「夢なんてどうせ叶わないよ」
少年がぽつりとつぶやいた。
「なぜそう思う」
少年の目の前に、帽子をかぶり、白いひげを蓄えた男が現れた。
「なぜって、夢をつかむようなヤツとはデキが違うからさ」
「君の夢はどんなものだ」
「どんなって」
少年は顔を上げ、瞳を天井のあたりにさまよわせた。
「それ、それだ。君は夢の在処を遥か天上に描いているのだろう」
「はぁ? そういうもんだろ。夢や目標は上に昇って行ってつかむものだろ?」
「そう、だからつかめない。だから叶わないんだ」
男は少年に考えさせるように言葉を切った。
「なにを言ってるんだ?」
「イメージの問題だ。夢が土の中に埋まっていると考えたらどうだろう? 地中深くに埋まっているものを掘って掘って見つけ出すんだ」
「はあ」
「見えない階段を上るとか、空を羽ばたくとか、自分にできないことをイメージするより、わかりやすいと思わないか? スコップを持てばいい」
「ああ、なんとなく。でも実際にはどうすれば?」
「学べばいい。足元を掘れば過去が見えてくる。見えないものをつかもうとするのではなく、見られる過去を学ぶんだ」
「でもそれじゃあ何も新しいことは生まれないんじゃ?」
「過去を知らなければ、あるものを知らなければ、何が新しいかはわからんだろう。君が寝ている時に見る夢は、どれだけ突飛であろうとも、君の中にあるものから作られている。宇宙と交信しているわけではない」
「自分の中にあるものを増やす……ってこと?」
「掘り返し、学び、蓄積すれば、夢は自分の中から発掘される。届かぬ空をつかむより、目の前に落ちているものを拾う方が容易い」
哲学的断片
花の香りがした。僕の初めての記憶はそれだった。僕はその香りに向かって歩み始めた。そうすることしか考えられなかったからだ。どのくらい歩いたかわからない。たどり着いた先には、たくさんの花が香る庭園があった。
「あら、いらっしゃい。どちらさま?」
庭園にはたった一人で手入れをしている麗しい女性が佇んでいた。つばの広い帽子をかぶって日除けにしていて、ひらひらのたくさんついたドレスを身に纏っている。腕には白くて長いグローブを着けていた。
「わかりません。花の香りに誘われて来てしまいました」
不審者が言うセリフだが、事実はそれだけだった。僕にはそれしか言えなかった。
「そう、じゃあかわいいミツバチさんね」
女性は冗談を言ったらしかった。でも僕にはそれがわからなくて、本当にそうなような気がした。
「なぜか、僕にはあなたが必要な気がします。僕のものになってくれませんか?」
自分でも何を言っているのかわからなかった。不躾で、愚かな物言いだ。でも僕にはそれしか言えなかった。しかし彼女は、僕の拒絶されて然るべき言動に、ケラケラと笑ってこう返答したのだった。
「私があなたのものになることはできませんわ。でもそうね、代わりに私のお手伝いをしてくださるかしら。実はこのお庭、一人でお世話をするには大きくなり過ぎてしまったの。もし十分にお手伝いをしてくれたなら、一日の終わりに、その日一番素敵な香りをしているお花を、一輪だけあなたに差し上げますわ」
その言葉を聞いた僕の胸は早鐘を打つかのように興奮していた。
「本当ですか。ぜひお手伝いをさせてください」
「ただし、報酬を与えるのは私の目にも十分な働きをした日だけですのよ」
その日から、僕は日が暮れるまで庭園で働くようになった。初めのうちはお花をもらえない日もあったけれど、仕事に慣れてくると香りの良い花を毎日もらえるようになった。
僕は一日の終わりに、最も香り高い花を一輪だけ摘み、それを家に持ち帰った。そして枕元の花瓶に挿して、芳しい香りを全身で吸い込みながら眠りにつくのだった。
次の朝に目を覚ますと、必ず枕元の花は萎れており、もはや二度と香りを発することはなかった。私はより豊かな香りを求めて、毎日庭園に足を運んだ。
しばらくすると、僕のような男が一人、また一人と庭園を訪れるようになった。庭園の主人はそのすべてに僕と同じ条件を言い渡した。しかし今度から手伝いは一人ではなくなった。主人が僕たちに告げた次の条件は、僕たちに新しい興奮を与えた。
「その日の働きが最も良かった人から順に、香りの良い花を選んで良いことにしましょう。目指すべきものがあるって素敵なことでしょう?」
それから僕は一段と真剣に仕事をするようになった。他の男たちとの競争に負けないように、より良い花を作ろうとしたし、より多くの花を作ろうとした。そうして庭園はさらに広がり、さらに芳醇な香りに溢れるようになっていった。
しばらくすると、僕ではないある男が一週間以上ものあいだ、ずっと一番に花を選ぶ栄誉を与えられる期間が続いた。その男はみんなの羨望の的になり、歯噛みしながら男を睨みつける者まで見るようになった。
そしてある日、その男は庭園に来なくなった。
手伝いをしているあいだ、男たちは互いに話すことはない。誰一人、お互いの素性を知る者はなく、みんな主人のことと一番花を得ることだけを考えている。男が一人いなくなったことなど、口にする者はいなかった。主人でさえ、元々いなかった男がまたいなくなったことなど、いちいち気に掛けるそぶりはしなかった。
僕もそれから、たまに一番花を獲得できる日が来るようになった。その頃には、一番花は僕が最初にもらった花とは比べ物にならないくらい濃厚な香りを放つようになっていた。しかし、日を追うごとに庭園に来る男の数は、ぽつり、ぽつりと減っていった。
しばらく経ったある日。いつものように主人の庭園へと向かう途中で、僕は道を間違えてしまった。初めての日よりも遠くまで香りが漂っているにも関わらず、その日の僕はまったく別の方向に足を進めていたのだ。歩いている途中にも、目では道が間違っていることに気づいていた。でも僕の鼻は、この道が正しいと言い続けていた。そんなはずはないとわかっていても、僕は足を止めて引き返すことができなかった。
歩き続けた先にあったのは、果たして、僕が毎日通い続けたのとは別の庭園だった。近くまで来ればわかる。あの庭園の何倍も上質な香りがあたり一帯を覆っている。
この庭園でも男たちが汗をかきながら手入れをしていた。よく見ると数日前まであの庭園にいた男の姿もあった。そして庭の中心にいるのは、眩いばかりのドレスを見に纏った女性主人だった。
僕は引き寄せられるようにその人の前に行き、その場に片膝をついた。
「あなたがここでするべきことは、もうわかっているでしょう」
私にそう告げた女性主人の顔は、あの庭園で最初に姿を消した男によく似ていた。
オレの目の前にあるモニターをニュースが通り過ぎる。華やかなセットの中で、司会者が神妙な顔をしていて、アナウンサーは声を低く保って真剣に原稿を読んでいる。その全てに、私はまったく興味がなかった。
「はい、ということで物価高騰の問題について、鈴木さんお願いします」
隣に座っているコラムニストの鈴木氏が話し始めた。
あ、やばい、次たぶんオレ、当てられる。そんな気がする。そういう流れだ。何も考えてない。そう思うともっと考えられない。でも言わなきゃ。
「じゃあ次はヤマザキさん、お願いします」
やっぱり来た。オレだ。
「そ、う、ですね、」
少しでも考える時間を増やしたい。一文字ずつ切りながらしゃべり始める。とて、頭の中には何もない。なぜならまったく興味がないからだ。これ生放送だよな。
「まず、こういった問題について、我々はどう考えなければいけないか。そこを考える必要があると思います」
よし、とりあえず言葉は出てきた。でも今のところ何も言ってないぞ。
「ある出来事が起こりました。それについてニュースではこう報じられています。コメンテーターの人からこういう意見が出てきました」
いまの状況をただ言葉にした。これは視聴者に言っているのか、自分に言っているのか。フロアのカンペに目をやる。あと1分のカンペ。え、長くない? そのカンペって何秒前から出されてた?
「その意見が自分とは違っています、となったとき。実はコレがすごく大事なことで、そう思ったのなら大声で発言していいと思うんです。有名人じゃない一般の人でも」
司会者は黙ってオレの顔をじっと見ている。リアクションがなくて自分の中の不安がザワザワと音を立てている。オレは何を言っているんだろうか。……続けるしかないんだよな。
「でもそれはテレビで言っていたコメンテーターをSNSで叩くんじゃなくて、もっと明確に『自分はこういう意見です』と表明をするべきなんです。でも誰かの言い分を叩くんじゃなく自分の意見として出すって考えると、本当はもっと根拠を深掘りしなきゃいけなくなってくる。そこで初めて『自ら調べる』っていう行動が出てくるんです」
あと20秒のカンペが出ている。ここで司会者が割って入った。
「なるほど、ではヤマザキさん、今のお話をまとめていただけますか?」
何も言っていないのに「なるほど」ってなんだよ。お前、聞いてないだろ。あと何も言ってないのに「まとめて」ってなんだよ。何もないよ。
「そうですね、やはり私としては、この報道の内容だけではコメントは難しいので、放送後にしっかりと勉強した上で弊社のWebサイトにて意見を出したいと思います」
じゃあなんで生放送のコメンテーターなんか引き受けたんだよ! と自分の中でツッコミを入れる。もう二度と呼ばれないだろう。
「いやぁ見事にまとめていただきました。サイバーヒューマンプロテクションの社長で危機管理の専門家、ヤマザキタケヒデさんでした。ありがとうございました」
放送が終わったあと、ビクビクしながら会社に戻った。我ながら情けない醜態をテレビで晒してしまった。社長としての立場も危ういかもしれない。
「社長! お帰りなさい! いま大変なことになっています!」
そりゃあクレームや契約中止の連絡が来るのも仕方ない。
「どうした?」
「それが、テレビでの社長の発言を受けて、契約依頼やテレビ出演のオファーが殺到しているんです!」
「はあ?」
世の中、何が当たるかわからない。
「SNSでもとても好評みたいです!」
私は急いでスマホを開いた。
『危機管理の社長、ほぼなんも言ってないのにスタジオを納得させてて草』
『危機管理のプロ過ぎるwww』
『小泉○次郎もびっくりの中身のなさ!!』
『最終的に「勉強してから発言します」で終わったw正直だわww推せるww』
『ホームページ待機』
こんなことで評価されてしまうなんて、オレはしどろもどろになってただけなのに……。もはや危機管理の何が正解なのか、何もわからなくなってしまった。自分の中の心のざわめきは大きくなる一方だった。
「みぃつけた!」
見つかってしまった。後ろから右の肩を掴まれた。その人は私の前に回って正面から私を見た。同じ学部のレイコちゃんだ。私はなれない笑顔を作ってニコッと口角を上げた。
「あ、ごめん、人違いだったかも」
そう言うとレイコちゃんはスッとまた距離を置くのだった。
実際にこれが起こったわけではない。でもそんなようなことが、ついさっき会話の中で起こった。大学の空き教室で講義のない4人がなんとなく集まってしゃべっていた。
「え、ナエちゃんいま聴いてるの“ブルダン”の新曲じゃない?」
私のスマホ画面が目に入ったのか、レイコちゃんが聞いてきた。
「あ、そうだよ。“ブルダン”の『Save Good-by』」
“ブルースダンサー”通称“ブルダン”は売り出し中の男性アイドルユニットだ。
「え〜ウチも好き〜。この前のツアー観に行った? ウチ名古屋しか当たんなくてぇ、大学サボって2泊してきちゃったんだよね」
レイコちゃんがテンション上がって早口で言ってきた。
「あ、へー、そうなんだぁ。私はあの、ライブとかあんまり興味なくて、その“ブルダン”はラジオで聴いて好きになったんだよね」
私は正直に話した。
「あ、ふ〜ん、そうなんだ……」
私の好きなものにレイコちゃんは食いついてくれた。でも会話を続けた結果、私はレイコちゃんが探していた私ではなかったようだ。私の失敗かもしれないし、レイコちゃんの失敗かもしれない。
だけどレイコちゃんが私を探してくれて、肩を掴んでくれたのは嬉しかった。私は探すのが苦手で、自分から肩を叩けない。レイコちゃんみたいに失敗しても何度も探しにきてくれる友達がいると頼もしいし、憧れる。
さっきの失敗を取り返そうとして、レイコちゃんのことを眺めていた。大人っぽいメイクをして、ロングの黒髪はいつもキラキラしている。バッグにはそんな雰囲気に似つかわしくない……、ぬいぐるみキーホルダーが吊り下げられていた。
「え、そのキーホルダーって……」
なんだったっけ。知ってるんだけど名前が出てこない。なんのキャラクターだったかな。
「あ、ナエちゃんこれ好きなの? “カナえまる”! 最近流行ってるよね」
そうだ。“カナえまる”だ。別に好きってわけじゃないけど、レイコちゃんのイメージに合わないなと思っただけで。
「レイコちゃん、このコ好きなの?」
新しいレイコちゃんが見つけられそうな気がして話を続けた。
「いや、ウチは好きってわけじゃないんだけど、この前UFOキャッチャーでさ、隣のやつ取ろうとしたらこれが取れちゃったの」
「あ、そうなんだ。それは惜しかったね」
ああ、また失敗しちゃった。
「あ、ナエちゃん好きなんだったら、あげるよ」
「え、や、そんな悪いし」
「いいのいいの、好きな人が持ってた方がこのコも喜ぶだろうし」
さすがにこの流れで好きじゃないとも言えない。レイコちゃんは自分のバッグからキーホルダーを外して、私に渡してくれた。
「あ、ありがとう」
あんまり興味はなかった。でもよく見るとかわいいキャラクターだった。私はその日から、“カナえまる”が好きなナエちゃんになった。新しいレイコちゃんを探していたら、私の知らない私が見つかった。
町に見世物小屋がやってきた。娯楽にとぼしい田舎町の人々は、こぞってその見世物小屋に押し寄せた。入場料を払って入ってみると、そこにはオーナーがポツンと立っているだけだった。客は小屋中を見回すが何一つ見つけることができなかった。
「みなさまようこそおいでくださいました。今回の見世物小屋の目玉はこちらです!」
オーナーは小屋の中央を指差した。
「透明人間です!」
客は不思議そうに見つめるが、見つめたところで何が起きるわけでもなかった。
「ふざけるな、何もないじゃないか! そこに透明人間がいるっていう証拠を見せろ!」
客は憤慨して叫んだ。
「見えないのが何よりの証拠です」
オーナーはさらりと答えた。
「冗談じゃないぞ、この詐欺師め! 金返せ!」
すると別の客が口を挟んだ。
「例えば、透明人間に布などを掛けるのはどうでしょう? そうすれば透明人間の輪郭がわかるんじゃないですか?」
するとオーナーが冷静に反論した。
「残念ですがそれはできません。透明人間は触れたものもすべて透明にしてしまうので、布が触れても輪郭はわからないんですよ」
「え、昔見たドラマだと、着ている服は消えないから、透明人間は裸じゃなきゃいけなかったはずですよ」
「それは創作物のお話でしょう。実際に、ここにいる透明人間は触れたものを透明にしてるんですから」
「本当に?」
「ええ、いまTシャツを着ているそうです」
「どんな柄の?」
「……星野源のライブTシャツです」
「どうやって買ったんだよ」
「ネットで買えるんですよ!」
「だったら、そのTシャツを脱いでもらったらいいじゃないですか」
また別の男性が横から入ってきた。
「はい?」
「Tシャツを脱いで肌から離せば、その星野源のライブTシャツが現れるんでしょ?」
「あなたよくもそんなことを! こんなに大勢の前で透明人間さんに裸になれとおっしゃるんですか?」
オーナーが激昂した。
「本人の姿は見えないんだからいいだろ」
「失礼な! 見せ物じゃないんですよ!」
「いや誰が言ってるんだよ! 見せ物にしてるのはアンタだろ」
「あのー、だったら、布を被せたらいいんじゃないですか?」
「はい? それは意味がないってさっき言ったじゃ……」
「だから。布を被せて、それが透明人間に触れたら? パッと目の前から布がなくなるわけでしょ? それでもう透明人間がいるってわかるじゃないですか!」
「おお、そうだ! そのとおりだ!」
他の客たちが一斉に同意の声を上げた。
「落ち着いてください! そんなことは許可できません! そもそも見世物小屋の所有物に触れることは禁止です! 落ち着いてください!」
「ふざけるな! こっちは金払ってんだぞ!」
「落ち着いて、説明しますから!」
「先ほど透明人間は触れたものを透明にすると言いましたよね。みなさんは空気がなぜ透明なのか、考えたことはありますか?」
客たちはざわめき始める。
「……そうです。実はこの透明人間さんが、大気に触れているからこそ、空気は透明なのです」
「じゃあ本当の空気の色は何色なんだよ」
「……真っ黒です。透明人間さんに布を被せて大気に触れられなくなれば、目の前は一気に闇に包まれるでしょう」
「そんなことで騙されると思うなよ!」
客の一人がどこからか大きな頭陀袋を持ってきた。
「みんなで一斉に飛びかかれ! 行け〜!」
暴徒とかした客たちは小屋の中央めがけて駆け出した。しかし見えない相手は掴むこともできず、次第に混乱した客同士の乱闘と化していった。
「やれやれ、透明人間さんはもうとっくに小屋から脱出していますよ。こんなに大勢に狙われて、逃げ出さないわけがないでしょう」
この日、世界が闇に覆われることはなかった。