻のマチコが気づいてベランダに近づいてきた。その顔を見たとき、わたしはほっとしたのと同時に、メイの奇妙な言動についてすぐにでも話したい衝動に駆られた。
「あら、伝えてなかったっけ?」
マチコは驚いた様子でとぼけた声を出した。
「わたしも今のメイと同じような性質を持ってたのよ。動物とか植物とかの……雰囲気がわかる、って言ったらいいのかな」
何を言い出すんだこの人は。妻のあけすけな告白にわたしは呆気に取られた。
「それって、いつから? 今も?」
これが最初にする質問かどうかの確信はなかったが、口から出た言葉は引っ込められなかった。
「それこそメイぐらいの子どもの頃から、最近まで。そうそう、メイを産んだ頃になくなったんじゃないかな」
わからない。なにがわからないって彼女がこれで理系であることだ。いやだからこそ説得力がある……のか?
「これを言うと引かれるから言ってなかったけど、出会った時からあなたがわたしに好意を持ってるのバレバレだったわよ」
「やめてくれ、恥ずかしい!」
そんな状態で二年間も泳がされていたのか。すぐに告白すればよかった。
「最初はちょっと気持ち悪かったけど、二年間もずっと一途でいてくれてるのがわかったから告白も受け入れたの」
前言撤回。待っててよかった〜。
マチコの進言もあり、メイの不思議な性質は抑えるのではなく伸ばしていこうという方針になった。でも誰彼構わず伝えるのはやめて、動物の体調はパパとママだけに教えてねと忠告するに留めた。大人になってもこの性質が保持されていれば、獣医や気象予報士などの職で重宝されるかもしれない。
ただ、すべてを理解した上でも、家の中でのわたしの居心地はどうもスッキリしなかった。
「あなた、最近妙に楽しそうね。職場にかわいい子でも入ってきたの?」
ある日の食卓でマチコがさらっと聞いてきた。ただの世間話ですよというように。
「え? いや、そんな……」
もしかしてマチコにもまだ性質が生きているのか?
「はあ、君に隠し事はできないか」
「バカね、こんなのただの女の勘よ」
……左様でございますか。
「パパ、泣いてるの? 昨日保育園でお漏らしちゃった子とおんなじ顔してるよ」
……この家では悪さはできないな。
母親の仕事の都合で転校が多い子どもだった。そんな僕にも忘れられない親友との思い出がある。小学生の頃、仲良くなった友達と秘密基地を作って遊んでいた。公園の奥の方、深い茂みの中に立派なクスノキがあった。そこに登って枝を集めて小屋を作ったのだ。
そこでやった遊びはすべて自分たちで考えた特別なものだった。木の枝で作るスリングショット、落ちるときに葉っぱがくるくる回るきりもみシャトル、枝にロープを吊り下げた上り棒。この頃の思い出は忘れることができない。
毎日のように通った秘密基地も僕は長くはいられなかった。転校の前日、親友のカッちゃんと秘密基地で別れの時を過ごし、そのときにある約束をした。
「20年後、またこの場所で会おう。それまでこの秘密基地は俺が守ってるからな、絶対に忘れるなよ!」
そしていま、僕はあれから20年後のあの公園の前にいる。そこの景色はすっかり様変わりして、公園どころか緑のひとつも見当たらない。見上げんばかりに大きなビルが建っていたのだ。
幼い子どもの約束なんて、所詮果たされないためにあるのか。そう嘆きながらそこを去ろうとすると、
「ナオキ!」
僕の名を呼ぶ声がした。そこにはスーツを着たカッちゃんの姿があった。
「見ろよ、最高の秘密基地だろ?」
カッちゃんは土地を買い取って、公園のあった土地に自社ビルを建設していた。
その日、わたしはある劇場で舞台を観ていた。同僚が急に都合が悪くなったと言って、その日の朝にチケットをもらってくれないかと言われた。よほど暇だと思われたのだろう。わたしは自分の知っている劇作家を山と列挙し、自分が芸術を愛する男であることを同僚に誇示した後、うやうやしくチケットを受け取った。「わたしのような人間にもらわれて、このチケットも喜んでいるだろうさ」と言い添えるのも忘れなかった。
かくしてわたしは取り立てて興味のない舞台演劇を特等席で観賞する幸運にあずかった。その物語は目指す道の違ううら若きダンサーの卵たちがひとつ屋根の下で暮らす姿を描く群像劇だった。
歌劇団でトップを目指す気の強い女性、バレエ団でプリンシパルを目指すお淑やかな女性、スペインバルでフラメンコショーを踊る利発な女性。他にも劇中では才能を発揮する女性たちが描かれたが、シェアハウスで暮らす3人にスポットライトが当たっていた。劇のタイトルは『flowers』。
それぞれがお互いの舞台に刺激を受けながら時に反発し時に励まし合いながら成長を見せていく姿にいつしかわたしは心を奪われていた。そのタイトルから、わたしは彼女たちそれぞれに別々の花をイメージしながら観ていた。
歌劇団の女性はスラっとして芯のある丈の高いカンナ、プリンシパルは咲きはじめで花開く前の純白のハナミズキ、フラメンコを踊るのはフレアスカートをたくし上げたような姿のオニユリ。彼女たちの演技と舞踊はまさにステージの華だった。
終演後席を立ったとき、隣の席にハンカチが落ちているのに気がついた。少し先にスミレ色のドレス姿の女性が見えたので、追いかけて声をかけた。
「すみません、こちら落としませんでしたか?」
振り返った女性はバラのように美しい人だった。もちろん、さっき観たお芝居の影響でわたしが勝手にそう思っただけなのだが。
「あ、わたしのハンカチ! ありがとうございます」
女性はそう言ってわたしの手からハンカチを取った。わたしはなんとか会話をつなげて、劇場を出るまで一緒に歩く雰囲気を作った。
「……そうです。あの女性たちに花の名前を当てがって観ていたんですよ」
わたしは主演女優たちの花のイメージを彼女に話した。気味悪がられるかもしれないが、どうせこの場限りの会話だ。
「あらお兄さん、素敵な例えをするんですね。わたしだったらそうね……。三人とも途中で挫折して、劇団から首を切られちゃうじゃない? あのシーンを見たら、みんなツバキに見えちゃいました」
女性はニコッと笑いながらわたしの顔を覗き込んだ。顔に似合わない毒のある言葉にわたしは言葉が出てこなかった。
「あはは、お兄さんにはもう会わないと思ったから、本音で話しちゃいました。ではこれで。ハンカチありがとうございました」
そう言って女性は駆け足でわたしの元を去って行った。彼女に触れたいと思ってしまったばかりに、わたしの心にはバラの棘が刺さって、じんわり血を滲ませていた。今夜はとてもいい演劇を観た。満足してひとり帰路に着いた。
頭の中のイライラが消えない。たまの休みぐらいゆっくり寝ていたかったが、目を閉じても部下の顔が瞼の裏に現れて気が休まらない。わたしは妻に断って一人散歩に出かけた。家の近所に、都会の中でも緑の多い公園があった。施設整備のために入館料が取られるような大きな公園だ。
柄にもないのはわかっているが、新緑の空気を吸って少しでも気持ちを落ち着けたかった。部下の失敗を憂いているわけではない。指示をしたことが伝わっていないのが不安なのだ。やり方を教え、わからなかったら聞いてくれと言っているのに、完成品を持ってきてはトンチンカンなものになっている。わたしは上司として部下をどう評価すべきかに悩んでいた。そして会社の行く末を案じていた。
庭園のある小径を進んでいると、帽子を被った男が双眼鏡を覗き込んでいるのが目に入った。わたしはこの辺りに何かいるのかと立ち止まって首を巡らせた。
「肉眼で見えますかねぇ」
「え?」
声の方を向くと帽子を被った男がわたしに話しかけてきていた。
「あ、失礼。この奥、ずいぶん先の方にメジロがいるんですが、双眼鏡がないと見えないんじゃないかと思いまして」
「ああ、バードウォッチングというやつですか」
「ええ。何かお困りですか?」
「はい?」
なんのことを聞かれているんだろう。困ってはいるが、今の状況とは脈絡がない。
「悩まれているから、こんな老人に興味を持ったのでしょう」
そうなのか? わたしは悩んでいるからこの男性の挙動に興味を持ったのか? どういう理屈だかわからないが、心のうちを見透かされたのは事実だ。
「実は、仕事のことで悩んでいまして」
なぜかわたしは、この男に今の自分の状況を洗いざらい話してしまった。すべてを聞くと男は口を開いた。
「そうですね。この庭園の地図を持っていますか?」
「ああ、入園のときに受け取りました。ここに」
わたしは蛇腹に折り畳まれた冊子を取り出した。
「そう。地図があれば人は目的地にたどり着けます。そこに向かうための道筋や目印などが描かれていますから」
比喩の話か。そんなことは言われなくてもわかっている。
「地図なんてなくても大丈夫ですよ。わたしには経験がありますから。道のりも目印も、全部頭に入っています」
「そうでしたか。それは失敬。……ところで、貴方は生まれてから何年になりますか?」
年齢の話か? 変な聞き方をする人だ。
「もう今年で45になります」
「そうですか。お生まれになった家のある町には最近行かれましたか?」
「実家? ああ生まれた家か。そうだなぁ、両親も別のところに住んでいるし、もう15年は帰ってないか」
「でしたら一度その町に行って、お家を探してみることをおすすめします」
何を言っているのかわからなかった。だいぶ高齢に見える暇そうな好々爺だと思っていたが、意味ありげで人を食ったようなことを言ってくる。その態度が不愉快だった。わたしはどうにも気味が悪くて、簡単な挨拶をしてその場を離れた。
それからひと月ほどしたある日、仕事で子供の頃に過ごした町の近くまで来る機会があった。そのときにあの老人の言葉が頭から離れなかったのは認めよう。出張の日程も緩かったので、生まれた家がどうなっているか見に行ってみることにした。
駅に着いて驚いたのは、駅舎の姿がわたしの記憶と全く異なっていることだった。降りる駅を間違えたのではないかと思うほどだ。駅前も風景は一変していた。高校生のときに帰り道に買い食いをしていた駄菓子屋がなくなっている。つづく商店街の軒先を見ても知らない店だらけだ。違う町に来たのではないかと不安になったが、スマホアプリを見ても住所は間違いなく自分の生まれた町のそれだった。
出張から帰るとわたしは真っ先にあの庭園に向かった。なんとしても老人に会わなければと思った。あの老人がそこにいる保証はない。しかも園内の整備で一部の道が閉鎖されていた。わたしはここでも迷う羽目になったが、案内図を見ながらなんとか前に老人に出会った場所を探し当てた。果たして、老人はそこにいた。わたしの顔を見るなり老人は言った。
「あなたの家は見つかりましたか?」
なんでそのことを知っているんだ、なんて考えるのも馬鹿らしい。このなんでもお見通しという態度は気に食わないが、わたしはその先を知りたかった。
「もちろん見つけたさ。迷いに迷ってな」
昔住んでいた家は取り壊されて、新しい家に新しい家族が住んでいた。当たり前のことだ。
「それはよかった」
「なんであんなことをさせたんだ」
「もうお分かりではないですか?」
「地図が変わっていた」
「その通りです。目的地がわかっていたとしても、昔と今とでは地図は変わります。だから人は常に、新しい地図を作り続けなければいけないんですよ」
「わたしの経験は古くて無意味だと?」
「そうではありません。更新するんです。いま読める言葉で、いま通れる道に沿って。それは決して難しいことではないはずです。あなたには地図を読んできた経験があるのだから」
「だがわたしが教える連中とは、もはや言葉が通じないんじゃないかと思ってる」
「そんなことはありません。最も簡単なのは、その人たちと一緒に道を歩くことです。一緒に見聞きして地図を作るんです。そうすれば間違えることは少ないでしょう」
相変わらず回りくどい言い方をする。
「最も重要なことは、同じ目的地を持ち続けることです。目的地がズレていなければ、どんな道を通っても必ずたどり着くのですから。あなたがわたしを見つけたように」
わたしは手に持った案内図を握りしめた。
「せいぜいがんばるよ」
わたしはそれだけ言って、また老人と別れた。庭園の向こうに日が沈みかけていた。