与太ガラス

Open App

 その日、わたしはある劇場で舞台を観ていた。同僚が急に都合が悪くなったと言って、その日の朝にチケットをもらってくれないかと言われた。よほど暇だと思われたのだろう。わたしは自分の知っている劇作家を山と列挙し、自分が芸術を愛する男であることを同僚に誇示した後、うやうやしくチケットを受け取った。「わたしのような人間にもらわれて、このチケットも喜んでいるだろうさ」と言い添えるのも忘れなかった。

 かくしてわたしは取り立てて興味のない舞台演劇を特等席で観賞する幸運にあずかった。その物語は目指す道の違ううら若きダンサーの卵たちがひとつ屋根の下で暮らす姿を描く群像劇だった。

 歌劇団でトップを目指す気の強い女性、バレエ団でプリンシパルを目指すお淑やかな女性、スペインバルでフラメンコショーを踊る利発な女性。他にも劇中では才能を発揮する女性たちが描かれたが、シェアハウスで暮らす3人にスポットライトが当たっていた。劇のタイトルは『flowers』。

 それぞれがお互いの舞台に刺激を受けながら時に反発し時に励まし合いながら成長を見せていく姿にいつしかわたしは心を奪われていた。そのタイトルから、わたしは彼女たちそれぞれに別々の花をイメージしながら観ていた。

 歌劇団の女性はスラっとして芯のある丈の高いカンナ、プリンシパルは咲きはじめで花開く前の純白のハナミズキ、フラメンコを踊るのはフレアスカートをたくし上げたような姿のオニユリ。彼女たちの演技と舞踊はまさにステージの華だった。

 終演後席を立ったとき、隣の席にハンカチが落ちているのに気がついた。少し先にスミレ色のドレス姿の女性が見えたので、追いかけて声をかけた。

「すみません、こちら落としませんでしたか?」

 振り返った女性はバラのように美しい人だった。もちろん、さっき観たお芝居の影響でわたしが勝手にそう思っただけなのだが。

「あ、わたしのハンカチ! ありがとうございます」

 女性はそう言ってわたしの手からハンカチを取った。わたしはなんとか会話をつなげて、劇場を出るまで一緒に歩く雰囲気を作った。

「……そうです。あの女性たちに花の名前を当てがって観ていたんですよ」

 わたしは主演女優たちの花のイメージを彼女に話した。気味悪がられるかもしれないが、どうせこの場限りの会話だ。

「あらお兄さん、素敵な例えをするんですね。わたしだったらそうね……。三人とも途中で挫折して、劇団から首を切られちゃうじゃない? あのシーンを見たら、みんなツバキに見えちゃいました」

 女性はニコッと笑いながらわたしの顔を覗き込んだ。顔に似合わない毒のある言葉にわたしは言葉が出てこなかった。

「あはは、お兄さんにはもう会わないと思ったから、本音で話しちゃいました。ではこれで。ハンカチありがとうございました」

 そう言って女性は駆け足でわたしの元を去って行った。彼女に触れたいと思ってしまったばかりに、わたしの心にはバラの棘が刺さって、じんわり血を滲ませていた。今夜はとてもいい演劇を観た。満足してひとり帰路に着いた。

4/8/2025, 1:03:48 AM