夕暮れが迫る時刻だった。仕事を早く終えた私は、用事もないから家に帰ろうとしていた。ただ少し時間があるからと日頃の運動不足を解消したくて、散歩をしながら帰ることにした。
ひとつ前の駅で電車を降りて普段歩かない道を行く。地図アプリを一度見て方角だけ違えないようにしてからスマホを閉じて歩き出す。イヤホンも付けないで行こう。
歩いていると自然と思考がめぐる。大体は取り留めなくぐるぐる回るだけなのだが、その取り留めのなさが考えを整理するのに都合が良かったりする。
会議資料のデザインはどうしようか、まとめるのにどれくらいの時間がかかるだろうか、今夜のおかずは何がいいだろう、冷凍餃子はまだあっただろうか、あの番組の見逃し配信はいつまでだったか、冷蔵庫と珪藻土って韻踏んでるな。そういえばバスマットを珪藻土のやつにしたいと思ってた。散歩しないで買いに行けばよかった。でも荷物になるしスーツでバスマットを持って帰るのも目立つからな、週末でいいか、そう思ってるとまた忘れるんだよな、でも今から引き返すわけには……。
途中、初めて通る道で公園を見つけた。もうだいぶ歩いたから少し休憩しようと思い、公園に入ってベンチに腰掛けた。
ここ、どこだろう?
スマホを開き、地図を確認する。くすのき公園。ありがちな、それ自体に特に意味のない名前の公園だ。ざっと見渡しても取り立ててクスノキが多く植えられているわけでもない。もっとも、ひと目見て樹木の種類がわかるほど私は植物に詳しくはないのだが、スギの木だけなら見分けがつく。要はこの公園には見たところスギの木が多いのだ。
そんなことを考えていたら、柿の木を見つけた。他と比べて背が低く、植えられてまだ年月が経ってないように見える。数年前に植えた庭の木はあと何年でこれくらいになるだろうか。もちろん柿の木を見分けられるわけではない。なら当然柿がなっていたと思うだろうがそうでもない。幹に黒いプレートが巻かれていて「カキノキ」と書かれていたのだ。
「そんなバカな」と思った人はどれくらいいるだろうか、少なくとも私はそう思った。柿になるのが柿の実であって、柿の実がなる木が柿ではないのか? これは卵が先か鶏が先かみたいな話か? だったら「柿の種」は? あれは柿の種ではなくて「カキノキの種」が正しいことになってしまう。いやあれは本当の種ではないのだから、法則など無視していいのだろうか。
ここまで考えをめぐらせたが、そんなものは確固たる真実の前では不毛な議論だ。木の幹に巻かれた黒いプレートは小さい文字で語っている。「カキノキ科カキノキ属」と。誤植でもないし公園の管理人が適当につけたプレートでもない。カキノキ科カキノキ属で柿がなる木はカキノキをおいて他にない。ここまで完膚なきまでに自分の推理を否定されると、むしろスッキリした心持ちになる。ただ、そうすると柿が先でカキノキが後ということになる。
黒いプレートに見とれていると、カーン! カララーン……という音で我に返った。音がした方へ目をやる。これまで木にばかり気を取られていたが、園内では子どもたちが元気よく遊んでいた。あの音は子どもの伝統的な遊び、缶けりだ。
鬼が缶を踏んづけながら周囲を警戒している。遠目に見ても隠れている子どもたちの気配はわからない。長い膠着状態が続いていた。じっくり見ているとこちらも参加している気分になる。だが私の目線で隠れている子たちの居場所が鬼に見つかっても悪いなと妙な気を遣ってしまい、立ち上がって公園を後にすることにした。
そう思った矢先、私が座っていたベンチの陰に男の子が隠れていることに気づいた。いつ隠れたんだと思ったが、大人が立ち入る領域ではないと思いそのまま公園の出口へと一歩踏み出した。すると男の子はベンチの陰から出て私の後ろにピタリとついてきた。一歩、二歩、三歩。男の子もジリ、ジリ、ジリとついてくる。缶けりの中心から見て裏になるように私の後ろにへばり付いている。
大人を頼ってくれるのはありがたいのだが、残念だが私に彼の肩入れをする義理はない。私は鬼から不審に思われないように気を付けながら男の子の方を見ないで彼に伝えた。
「いまの私には君を助ける義理がない。私はこのまま公園を出るつもりだよ」
そう言うと少年はポケットから何かを取り出し、黙って私に手渡した。森永ミルクキャラメルだった。イマドキの子もこんなのを食べるのかと思ったが、報酬を受け取ったからには手伝わないわけにはいかない。少年の行きたい方向に誘導してやることにした。
私が「どこ?」と聞くと、少年は植え込みの方を指差す。次は乗り物の陰、鉄棒の横、指示を受けながら思った。さすがに近すぎないか? このまま缶を踏む鬼の前まで出て行ったら、私がただの変質者になってしまう。いまスーツ姿で滑り台の脇にいるのもかなりおかしい。自分の子どもがいるわけでもないのに。
またも想像をめぐらせてオロオロしていると、ついにカーン! という音がした。別の少年の足によって缶は蹴られたのだった。
振り向いてみると私に指示を出していた少年の姿は消えていた。足音も聞こえなかったけど、もう隠れたのだろうか。缶けりの性質上、シームレスで次のゲームは始まっていた。
私はもう付き合う必要はないと思い、公園を後にした。アパートに着く頃には辺りは暗くなっていた。階段を上り203号室に入ると、共同の風呂まで行く元気もなく、何も食べずにそのまま眠ってしまったのだった。
翌朝になってスーツを着たとき、ポケットの中に何か入っているのに気がついた。取り出してみるとそれは森永ミルクキャラメルの包み紙だった。
3/20/2025, 2:11:07 AM