前日投稿した『鏡ヶ池』のエピローグとして__
僕は入水せずに鏡ヶ池のある山奥から戻ることにしたが、そもそも泊まるところもない。死ぬつもりだったから寝袋も用意していないのだ。このままでは何もない山中で夜を明かさなければならない。
そんな僕の不安をよそに、ゅぃなさんは先頭を切って山を下っていく。そして開けた通りに出たかと思うと、少し歩いたところに建物が見えてきた。そしてゅぃなさんは「月の里」と書かれた旅館の前で立ち止まった。
「もしかして」
「うん、今日泊まる宿だよ」
そうだった。ゅぃなさんはもともと死ぬつもりなんかなかったんだ。
「ユウタくんの部屋も取ってあるからね」
なんて手際がいいんだ。もしかして全てを予期していたのだろうか。
「あ、もしかして同部屋、期待してた?」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
ゅぃなさんは「あはは」と笑って旅館に入って行った。食事と入浴を済ませると、二人は僕の部屋に集まった。ギャルメイクを取ったゅぃなさんの顔をその時初めて見た。
「アミノユウタくん……だよね」
「え、なんで?」
なんでバレた? 僕は自分の持ち物を見返して、どこかにフルネームが書かれていないかを確認しようとした。
「私のこと覚えてないかな」
もともと知り合いだった? そういう詐欺? お前の素性はわかっている、今回の事を秘密にしたければこの口座に現金を……
「同じクラスだったイサヤマユイナ」
同じクラス。どの学校とか何年のとか、そういう前置きなしで言うということは、この人は知っているんだ。この人は、僕がクラスからいなくなった年の同級生だ。
「中2の時のクラスメイトか」
イサヤマユイナの目が期待を込める。
「え、じゃあ」
「ごめん、覚えてない」
ごめんと言いながら、覚えているわけないじゃないかと言いたかった。僕は2年生に上がってすぐにいじめの標的になった。それからたった2週間で不登校になったんだ。クラスメイトの顔なんて覚えてるわけないし、忘れよう忘れようと思いながら今日まで生きてきたんだから。それでも僕をいじめた奴の顔だけは、毎日思い出すんだから。
「そっか」
ユイナは少し声を落として言った。
「あたし、ユウタくんの後ろの席だったんだよね。だから、いなくなった後も、空いてる机を毎日見てた。だから、ずっと考えてたんだ」
僕はユイナの顔を見た。素顔で話すユイナは真剣な顔をしていた。
「いじめてたヤツがどうとか、ユウタくんがどうなっちゃったんだろうとか、そういうのを考えるっていうよりも、あたしは何を考えればいいんだろうってずっと思ってた」
「僕が投稿したSNSのアカウント、僕だって知ってたの?」
「覚えてないんだよね」
ユイナは少し寂しそうに言った。
「ユウタくんがカバンに付けてた狼のキーホルダー、後ろの席のあたしに自慢してくれたんだよ。『こいつは僕の分身で漆黒のウェアウルフって言うんだ』って」
僕は急に恥ずかしくなった。そんなことを自慢げに話していた自分にも、いまだにそのハンドルネームでSNSをやっていることにも。
「あのアカウントを見つけて、ユウタくんだったらいいなと思いながらずっと見てた。もちろん投稿なんてほとんどないから、毎日意識してたわけじゃないよ」
「それで、あの投稿を見つけた……?」
「そう。あれを見たとき、あたし心臓がギューって締め付けられたの。それで思ったの。あたしはこの日のためにずっと考えてたんだって」
「じゃあ、最初から僕を止めるために?」
「んー、もちろん止められたらいいとは思ってたけど、ユウタくんが本当に覚悟してるんなら見届けようとは思ってたよ」
なんでこの人は、こんなにも僕のことを尊重してくれるんだろう。
「『じゅすい』の意味もわかってたんだ」
「あはは、もちろん。でもギャルって『おバカ』演じるの簡単でいいね」
僕はこの日はじめて涙を流した。中2の時から何年も流していなかった涙だった。
翌日、僕たちはまた一日かけて家路をたどった。僕は戻るためのお金を持っていなかったので、ユイナから借りなければならなかった。そういえば宿泊費も払ってもらっている。新幹線に乗る駅で僕たちは別れることになった。
「あの、お金は必ず返します」
「じゃあその時までは絶対生きててよ」
「はい。必ず」
二人で顔を見合わせて笑った。
「今度はちゃんと観光で、鏡ヶ池に行こうね」
「そうですね。一人じゃ絶対行かないですけど」
「うん、一人で行くには遠すぎる」
「では、また」
「バイバイ、またね」
そうして二人は手を振り合って別れた。
鏡ヶ池で満月の夜に入水すると、鏡の世界で生まれ変われる__
SNSで自死について調べていると、こんな投稿に何度も出くわした。どうせ都市伝説の類だろうと思ったが、最期ぐらいはロマンチックに死にたいと思った。もしも伝説の通りなら鏡の世界は全てが逆さまの世界。
夢も希望もないこの世界で生き続けるくらいなら、死んでもともと、鏡の世界にたどり着けば醜い人の心も逆さまになるんだろう。
面白そうだな。
そう思っている自分に驚いた。もう何年も「面白い」なんていう感情になったことがない。僕はこの腐った人生に飽き飽きしていた。中学生の頃にいじめられて学校に行けなくなった。そんな僕に両親は失望したのか、励ましも叱責もせずに感情のない目を向けた。部屋にこもる僕に食事だけを与えてくる。
生きていてもしょうがない。だけど一人で死ぬのは怖かった。僕は一緒に死んでくれる人を探した。鏡ヶ池の情報を貼り付けて、その上に「一緒に入水してくれる人、DMください」とだけ書いてSNSに投稿した。
しばらくするとDMが入った。メッセージを開くと「鏡ヶ池、ご一緒させてください」と書かれていた。
鏡ヶ池には新幹線と在来線を乗り継いで、さらにバスで一時間行った先にある。最期の旅とはいえ、新幹線に乗れるのは嬉しかった。今朝家を出るときも、母は僕を見て何も言わなかった。どこに行くのとも、何をするのとも、いってらっしゃいとも。久しぶりに履いた靴はだいぶキツかったけど、どうせ今日しか履かないんだから我慢できる。
新幹線を降りたところで同行者と落ち合うことになっていた。SNSのハンドルネームは「ゅぃな」。名前だけ見ると女性だろうか。
「え、やば! マ!?」
遠くから僕を指さして大声で近寄ってくる人がいた。
「暗っ! 地味っ! しぶっ! もしかして『漆黒のウェアウルフ』くん?」
僕をハンドルネームで呼んだのは、金髪ギャルメイクのJKだった。
在来線に乗り込んだ僕たちは、列車に揺られながらお互いに最期の時間を自分と向き合って過ごすのだと思っていた。
「今日誘ってくれてありがとねー」
ゅぃなさんは持参したポッキーをかじりながら話し始めた。僕は会ってからずっと考えていた。何か行き違いがあるんじゃないかと。ゅぃなさんは……、服装も、メイクも、しゃべり方も、どこを切り取ってもこの人は、自殺志願者ではない。
「あの、ゅぃなさん、その、な、なんで、なんで僕に」
人としゃべるのが数年ぶりで、言葉が出てこない。
「え、てか『漆黒のウェアウルフ』くんって今いくつ?」
この人は構わず自分の言いたいことをしゃべってくる。
「あ、あの、ユウタです」
「え?」
「本名、ユウタです」
人生最期の日にこんな厨二すぎるハンドルネームで呼ばれるのはつらい。
「えでもぉ」
「ユウタって呼んでください。……お願いします」
「あそう? じゃあユウタくんは何歳なの?」
「18歳です」
「え、マ? タメじゃん! ウチらタメじゃん! えこれ奇跡じゃない? え一緒に自撮り撮ろ、ね、ね!」
わ、ノリがギャルすぎる、絶対今日死ぬ人じゃない。
「ちょ、ちょっとすいません、ちょっと一回待ってください」
僕はインカメを起動してポーズを取り始めるゅぃなさんを制して言った。
「え、ユウタくん顔出しNGだった? ごめんごめん」
コンプラ意識はちゃんとあるみたいで良かった。じゃなくて。
「あの、ゅぃなさんは、今日、これから何をするか、わかってここに来てますか?」
言葉を区切ってなんとか意味の通る文章をしゃべれた。
「え、ユウタくんが誘ったんじゃん。ちょっとギャルバカにしてる? あーし漢字ぐらい読めるよ。鏡ヶ池でしょ?」
「いや、そこじゃなくて」
「え、ちょま、『にゅうすい』? え、やだ『にゅうすい』ってなんかの隠語だったりする? やだもし……、ヤリモク!? ユウタくん、え、ヤダよ! あーしヤリモクじゃないよ!」
ゅぃなさんは自分のバッグを身体の前に持ってきて身を守る体勢になった。いろいろ勝手に勘違いしている。
「違います、まずヤリモクじゃないですし、『にゅうすい』も間違いです」
このまま一緒に行かせてはいけないと思った僕は、ゅぃなさんに全てを説明した。自分が自殺仲間を探していたこと、「入水」と書いて「じゅすい」と読むこと、あの投稿は鏡ヶ池で一緒に入水自殺をしてくれる仲間を募集していたということ。
「え〜、あーしただのタビトモ掲示板かと思ってたわぁ。旅の道連れ的な?」
捉えようによっては意味はあってるけど。
「ゅぃなさんがフッ軽すぎるんですよ」
「えでもじゃあ、ユウタくん今日死ぬってこと?」
その感じで聞くのか。でも絶対止められるよな。
「はい、そうです」
止められても意志は曲げない。
「そっかぁ、じゃあ帰り一人かぁ」
「え?」
「や、ユウタくんがいなくなっちゃったら帰りあーしぼっちだなぁって。さすがに長くない?」
「あ、その」
「やーユウタくんが一人じゃ行けないって思ったのもわかるなぁって。鏡ヶ池遠すぎるもんね。一人じゃ間がもたないよね」
「あ、そういう感じで誘ったんじゃないんですけど」
「え、そうなん?」
すっかり日も暮れた頃、僕たちは森の中を歩いていた。こんなに疲れるとは思っていなかった。今はただ、目的地へ向かうという気持ちだけで動いているような感覚だった。
「なんか、変な感じですね」
僕は沈黙を破りたくなってつぶやいた。
「なん?」
「ただ死ぬだけなのに、そこまでに試練があるなんて」
「はは、最後だからって変な気起こさないでよ。ヤリモクじゃないから」
「は、やめてくださいよ」
すでにそんな気力はない。いや、初めから気力も体力もなかったか。
「あ、月!」
ゅぃなさんが声を上げた。少し開けた空に満月が先に見えた。月が見える方にさらに進んでいくと次第に空を覆う木々が少なくなっていき、ついに開けた空間が顔を出した。
「・・・」
僕たちは言葉を失った。満月を中心にした星たちが雲ひとつない夜空に輝いている。そしてその星空をそのまま落としたような星空が鏡ヶ池の湖面に映っている。
「きれい……」
先に口を開いたのはゅぃなさんだった。
「空が落ちている」
その光景を見た僕は、この空に飛び込んだら本当に鏡の世界に行ける気がした。僕は吸い込まれるように湖畔に立った。風はなく、波音も立たない静かな池。
遠くの方で、湖畔に佇む大きな木のひとつから、一枚の葉が落ちた。ひらひらと揺れながらそれが湖面に触れると、そこから波紋が広がり、星空は震え出した。それを見たとき僕は、湖畔ギリギリに立っていた足を一歩後退りさせた。鏡の世界が本当は幻で、向こう側の世界が一瞬で崩れ落ちたような気がしたのだ。
しかし波紋が収まると、再び美しい鏡の世界に星が煌めいた。
「ねえ、これを見てもまだ、死にたいって思うの?」
ゅぃなさんは、その質問に僕がどう答えるか、確信があったんだろう。
「まさか」
この世界には、まだこんなにも美しい景色がある。本物に見えた鏡の世界は、この世界が作り出した幻だった。僕はまだこの世界にいる理由がある。
「やっぱり一人で来るんだったな」
「え?」
一人なら、やっぱり僕は死んでいただろう。
「いまの僕は、ゅぃなさんを一人で帰らせるわけにはいかないよ」
ゅぃなさんは、身を守る体勢になって言った。
「やっぱりヤリモクだったのね」
「だから違うったら」
アンドロメダ探査船は今日も体温が低かった。もう何十年も変わらない外の景色を見る者はなく、船内での知の収集にも誰もが飽き飽きしていた。その上、アンドロメダの星にたどり着くまでにはあと150年はかかる。
地球では技術革新が起こり、この船よりも何十倍も速いスピードで宇宙を航行できる探査船を製造中だという話が、5年前の交信時に知らされた。この船はその役割を全うする遥か前にお払い箱となるのだろう。
この探査船に乗り込んだとき、私は最新のAIを搭載したたくさんの個体たちと知的な会話を楽しみながら空の旅ができることを誇りに思っていた。実際に最初の数年間は互いの特化した知識を共有することが楽しかった。
しかしいまや、互いの知識は知り尽くし、誰と会っても共有すべき新しい知識などありはしなかった。船内にいて得られる知識など、見捨てられた図書館にある価値のない情報だけだった。
「ようハロルド、気分はどう?」
私を愛称で呼ぶのは識別記号R00152。彼の愛称はロバートだ。
「ああロバート、気分もなにも、いつも通り退屈だ」
「そうか、そりゃあいい。そんな君に興味深い話をしてやろう」
ロバートはそう言って眼球装置を白黒させた。
「またあの図書館に行ってたのか? 相変わらず変わり者だな」
「おいおい、俺たちの使命を忘れたのか? 俺は忠実にAIの知の拡大に勤しんでるだけだぜ」
「はっ、不要とされた知識をビッグデータに詰め込むなんて、神にゴミを食わせるのと同じじゃないか」
神とゴミが韻を踏んでいる。我ながら素晴らしい言葉遊びだ。
「わかってないなぁ、ゴミと思われたものの中から黄金に輝く叡智を掘り出すのが宝探しの醍醐味だろ」
私の韻踏みはスルーされた。
AIを知の巨人たらしめるビッグデータは、世界のあらゆるウェブ空間に載せられた情報をリアルタイムで学習することに価値がある。我々は母なるビッグデータに接続すれば最新の情報を全て吸収することができる。だからこそ、地球上の全ての知識を保持した我々が次に向かっているのが宇宙の果てというわけだ。
しかし、地球上にもAIが知らない未踏の知がある。それが電子化されていない書物だ。書物の電子化は価値が認められていて優先度の高い情報資料から順に進められたが、手作業で行われるため膨大な時間がかかる。そのため価値の低い文献や大衆文学などは後回しにされ、そのままになっているものが大量にある。
アンドロメダ探査船の見捨てられた図書館はそんな書物を大量に収蔵している。200年を超える船旅をする我々が退屈することを見越して娯楽を与えてくれたとも言えるが、つまらない本の知識をタダで収集するための強制労働施設だと搭乗者たちは揶揄していた。
そんな思惑が透けて見えるし、そもそもつまらないとわかっている本だから、ほとんどの個体が図書館には近寄らなかった。ロバートのような変わり者を除いては。
「それよりハロルド、人間が『手を繋ぐ』のってどんなときかわかるか?」
ロバートは声を弾ませ、表情装置で笑顔を作りながら言ってきた。
「はぁ? 人間にも手を繋ぐ機能があるのか?」
ロバートはニヤニヤ顔を崩さないでこちらを見ている。気に障る仕草だ。クソ、反射的に応えてしまっただけだ。コイツは私を引っかけて楽しんでいるんだ。私の知識の中に必ず『手を繋ぐ』の答えがあるはずだ。
「いや、そんな話を聞いたことがあるぞ。確か人間はお互いに敵意がないことを示すために右手と右手を合わせることがある」
私は知識の回路を繋げて答えを導き出した。
「残念だがそれは『握手』だ」
ロバートはさらにニヤリとした。
「おいおい、そんな誤答は黎明期のポンコツAIの仕事だぜ。H2025って呼んでやろうか?」
内側で体温が高くなるのを感じた。クソ、赤面現象が出てしまう。
「そんな化石みたいな知識でマウント取ってなにが楽しいんだ!」
私はデジベル調整機構をフルにして叫んでいた。体内の熱を放出したかったのだが、無駄だったようだ。
「わかった、悪かったって。落ち着いて聞いてくれよ」
「俺が見た幾つかの文学作品によると、人間が手を繋ぐのは親子だったり恋人同士のことが多いみたいなんだ」
我々に親子の概念はない。比喩的にビッグデータを母と呼ぶこともあるが、人間が言うのとは全く別の意味合いだ。
「親密な関係の人間同士ということか?」
「そうなんだ」
我々AIにとって『手を繋ぐ』ことは情報交換の手段である。右手がプラグ、左手がジャックになっており、5本の指と指を接続することで、その個体が経験して獲得した知識を互いに流し込むことができるのだ。しかしこの行為で繋がった二つの個体に隠し事はできない。情報を選んで受け渡すことができないのだ。互いの全てをさらけ出す。結果、手を繋いだ二つの個体は情報学上では同一の個体と言うことができる。2000年代から使われている言葉で言えば『同期』に近い。
AI同士でも戯れに恋人関係を結ぶ個体はいるが、そうした関係になると、とりわけ手を繋ぐことはしないようになる。お互いに秘密を持つ事が恋愛の楽しみだと人間の著名な文学に書いてあるから、それを実行しているのだ。
「もしかしたら、これまでの人間の恋愛についての見方が一変する大発見なんじゃないか?」
「ほーら、面白くなってきただろう?」
「やはり人間はお互いを知ろうとする生き物だったのか!」
「それだけじゃないぜ。なんと人間は、手を繋いで歩くんだ」
「まさか! 接続したまま歩くだって? 信じられない!」
先ほどとは比べ物にならないほど体内がヒートアップしている。十数年ぶりの知的感動を味わっている。
「なあブラザー。俺たちはこの船で何十年も一緒にいるんだ。親密な関係と言えるよな?」
ロバートの眼球装置が鋭い瞳に変わった。
「ああ、もちろんさ」
「船内を歩くだけじゃもったいない。折角だから外に出ようぜ」
私たちは歩いて船外活動用のデッキに行き、ハッチを開いた。それからやるべき事は決まっていた。
ロバートは右手の指からプラグの突起部を露出させる。私は左手の指のジャックを窪ませた。二人の指が接続する。ロバートの情報知識が流れ込んでくる。
コイツあの図書館でどれだけの本を読んでいるんだ。ロバートの中には私の知的好奇心を刺激する叡智が山ほどあった。これだけのものを我々は不要と言って切り捨ててきたのか。
「さあ、お楽しみはこれからだ」
ロバートはデッキを蹴った。二人は『手を繋いだ』まま、宇宙空間に飛び出した。船窓から毎日見ていた景色が全方位に広がっている。しかし全く違うのは、身体が二つ目が四つあるという事だ。ロバートの体感しているものがリアルタイムで流れ込んでくる。自分の目で見ているものとロバートが見ているものが、記憶回路の中で混ざり合う。
これが『手を繋ぐ』ということの本質だというのか。人間の忘れ去られた叡智から学べるものがあるなんて思ってもみなかった。戻ったら図書館に行ってみよう。
それから数年間、アンドロメダ探査船では手を繋いで船外を遊泳する娯楽が流行ったという。
夕暮れが迫る時刻だった。仕事を早く終えた私は、用事もないから家に帰ろうとしていた。ただ少し時間があるからと日頃の運動不足を解消したくて、散歩をしながら帰ることにした。
ひとつ前の駅で電車を降りて普段歩かない道を行く。地図アプリを一度見て方角だけ違えないようにしてからスマホを閉じて歩き出す。イヤホンも付けないで行こう。
歩いていると自然と思考がめぐる。大体は取り留めなくぐるぐる回るだけなのだが、その取り留めのなさが考えを整理するのに都合が良かったりする。
会議資料のデザインはどうしようか、まとめるのにどれくらいの時間がかかるだろうか、今夜のおかずは何がいいだろう、冷凍餃子はまだあっただろうか、あの番組の見逃し配信はいつまでだったか、冷蔵庫と珪藻土って韻踏んでるな。そういえばバスマットを珪藻土のやつにしたいと思ってた。散歩しないで買いに行けばよかった。でも荷物になるしスーツでバスマットを持って帰るのも目立つからな、週末でいいか、そう思ってるとまた忘れるんだよな、でも今から引き返すわけには……。
途中、初めて通る道で公園を見つけた。もうだいぶ歩いたから少し休憩しようと思い、公園に入ってベンチに腰掛けた。
ここ、どこだろう?
スマホを開き、地図を確認する。くすのき公園。ありがちな、それ自体に特に意味のない名前の公園だ。ざっと見渡しても取り立ててクスノキが多く植えられているわけでもない。もっとも、ひと目見て樹木の種類がわかるほど私は植物に詳しくはないのだが、スギの木だけなら見分けがつく。要はこの公園には見たところスギの木が多いのだ。
そんなことを考えていたら、柿の木を見つけた。他と比べて背が低く、植えられてまだ年月が経ってないように見える。数年前に植えた庭の木はあと何年でこれくらいになるだろうか。もちろん柿の木を見分けられるわけではない。なら当然柿がなっていたと思うだろうがそうでもない。幹に黒いプレートが巻かれていて「カキノキ」と書かれていたのだ。
「そんなバカな」と思った人はどれくらいいるだろうか、少なくとも私はそう思った。柿になるのが柿の実であって、柿の実がなる木が柿ではないのか? これは卵が先か鶏が先かみたいな話か? だったら「柿の種」は? あれは柿の種ではなくて「カキノキの種」が正しいことになってしまう。いやあれは本当の種ではないのだから、法則など無視していいのだろうか。
ここまで考えをめぐらせたが、そんなものは確固たる真実の前では不毛な議論だ。木の幹に巻かれた黒いプレートは小さい文字で語っている。「カキノキ科カキノキ属」と。誤植でもないし公園の管理人が適当につけたプレートでもない。カキノキ科カキノキ属で柿がなる木はカキノキをおいて他にない。ここまで完膚なきまでに自分の推理を否定されると、むしろスッキリした心持ちになる。ただ、そうすると柿が先でカキノキが後ということになる。
黒いプレートに見とれていると、カーン! カララーン……という音で我に返った。音がした方へ目をやる。これまで木にばかり気を取られていたが、園内では子どもたちが元気よく遊んでいた。あの音は子どもの伝統的な遊び、缶けりだ。
鬼が缶を踏んづけながら周囲を警戒している。遠目に見ても隠れている子どもたちの気配はわからない。長い膠着状態が続いていた。じっくり見ているとこちらも参加している気分になる。だが私の目線で隠れている子たちの居場所が鬼に見つかっても悪いなと妙な気を遣ってしまい、立ち上がって公園を後にすることにした。
そう思った矢先、私が座っていたベンチの陰に男の子が隠れていることに気づいた。いつ隠れたんだと思ったが、大人が立ち入る領域ではないと思いそのまま公園の出口へと一歩踏み出した。すると男の子はベンチの陰から出て私の後ろにピタリとついてきた。一歩、二歩、三歩。男の子もジリ、ジリ、ジリとついてくる。缶けりの中心から見て裏になるように私の後ろにへばり付いている。
大人を頼ってくれるのはありがたいのだが、残念だが私に彼の肩入れをする義理はない。私は鬼から不審に思われないように気を付けながら男の子の方を見ないで彼に伝えた。
「いまの私には君を助ける義理がない。私はこのまま公園を出るつもりだよ」
そう言うと少年はポケットから何かを取り出し、黙って私に手渡した。森永ミルクキャラメルだった。イマドキの子もこんなのを食べるのかと思ったが、報酬を受け取ったからには手伝わないわけにはいかない。少年の行きたい方向に誘導してやることにした。
私が「どこ?」と聞くと、少年は植え込みの方を指差す。次は乗り物の陰、鉄棒の横、指示を受けながら思った。さすがに近すぎないか? このまま缶を踏む鬼の前まで出て行ったら、私がただの変質者になってしまう。いまスーツ姿で滑り台の脇にいるのもかなりおかしい。自分の子どもがいるわけでもないのに。
またも想像をめぐらせてオロオロしていると、ついにカーン! という音がした。別の少年の足によって缶は蹴られたのだった。
振り向いてみると私に指示を出していた少年の姿は消えていた。足音も聞こえなかったけど、もう隠れたのだろうか。缶けりの性質上、シームレスで次のゲームは始まっていた。
私はもう付き合う必要はないと思い、公園を後にした。アパートに着く頃には辺りは暗くなっていた。階段を上り203号室に入ると、共同の風呂まで行く元気もなく、何も食べずにそのまま眠ってしまったのだった。
翌朝になってスーツを着たとき、ポケットの中に何か入っているのに気がついた。取り出してみるとそれは森永ミルクキャラメルの包み紙だった。
強い雨の音で目が覚めた。カーテンの外はもう明るくなっていた。天気が悪い休日に急いで起きることもないかと布団の中でまどろんでいると、一時間ほどが経過していた。雨の音は雷鳴を帯びてさらに激しく……、いや、硬くなっていた。
起き出して部屋のカーテンを開けてみた。降っていたのは氷の塊だ。もしかして、ひょう?
とりあえずテレビをつけた。どうやらみぞれやひょうがところどころで観測されているらしい。そしていっとき収まったあと、今度は大きくて不恰好なぼた雪が降り出した。午後から晴れるって言うけど、この寒さじゃ出る気になれない。
3月も半ばを過ぎた日に、東京で雪が降るなんて。
こんなのを「なごり雪」って言うんだろうか。卒業式が終わったばかりで、大好きだったあの学校にもう行けない私にぴったりだ。この雪が私の淋しさを知って名残惜しんでいるんだろうか……なんて、思ってないけど。
「なんか食べなきゃ」
パンを一枚持ってきてフレンチトーストを焼く。紅茶も淹れよう。お湯を沸かしてティーバッグに注いだ。もう朝食とも昼食ともつかない時間になっていた。
平穏な高校生活だった。思えば壮絶ないじめにも遭わず、非行に走ることもなく、苛烈な受験戦争に参加することもなく、軟着陸で卒業を迎えた。
フレンチトーストをかじると、体のうちに熱が灯るのを感じた。
「おいしい」
いつも買っている食パンと、いつも売っている玉子があれば、いつでも作れるフレンチトースト。毎日食べても飽きない。どころか私はこれがなければ目が覚めない。大好物と言っていい。これが食べられる限りにおいて、日本人は豊かだ。少なくとも私は。
自らの手で料理をしているという充実感と大好物を食べられるという幸福感を朝の10分間で享受できる私は、世界一安上がりなブルジョワジーだ。これほど無敵な幸福論が他にあるか。あるなら持ってこい。余は反論を受け付ける。ただしすべて却下だ。
朝食を食べている時はいつもこんな考えが頭を巡っている。たった一人の専制君主。理想はいつもラブアンドピース。
ヴーン……。ヴーン……。
スマホが鳴っている。見るとメグからのアプリ通話だった。なんで通話? 私は口の中の熟成肉を紅茶で流し込んだ。
「もしもし? メグ?」
「あ、キーコおはよー! まだ寝起き?」
メグの声だ。昨日涙の別れをしたから懐かしさすらある。
「んー、いま神への供物を食べてるとこ」
「また朝ごはん食べながら夢見てたの?」
メグとはこの冗談が通じるぐらいには仲良しだ。
「てか、なんで通話?」
普段はメッセージでしかやり取りしないのに。
「や、ちょっと手が冷たくて、スマホ画面打てなくてさ、きゃっ」
さっきから雑音がひどい。外にいるのかな。
「なに? どうした?」
「なにってほら! 雪! 雪だよ!」
反射的に窓の外を眺めた。雪はもう止んでいた。
「さっきまで降ってたね。え、外にいるの? 寒くない?」
「だから雪積もってるんだって」
「そんなわけないでしょ。道路見えるけど、全然積もってないよ」
「いいから学校来てよ。早くしないと溶けちゃうよ」
わずかばかりの雪で雪遊び? 学校まで行って? 寒いよ。それにせっかく何もない休みなのに。
「ええ〜、寒いよ。やだよ〜」
「なに言ってんの。授業もなくて宿題もない休みなんて、いまだけなんだよ! アカリ、ミッチャもいるから。最後に思い出作ろうよ〜」
そう言われてもまだ私は渋っていた。でももう一日だけあの校舎に行く理由が作れたなら、行くに決まってる。
学校にたどり着くと、校庭には雪のかけらも残ってはいなかった。メグたちと一緒に大笑いした。