あー、もう最悪。いきなり今日行けなくなったってどういうことよ。全部手配したの私なんですけど。仕事だって余裕ないのに休みも合わせて、キレイなカッコだってしてきたわよ。浮かれてたの私だけなわけ? 信じらんない。
寒空の中、待ち合わせ場所だったベンチに座り、スマホに向かってひとしきり悪態をついていた。男を見る目がないのかな。
いきなり強い風が吹いてきた。勢いに負けて首を縮める。…負ける? やだ、もう負けたくない。強風なんかに負けてたまるか。私は勢いを込めて顔を思いっきり風の来る方へ向けてやった。負けないんだから。
パサッ。
ウ、ム〜ン〜!
顔を向けた途端に紙切れが顔に張り付いた。前が見えない。慌てて顔に手をやる。
わっぷ!
見るとそれは映画のチケットだった。落とし物? 日付は今日の…1時間後だ! 持ち主を探さなきゃ。
周りを見渡す。幸い私はたったいま一日の予定がなくなった暇人だ。いくらでも探してやれる。
少し先に、服についているあらゆるポケットをまさぐりながらキョロキョロとあたりを見ている挙動不審な男性がいた。
「あの、もしかしてチケット落としましたか?」
「あ、あーそうです! 私の…です」
「ああ良かった。どうぞ」
私はチケットをその男性に差し出した。しかし男性は手を出してこない。
「え? あの…」
「あのー、よろしければ、差し上げますよ」
は? どういうこと? 新手の詐欺?
「ああ、そりゃ怖いですよね。すみません。実は私、フラれちゃいまして。そのチケット、余ってるんです」
うわー、同じ境遇の人だぁ。かわいそうに。思わず私もって言いそうになったけど、それは言う必要ないか。
「あ、失礼しました。ご予定ありますもんね。困りますよね」
「あ、その、いいんですか? そしたら、お言葉に甘えちゃおうかな」
その流れで私は、この人の隣で恋愛映画を観ることになった。少し話した感じでは、悪い人ではなさそうだ。
映画が終わり、そのまま解散かとも思ったが。
「あのー、お礼と言ってはなんなんですが、このあとフレンチレストランでもいかがですか? 実は私もフラれてしまって」
カレから別れを切り出された時、私の頬を涙が伝った。昼休みの屋上、一緒にお昼を食べようと思って来たのに。なによそれ、自分で好きにさせといて、飽きたから捨てるっていうの? 自分でも感情が昂っているのがわかった。
「ちょ、おい、そんな色で泣くなよ。え? 怒ってるの?」
カレ…元カレのその声で現実と焦点が合う。しかしそれは現実とは思えないほど真っ赤な視界だった。
やばっ、感情出ちゃってる。私は慌てて後ろを向いて涙を隠した。手で涙を拭うと、指まで赤く染まってしまった。やだ、制服も汚れちゃうじゃん。ああ、こんな日に限ってお気に入りの白いハンカチだ。
「あ、おい待てって! ごめんな! 傷つけるつもりは…」
私は手で顔を覆ったまま逃げるように校舎の中へ向かった。お前の言い訳なんか聞きたくない。それより今は一刻も早く涙を止めなければ。人に見られたら恥ずかしさで別の色の涙が出ちゃう。
昼休みの校舎は廊下にもたくさんの生徒がいるが、みんな自分たちの話に夢中でこっちを見ていない。お手洗いまで誰とも顔を合わせずになんとかたどり着くことができた。
洗面所の蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。透明な水が私の涙を洗い流してくれる。
幼い頃から人前で涙を見せるなと言われ続けてきた。感情を見せるのがはしたないとか、子どもっぽいとか、そういうことではない。涙の色で感情がバレてしまうからだ。
子どもは特に感情のままに泣くから、むしろ周りの大人はその涙の色で、なんで泣いているのかを判断していた。痛みの涙は赤黒いから、探せばどこかにすり傷が見つかるし、悲しみの涙は青っぽいから、お友達とケンカしたことが予想できた。
大人になると感情をコントロールするのが上手くなる。だから泣くことも少なくなるし、涙の色も透明になってくる。
「まさか赤で泣くとは思わなかったなぁ」
放課後、マックで事の顛末を親友のアカリに話した。
「見たかったなぁ。ミサキが怒って泣くところ」
今日は、自分が泣いたことにも驚いたし、その色が赤だったことにも驚いた。
「やめてよ、恥ずかしかったんだから」
「でもカレシにはそれだけ不満があったってことでしょう? 別れてよかったのよ」
「わー、なんかドラマみたいなセリフ」
そこで二人でわっと笑った。
ドラマや映画で、涙は重要な意味を持つ。作者が込めた想いは、ここ一番というシーンに俳優の涙の色で描くことができるから「最高の涙が撮れればその映画の成功は約束される」なんていう格言もまことしやかに吹聴される。演技の中で自在に涙の色を操れる女優さんは「涙の女王」と呼ばれ、様々なヒット作に出演することになる。
「そっかぁ、私いまドラマみたいな恋してたのかぁ」
悔しいけどなんか嬉しい。
「あれじゃん。ドラマのお決まりの展開。『赤い涙のあとは、必ず復讐劇になる』。今頃カレシ君、ビビりまくってるんじゃないの?」
「あはは、いい気味だ」
あなたのもとへ身を寄せてから、もう三年が経つのですね。窓の外が白く染まるのを見て、そんなことを思いました。どれだけ歳月を重ねても、私があなたの腕に抱かれて眠ることはありません。
身寄りを失い、根無し草のように放浪していた私に、夜風をしのぐ宿を与えてくれたばかりか、こんな立派な縁側のあるお家に住まわせていただけるなんて、望外の幸せでございます。
毎朝同じ時間に食事を出していただける生活が来るなんて、それまでは夢にも思わなかったのですよ。それなのに私ときたら、気まぐれにいらないと言ってそのままお外へ出かけて行くこともありましたね。困らせるつもりはなかったのですよ。私が本能に従って進む性格だってことぐらい、あなたはご存知でしょう?
あなたには私の他に大切な人がおありでしたのね。私にとってその人はこのお家の先客でした。あなたがその人のお部屋で親密な時を過ごしておいでなのが悔しくて、少しやきもちを妬いておりましたの。あなた、私には手も触れてくださらないのに。
だから私、あの人のお部屋にいたずらをしに行ったんですのよ。寝ている顔をめちゃくちゃにして、引っかき傷でも付けてやろうかと思ったの。
私が「覚悟なさい!」と叫んだら、あの人はバッと飛び起きて、満面の笑みで私を覗き込んだの。あなたもあの笑顔にやられたのね。あの無垢な御顔には、傷ひとつ付けられなかったわ。汚してはいけないと思いましたの。
それから私があの子と仲良しになったの、あなた知らないでしょう? あの子ったらそのまま私に飛び付いて、柔らかい指で私の身体中を撫で回したのですから。そんなことをされたら私も気持ち良くなってしまって…。
あなたはあの子に、このお家にあるたくさんの本を持って行って、おはなしを読んで聞かせてらしたんですってね。ええ、全部あの子から聞きましてよ。それで、あの子もお気に入りのおはなしを私に教えてくれるんですの。私は途中で眠たくなって、最後まで聞けないこともあるのだけれど、それでもあの子は優しく私を撫でてくれるんですのよ。
気が付いたら、こんな語り口になっておりましたわ。あなた、なんて古風なおはなしを読み聞かせておいでだったの? こんなにもたくさんの言葉を覚えてしまったら、もう私「にゃあ」なんて鳴けませんわよ。
あなたはいつかいつかと機会を窺っていたのでしょうけれど、決してあなたの腕になんか抱かれてやるもんですか。私は決めましたのよ。あの縁側から見える景色が真っ白になる間じゅう、この子の手の中で過ごすって。
そしてお庭の土が見える頃になったら、たくさん外に出て、お部屋から出られないあの子に、私が見聞きしたありのままをおはなしするんですから。
そしたらまた、あの子の温かい手のひらで、優しく撫でてもらうんですから。
「続いてのエントリーはこの本です」
冬眠社の営業担当が、審査員に本をそっと差し出した。
「ふーん『泣いても笑っても日暮里人』ねぇ。何ページに誤字があるの?」
「タイトルです」
「え? タイトル?」
「正式なタイトルは『泣いても笑っても日本人』です」
「うわー、盛大にやったねぇ! 最高じゃん! 採用採用!」
冬眠社の地下にある大ホール。普段は出版披露パーティや式典に使う大広間だが、年に一度、その年に出されたあらゆる出版社の書籍が集められる。
「それにしても、誤字脱字っていくら見返しても無くせないもんだねぇ」
長年ゴシップ誌の編集長をやっていた文田春彦が書籍部門に異動してきて最初に出した企画『細かすぎて繕つくろわれない日本語』。校閲をすり抜けた誤字を集めた趣味の悪い書籍だ。シリーズ化してもう第六弾が進行している。今は五次審査の最中だ。
一年かけて読者から誤字を募集し、見つけた誤字がこの本に採用された読者には賞金が与えられる。
ここに収録されることは書籍編集者にとって最大の汚点とされたが、賞金と名誉を求める読者のおかげで出版業界全体の売上が底上げされたという事実はなんとも皮肉である。
「続いてはこちらです」
次に営業が渡した本は『細かすぎて繕われない日本語 第五弾』だった。文田の眉がピクリと動く。
「この部分です」
営業が誤字のあるページを開いて見せた。文田はその部分をじっと見つめ、にやりと笑い、そっと本を閉じた。
「いいねぇ」
冬眠社の地下にある大ホール。そこで今日は、ある書籍のベストセラー記念パーティーが開かれていた。
堆く積まれたその本は『細かすぎて繕われない日本語 第六弾』。帯には「文田からの挑戦状! 第五弾に隠された謎を発見した読者は現れたのか!」という煽情的な文句が踊っていた。
カナデの実家に帰省していた最終日、折角だからと越谷レイクタウンに二人で行くことにした。湖のほとりに大きくて長いショッピングモール建てられている。全てを見て回るのは一日かけてもできる気がしない。
特になにが欲しいという物もないから、暖かいモール内を散歩して回るようなレジャーに落ち着いた。仕事柄モールに来ることは多いけど、あまりゆっくりウインドウショッピングをすることはない。
新しいもの好きのカナデは外からお店を見るだけでも楽しそうだ。
「あ、見て見て! VR体験やってるよ!」
家電のブースの前に大きく【VRゴーグル試遊体験】のパネルが出ている。中に入ると、障害物がない広いスペースになぜか人工芝が敷かれているスポットがあった。
「こちら、最新の機種でございます。お客様がまだ見たことのない景色をご覧いただけますよ」
こういう謳い文句を聞くと身構えてしまうのが私の性格だけど、内心ではやってみたい気持ちもある。
「面白そう! 私見てるから、ナオからやってみて!」
カナデは前のめりで子どものようにはしゃいでいる。一人で来てたら遠慮してただろうな。背中を押してくれるのがありがたい。
「じゃあ、やってみます」
私は手に握るスティックと呼ばれるものを持ち、ゴーグルを被せてもらった。
「おわ!」
いきなり目の前に恐竜が現れて、思わず声を上げてしまった。これは子どもの頃に図鑑で見たトリケラトプスという種類かな。外でカナデのにやにや笑いが聞こえるが、振り向いても翼竜が空を飛ぶ荒野が広がっているばかりだ。
「このデモ機は自動で場面が変わります。まもなく変わると思いますよー」
係の人の声が外から聞こえた。すると次の瞬間には目の前が鮮やかな花畑になっていた。青い空と先の先まで花で埋め尽くされた空間は美しいけど気持ち悪い。スティックを手で動かすと花も撫でられたように曲げられ、離すと反動で戻ってくる。その時にふわっと花弁が舞い散る。
その後も場面はいくつか変わり、仮想現実の進歩を見せつけられた。ゴーグルを外し、現実に戻ってくる。
「はい、お疲れ様でした〜」
係の人がお決まりのフレーズを口にする。
「次、私、やりたいやりたい!」
カナデは居ても立っても居られない様子だ。私が外したスティックを受け取ってすぐに装着する。
私はいま見たVR空間の光景を思い返していた。見たことのない風景、まったく新しい体験、映像技術の進歩。こういうことを知っておくのは必要だな。
「いっくよ〜」
カナデがノリノリでゴーグルを付けた。
「キャー!」
カナデは絶叫して後ろにのけぞり、そのまま尻もちをついた。大丈夫か、と言いかけたが
「こわいこわい! あはは! なに恐竜さん? カワイイ!」
すぐに慣れてスティックで恐竜を撫でているようだ。その姿がおかしくて、私も思わず笑ってしまった。
場面が切り替わるごとにカナデはオーバーリアクションで応えた。途中から私はスマホで動画を撮り始めていた。
私のまだ見ぬ景色は、もっと身近で探せるような気がした。