与太ガラス

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 頭の中のイライラが消えない。たまの休みぐらいゆっくり寝ていたかったが、目を閉じても部下の顔が瞼の裏に現れて気が休まらない。わたしは妻に断って一人散歩に出かけた。家の近所に、都会の中でも緑の多い公園があった。施設整備のために入館料が取られるような大きな公園だ。

 柄にもないのはわかっているが、新緑の空気を吸って少しでも気持ちを落ち着けたかった。部下の失敗を憂いているわけではない。指示をしたことが伝わっていないのが不安なのだ。やり方を教え、わからなかったら聞いてくれと言っているのに、完成品を持ってきてはトンチンカンなものになっている。わたしは上司として部下をどう評価すべきかに悩んでいた。そして会社の行く末を案じていた。

 庭園のある小径を進んでいると、帽子を被った男が双眼鏡を覗き込んでいるのが目に入った。わたしはこの辺りに何かいるのかと立ち止まって首を巡らせた。

「肉眼で見えますかねぇ」

「え?」

 声の方を向くと帽子を被った男がわたしに話しかけてきていた。

「あ、失礼。この奥、ずいぶん先の方にメジロがいるんですが、双眼鏡がないと見えないんじゃないかと思いまして」

「ああ、バードウォッチングというやつですか」

「ええ。何かお困りですか?」

「はい?」

 なんのことを聞かれているんだろう。困ってはいるが、今の状況とは脈絡がない。

「悩まれているから、こんな老人に興味を持ったのでしょう」

 そうなのか? わたしは悩んでいるからこの男性の挙動に興味を持ったのか? どういう理屈だかわからないが、心のうちを見透かされたのは事実だ。

「実は、仕事のことで悩んでいまして」

 なぜかわたしは、この男に今の自分の状況を洗いざらい話してしまった。すべてを聞くと男は口を開いた。

「そうですね。この庭園の地図を持っていますか?」

「ああ、入園のときに受け取りました。ここに」

 わたしは蛇腹に折り畳まれた冊子を取り出した。

「そう。地図があれば人は目的地にたどり着けます。そこに向かうための道筋や目印などが描かれていますから」

 比喩の話か。そんなことは言われなくてもわかっている。

「地図なんてなくても大丈夫ですよ。わたしには経験がありますから。道のりも目印も、全部頭に入っています」

「そうでしたか。それは失敬。……ところで、貴方は生まれてから何年になりますか?」

 年齢の話か? 変な聞き方をする人だ。

「もう今年で45になります」

「そうですか。お生まれになった家のある町には最近行かれましたか?」

「実家? ああ生まれた家か。そうだなぁ、両親も別のところに住んでいるし、もう15年は帰ってないか」

「でしたら一度その町に行って、お家を探してみることをおすすめします」

 何を言っているのかわからなかった。だいぶ高齢に見える暇そうな好々爺だと思っていたが、意味ありげで人を食ったようなことを言ってくる。その態度が不愉快だった。わたしはどうにも気味が悪くて、簡単な挨拶をしてその場を離れた。

 それからひと月ほどしたある日、仕事で子供の頃に過ごした町の近くまで来る機会があった。そのときにあの老人の言葉が頭から離れなかったのは認めよう。出張の日程も緩かったので、生まれた家がどうなっているか見に行ってみることにした。

 駅に着いて驚いたのは、駅舎の姿がわたしの記憶と全く異なっていることだった。降りる駅を間違えたのではないかと思うほどだ。駅前も風景は一変していた。高校生のときに帰り道に買い食いをしていた駄菓子屋がなくなっている。つづく商店街の軒先を見ても知らない店だらけだ。違う町に来たのではないかと不安になったが、スマホアプリを見ても住所は間違いなく自分の生まれた町のそれだった。

 出張から帰るとわたしは真っ先にあの庭園に向かった。なんとしても老人に会わなければと思った。あの老人がそこにいる保証はない。しかも園内の整備で一部の道が閉鎖されていた。わたしはここでも迷う羽目になったが、案内図を見ながらなんとか前に老人に出会った場所を探し当てた。果たして、老人はそこにいた。わたしの顔を見るなり老人は言った。

「あなたの家は見つかりましたか?」

 なんでそのことを知っているんだ、なんて考えるのも馬鹿らしい。このなんでもお見通しという態度は気に食わないが、わたしはその先を知りたかった。

「もちろん見つけたさ。迷いに迷ってな」

 昔住んでいた家は取り壊されて、新しい家に新しい家族が住んでいた。当たり前のことだ。

「それはよかった」

「なんであんなことをさせたんだ」

「もうお分かりではないですか?」

「地図が変わっていた」

「その通りです。目的地がわかっていたとしても、昔と今とでは地図は変わります。だから人は常に、新しい地図を作り続けなければいけないんですよ」

「わたしの経験は古くて無意味だと?」

「そうではありません。更新するんです。いま読める言葉で、いま通れる道に沿って。それは決して難しいことではないはずです。あなたには地図を読んできた経験があるのだから」

「だがわたしが教える連中とは、もはや言葉が通じないんじゃないかと思ってる」

「そんなことはありません。最も簡単なのは、その人たちと一緒に道を歩くことです。一緒に見聞きして地図を作るんです。そうすれば間違えることは少ないでしょう」

 相変わらず回りくどい言い方をする。

「最も重要なことは、同じ目的地を持ち続けることです。目的地がズレていなければ、どんな道を通っても必ずたどり着くのですから。あなたがわたしを見つけたように」

 わたしは手に持った案内図を握りしめた。

「せいぜいがんばるよ」

 わたしはそれだけ言って、また老人と別れた。庭園の向こうに日が沈みかけていた。

4/7/2025, 4:23:35 AM