バタン、という階下のトイレに誰かが入る音が聞こえて、集中力がプツンと切れた。いや、もうずいぶん前から集中力は切れていた。わたしは勉強机に向かって数学の問題集を解いていたはずだけど、気づいたら同じ問題の上で5分も視線をさまよわせてた。さっきの音で目が覚めたと言えなくもない。
卓上のデジタル時計を見ると21:36の表示。わたしは椅子に座ったまま両腕を上げて伸びをした。するとその拍子に肘で押さえていた分厚い問題集が支えを失いパタンと閉じた。わたしは誰にともなく鼻を鳴らした。
勉強は嫌いじゃないけど退屈なのは間違いない。うら若き乙女がこんな時間にすること? っていつも思う。ママは勉強していい大学に入りなさいって言う。人生を楽しむのはそれからよって。でも今しかできないことだってあるはずよ。
また意味のない問答が頭の中で始まった。こうなっちゃったらもうおしまい。集中が切れたって自覚したら元に戻すのは簡単じゃない。いや、ほぼ無理、すっぱり諦めた方が残った時間を有効に使える。
わたしは椅子を引いて立ち上がり、この部屋にあるもう一つの椅子に近づいた。それは机に向かうために作られた椅子じゃない。座るとちょっと仰向けになってゆったりと体を預けられるふかふかしたシートだ。そして頭の上からVRゴーグルが生えるように取り付けられている。これはVRゲーム専用チェア、高校入学のご褒美におばあちゃんに買ってもらったわたし専用のデバイスだ。
勉強から逃げるとか諦めるとかじゃなく気分転換のためにやるのよ、と自分に言い聞かせる。1時間やったって22:30。そこから勉強を再開することだってできるもの。大丈夫、ゲームは1日1時間。これはファミコンの時代から鉄の掟なんだってパパが言ってた。
わたしはチェアに座ってゴーグルを被り、電源をオンにした。
わたしが訪れたのは真っ白な部屋。現実の椅子の上で足をバタバタさせると動きを感知してVR上のわたしが前に進む。肘掛けの上に取り付けられたコントローラーを指で動かすと細かい操作もできる。でもこの世界での操作方法はすべてパーソナルに設定できて、人によっては首の動きと目線誘導だけで全ての動きをこなすこともあるみたい。
いずれは脳波だけでVR世界を歩けるようになって、眠りながら見る夢の代わりにVR上で活動するようになる、なんていう未来を描く人もいる。真面目に働く大人たちですら、そんな虚言を夢物語なんて思わなくなっている。来年の万博あたりではその試作機がお披露目されるっていう噂もあるから、パパにねだってナイロビ行きのチケットを手配してるの。
真っ白な部屋の真ん中に、白い長方形のプレートが浮かんでる。触ってみると冷たくて木の板みたいだった。わたしは首を振った。すると白い板は材質が変わって白いキャンバスになった。わたしは何度か首を振って、ようやくお目当ての素材を見つけた。手触りが滑らかな厚手のケント紙だ。
続いて画材を選択する。顔を上げると頭上にさまざまな画材のセットが浮かんでいる。筆、パレット、色とりどりの絵の具、それぞれ自由に選ぶことができるけど、右端に鍵のマークがあって、メーカーがブランド管理している画材は課金しないと使えない。でもわたしはどうしても使いたかった虹彩堂の画材セットをこの前のお小遣いで購入したのだ。
虹彩堂はリアルで100年以上続く老舗の画材メーカーで、数年前にVRにも進出してきた。デジタルのノウハウはゼロだったのに、IT大手のCPテクノと共同開発を発表するとすぐにデジタルシェアの40%を握るまでに急成長した。誰もが言うの「虹彩堂にしか出せない青がある」って。
わたしは虹彩堂を選択して、パレットを視界の右側に、絵の具を上側に、筆を手元側に移動させた。ここで絵を描くとき、わたしは腕を使わない。首と目線の動きだけで白いケント紙に絵を描くのだ。目線をアイコンに合わせて瞬きで絵の具を選び、パレットの上で混ぜ合わせたら筆を掴んで紙の上にダイブ。色の海を泳ぐような感覚がして、好きだ。ただただ気持ちいい。わたしが開放されていく。
幼い頃から絵を描くのが好きだった記憶がある。いつものようにらくがき帳にクレヨンで絵を描いてたら、夢中になって床や壁をクレヨンまみれにしちゃったことがあった。そのときママにこっぴどく叱られて、それから絵が嫌いになったんだと思う。
もう一度、絵に興味を持ったのはこの世界を知ってから。あるときメタノポリタンミュージアムっていうVR空間の美術館に行ったら、VR上で作られたあらゆる美術作品を見ることができたの。動くたびに体の色を変える立体のドラゴンとか、幾重にも塗り重ねられた絵の具で奥行きのある油彩画とか、VRでもVRじゃなくても素晴らしい自由な世界にわたしは感動したわ。そしてそこで、体に障害がある人が作ったっていう彫刻作品に出会ったの。
巨大な石をミノで削ったマーメイドの像は、とっても繊細な姿だった。あとでこれを作った人が現実世界では首から下を動かすことができないって聞いて、信じられないと思った。この世界に不可能なんてないのよ。
それからわたし、毎日VRの世界に来て絵を描いてる。もちろん気分転換のためよ。今はね。1日1時間もきっちり守ってる。集中することが大事だもの。あ、いけない、もうすぐ1時間ね、そろそろ仕上げないと。
白い部屋を眺め回したら、わたしが絵を描いていたはずのケント紙がずいぶん遠くに見えた。わたしは紙を通り越して、壁や床まで絵の具でダイブしていた。
いっけない。またママに叱られちゃう。なんてね。
恋する男女の瞳には、魔力めいたものが込められているのだろうか。お互いを思い合う心など側はたから見ればすぐにわかるというのに、恋する二人はいつも瞳を逸らし合う。
中学校の休み時間、男子たちのグループと女子たちのグループはお互いに距離を置いて談笑している。そこに想い合う男女がいた。
カナコは女子たちの会話に耳を傾けながらも心ここに在らずで、ぼーっと男子たちの中にいるタクミの姿を眺めていた。タクミは終始、男子たちの会話の中心にいるから、その視線に気づいていない。しかし会話が途切れた一瞬の合間にタクミが気を抜くと、なぜかカナコの方を向いていることがある。
タクミの目がカナコの瞳を捉えたかと思うと、まるで瞳は磁石のS極とS極のようにお互いを弾き合い、そっぽを向いて次の瞬間には二人とも磁石のN極のように顔を赤らめるのだ。
周りの友人たちは毎日のように繰り広げられるこの光景を、微笑ましくももどかしく眺めているのだった。
「ねえ、アサカどう思う?」
お昼休み。カナコがわたしに意見を求めてきた。こう見えてもカナコの親友をやらせてもらっている。
「ん? なにがよ」
「タクミくん! ちょっと目が合うとすぐに目ぇ逸らされちゃうんだけど」
こいつマジか。自分も逸らしている自覚はないんか。
相手の好意に気づかないカナコに半ば呆れつつも、わたしは無自覚に人をキュンキュンさせるこの子をちょっとからかってみたくなった。
「そうさね。これは一種の呪いだね」
わたしはお得意の占い師キャラで話し始めた。
「え、呪い? どういうこと?」
「恋の呪いさ。これに罹ると相手が自分の瞳を見られなくなってしまうのさ」
「そんな……。タクミくんは悪くないの? わたしが呪いにかかってるのね。どうしたら呪いが解けるの?」
「そうだね。あんたの覚悟を見せることさ」
「覚悟?」
「そう。じっと彼の顔を見て、たとえ目を逸らされても見続ける」
そうしたら次第に顔が赤くなってきて、S極がN極に変わるはず! なんてね。
「やだ、そんなの恥ずかしくてできない!」
なんだこいつ、かわいいかよ!
「それだけが呪いを解く方法さ。あたしはあんたの恋の成就を祈ってるよ」
わたしは内心でにやにやしながらカナコを残してその場を去った。
「へぇ、カナコちゃんがそんな話をねえ」
放課後、わたしはタクミくんの親友であるユウスケと二人で「タクミとカナコを見守る親友同盟」を近所のマックで開催していた。お昼休みのエピソードをユウスケに話して、わたしは笑って愚痴をこぼした。
「あの二人は当分あの状態だわさ」
わたしはユウスケの顔を見ながらポテトを口に運ぶ。ユウスケの視線もわたしに向いている。
「アサカ、いま俺の顔をまっすぐ見てるけど、アサカの磁石はどっちに向いてるんだ?」
普段はお調子者のユウスケが急に真剣な顔になった。
「ん? なんだって?」
「俺がアサカの顔を見てるのに、アサカは目を逸らさないだろ? それって俺に見惚みとれてるのか?」
おいおい、そんな直球で言ってくるなよ。
「はぁ? そんなボロ雑巾みたいな顔に誰が恋するのよ」
わたしは狼狽えて思ってもないことを口走ってしまった。
「うん、それは言いすぎだな」
あんたが変なこと言うからじゃない。ユウスケはダメージも受けてなさそうに笑っている。ちょっとムカついて言い返した。
「バカね、あんたの魅力は顔じゃないって言ってんのよ」
自分の顔が赤くなっていくのがわかる。
「ふん! ん? え? お? おお? それってなに? どういう意味?」
「ちょっと、なに色めきだってんの。まったく、どいつもこいつも青い青い」
「だってそれもう告白じゃん!」
「やだこいつ、もう調子乗らないの。はい、冗談ジョーダン」
まったく、どいつもこいつも青い青い。せっかくわたしがN極を向けてあげてたのに。もう知らないんだから。
いつの頃からか、漫画やドラマなどのエンタメは享受するものから参加するものに変わっていた。連続モノは視聴者が次の展開を予想するのが当たり前になって、動画投稿サイトにも「考察動画」がたくさんアップされ、それによって人気になる連中も現れた。街中にもインターネット上にも考察が溢れ、世はまさに考察ブームを通り越して、大考察時代となった。
「どうも好きになれないな。作品は常に作者のものだし、伏線とか展開とかって作者だけが決められるものでしょう? それに横から勝手な解釈を加えるだけで金を儲ける人たち、私は認めたくないです」
週刊漫画誌でようやく連載を持ち始めた私は、漫画家同士の食事会でこんな胸の内を吐露した。
「そうかい? 俺なんかネットの意見をずいぶん重宝してるよ」
ベテランの神里先生が言った。私は少し意外だった。先生は異能バトル物を得意として、いくつものアニメ化作品を世に出している。
「ネットの中に参考になる考察なんてあるんですか?」
「僕は絶対に考察通りの展開なんかやらないですよ。ネットの連中が喜ぶのとか腹立つんで……」
私が神里先生に聞くと、隣にいた滝麻呂くんが口を挟んできた。滝麻呂くんは若手の有力株でエキセントリックな発想とキレのあるギャグで人気を獲得している。
「俺はさ、もう自分のアイデアなんか出し尽くしてるわけ。だから、あちこちに適当な描き込みをして、泳がせるんだよ。伏線だと思わせるわけ。全然意味のない金魚とか風船とかをコマの端っこに描いとくの」
神里先生の答えは正直すぎた。こんなこと読者が聞いたらボロボロに炎上するだろう。
「エサを撒いておくんですね」
私が引いている間に滝麻呂くんが乗っかった。
「そうそう、そしたらネット民は勝手に考察してくれるわけ。色々出た中から一番面白いのを釣り上げるのよ」
「新展開の一本釣りだ」
変な例えするなよ。面白いじゃないか。
「それで生まれたのが金剛魚雷とかバルーンクラッシャーとかなんだよ」
「えー! ボムの助ボム太郎の必殺技じゃないですか! いま子どもたちみんな真似してますよ!」
超人気キャラの設定がネット考察由来だったなんて……。ちょっと悔しいけどオフレコの話を聞けて嬉しい自分がいる。
「でもネットの考察なんて山ほどあるのに探すだけでも時間かかるんじゃないですか」
私は純粋な疑問を口にした。
「いまどき自分で探さなくたって、AIにまとめさせれば一瞬だよ」
「僕も考察と誹謗中傷はAIにまとめさせてます」
二人ともさらっとAIを活用している。っていうか滝麻呂くん、
「誹謗中傷まで……? なんでそんなことするの?」
「全部プリントアウトして庭で燃やすんです。紙が燃える炎のゆらめきと、立ち昇る煙を眺めていると魂が浄化されて、自分がからっぽになったその瞬間に最高のアイデアが生まれるんです」
滝麻呂くんは虚空を見上げてうっとりするような顔をしている。
「うはは、滝麻呂くんやっぱりヤベーヤツだな! キャラ立ちすぎだよ! そのキャラもらっちゃおうかな!」
神里先生は無邪気に笑いながらスケッチブックを取り出し、滝麻呂くんの表情を描き始めた。
自分たちの戦い方で自分の漫画道を突き進むライバル達を私はどうしても嫌いになれなかった
白い霧のかかった泉のほとりで、ティトはひとり森の声を聞いていた。朝から森の中を飛び回っていたが、休憩するにはこの泉が一番だ。ティトは小さな熊革のカバンから干し肉を取り出し、じっくりと時間をかけて頬張った。そして泉の水を手で掬い、静かに喉を潤した。オークの木々がささやかな風の訪れを知らせた。ティトはついでに腰に提げた水筒も泉の水で満たして立ち上がった。
午後はどこへいこうか。
ピィーーーー……ィィィッィッィッ!
「だれ?」
大きな鳥の鳴き声が鳴り止まないうちにティトは反応して走り出した。勢いに乗ると両足を踏み込んで跳躍し、木の枝を掴んだ。すると足を振り子のように振り上げて手を離し、飛び上がって次の木へと飛び移った。そうしてティトは糸を引いて飛んでいく一筋の矢のように、グルートの森を切り裂いて移動した。
あの鳥の声は森への侵入者を知らせる合図だ。他のエルフたちも気づいているだろう。大人たちが見つける前に探し出さなくちゃ。ティトはそう考えていた。子どもは侵入者から身を隠さなければならない。幼い頃からそう教えられてきたが、いま彼の好奇心は森の禁止事項を破るべきものと認識した。ティトは誰よりも早く外から来た何者かをこの目で見たかった。
その男はおよそ人が切り拓いたとは思いがたいか細くて心許ない獣道に慎重に足を踏み入れながら、頭は期待と不安に支配されていた。さっきから長く甲高い鳥の鳴き声が聞こえている。もしかしたら男の存在を森に知らせているのかもしれない。なんらかの森の禁忌に触れた罪人のような気分だ。と男は思った。しかしその重苦しい心持ちは、自分が進んでいる道が正しいことを証明しているような気がした。
この獣道のどこかにも、侵入者を待ち構える罠が張られているのではないか、半ば冗談ながらそんなことを思った。次の一歩を踏み出した瞬間、ザクッという音とともに靴の裏に何かを踏んだ感触があった。
__もしかして、罠踏んじゃった?
男は身を屈めて慎重に靴を地面から退けた。そこにはどんぐりの砕けた跡があるだけだった。
「ふぅぅ。ただのどんぐりか。驚かすなよ」
男はそう言うと、少し慎重になり過ぎていたと反省した。こんなことでは森の神秘は……
「もしかして人間?」
起き上がると同時に声がして、目の前に鋭い鼻先があった。
「うわぁあああ!」
情けない悲鳴をあげて男は飛びすさり、その拍子に足を捻ってしまった。
「ぎゃぁああ!」
「お兄さん、本当に人間?」
ティトは男が挫いた左足の靴を脱がせ、ツール草の葉を数枚重ねてぐるぐる巻きにし、その上から泉の水を垂らした。応急手当てとしては十分だが、一人で歩くことはできないだろう。
「僕はティト。お兄さんは?」
「ペイグって言うんだ。ありがとうティト、助かったよ」
左足を投げ出して座り込むペイグを見下ろしながら、ティトは落胆の表情を隠さなかった。のっぺりした顔にツバの広い帽子を被り、糸を織り合わせたエルフと似たような服を着ている。見た目はエルフとほとんど変わらないと思った。
「この森になにをしに来たの? 僕の他に誰かと会った?」
ティトは他のエルフに見つからないうちにできるだけ質問をしておきたかった。大人に見つかったら引き離されてしまうかもしれない。そのときに言い訳ができるような情報がほしい。
「この森では君が初めてだよ。そうだ、行きたいところがあるんだ、早く行かないと」
ペイグは立ち上がって歩き出そうとする。
「だめ、その足じゃ歩けない」
「大丈夫、歩けるさ、あ痛、あたたたた」
男は左足から崩れ落ちて尻餅をついてしまった。
「ほら。僕のせいだし、手を貸すよ」
ティトは男に肩を貸して森の奥に向かうことにした。泉に足を入れればすぐに治るはずだ。ペイグの体重がティトの背に乗ると、思っていたより重たかった。
「その箱はなに?」
ペイグは肩から吊るした紐に大きな木箱を提げていた。ティトはその箱に興味を持った。
「ああこれは、絵を描く道具さ。僕は絵描きをしていてね。実はこの森にも絵を描くために来たんだ」
「こんな森の中に、わざわざ?」
グルートの森に人が侵入することは稀だった。来るのも大半が迷い込んだ人間で、大人たちが見つけると気付かれないように誘導して森の外に追い出すのだ。だからこの森のことを外に暮らす者たちのほとんどは知らないのだと長老たちは言っていた。
「この森のことはどこで知ったの? 誰から聞いたの?」
素性の知れない人間がこの森のことを知っていた。その人間と肩を触れ合わせている危険性よりも先に、ティトはなぜを知りたくなった。そこにはこの怪我をしたひ弱な男になど、どうやったって自分が負けることはないという自負もあった。
「実はこの森で育ったっていうエルフに聞いたんだ」
__この森で育ったエルフ? この森から外に出たエルフがいる?
ティトの頭の中は、そのエルフのことでいっぱいになった。
ティトは毎日のように森の縁まで探検しに行った。グルートの森は北の端も南の端もあらゆる方位の境目を把握している。だからこそ、森の外に出るのがどれだけ勇気のいることなのか知っているのだ。森の終わりは明らかにそれとわかる。空気の層が目に見えて違うのだ。それは色という言葉では表現できない。濃度であり密度であり、森の中には明らかに外とは違う層があるのだ。ティトは毎日、この空気の壁の前で長老の言葉を思い出す。
「エルフはこの森に守られている。この身に宿る鋭敏な聴覚も嗅覚も、しなやかな身のこなしさえ、グルートの恩恵に預かっているのだ。ひとたび森の外に出たら、我々エルフの能力はすぐに衰える。神に賜ったこの永き生命さえもな」
ティトはペイグに肩を貸しながら、このどんくさい人間が住む外の世界について考えを巡らせた。
例えば朝、いつもの時間に目覚ましの鳴らないのを不審に思い、同居人を起こしに行くこと。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「うるさいなぁ、今日休みなんだから寝かせてよー」
例えばバスの中で、同じ停留所で降りる素振りを見せている親子連れの子どもがブザーを押そうとしているところを黙って待っていること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
彼らよりも前に座っている乗客が知らずにブザーを押してしまう。子どもは目に涙を浮かべはじめる。
例えば少年がサッカーの試合でペナルティキックを外してしまったとき、泣き崩れる少年に手を差し伸べて「また次、がんばろうね」と言って抱きしめること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「もういい、サッカーなんかやめる!」
例えば都会の真ん中で、大柄な男たちに絡まれている女性を見て「僕の連れに何してるんですか?」と言って女性の腕をつかんで走り去ること。それが大いなる愛でなくてなんだというのか。
「ちょっと、放して! 腕つかまないよ!」
しかしながら人類は、この大いなる愛を受け止める術を誰もが身につけているわけではない。大いなる愛は世界にあふれていて、わたしたちを……
「ちょっとアンタ! いつまでこんなくだらない文章をタラタラ書いてるの! 少しでもわたしに愛があるなら、いますぐ金になる仕事取ってきてちょうだい!」
大いなる愛を受け止めることがどれだけ容易かということを、人類が知るのはまだ先のことなのかもしれない。