花の香りがした。僕の初めての記憶はそれだった。僕はその香りに向かって歩み始めた。そうすることしか考えられなかったからだ。どのくらい歩いたかわからない。たどり着いた先には、たくさんの花が香る庭園があった。
「あら、いらっしゃい。どちらさま?」
庭園にはたった一人で手入れをしている麗しい女性が佇んでいた。つばの広い帽子をかぶって日除けにしていて、ひらひらのたくさんついたドレスを身に纏っている。腕には白くて長いグローブを着けていた。
「わかりません。花の香りに誘われて来てしまいました」
不審者が言うセリフだが、事実はそれだけだった。僕にはそれしか言えなかった。
「そう、じゃあかわいいミツバチさんね」
女性は冗談を言ったらしかった。でも僕にはそれがわからなくて、本当にそうなような気がした。
「なぜか、僕にはあなたが必要な気がします。僕のものになってくれませんか?」
自分でも何を言っているのかわからなかった。不躾で、愚かな物言いだ。でも僕にはそれしか言えなかった。しかし彼女は、僕の拒絶されて然るべき言動に、ケラケラと笑ってこう返答したのだった。
「私があなたのものになることはできませんわ。でもそうね、代わりに私のお手伝いをしてくださるかしら。実はこのお庭、一人でお世話をするには大きくなり過ぎてしまったの。もし十分にお手伝いをしてくれたなら、一日の終わりに、その日一番素敵な香りをしているお花を、一輪だけあなたに差し上げますわ」
その言葉を聞いた僕の胸は早鐘を打つかのように興奮していた。
「本当ですか。ぜひお手伝いをさせてください」
「ただし、報酬を与えるのは私の目にも十分な働きをした日だけですのよ」
その日から、僕は日が暮れるまで庭園で働くようになった。初めのうちはお花をもらえない日もあったけれど、仕事に慣れてくると香りの良い花を毎日もらえるようになった。
僕は一日の終わりに、最も香り高い花を一輪だけ摘み、それを家に持ち帰った。そして枕元の花瓶に挿して、芳しい香りを全身で吸い込みながら眠りにつくのだった。
次の朝に目を覚ますと、必ず枕元の花は萎れており、もはや二度と香りを発することはなかった。私はより豊かな香りを求めて、毎日庭園に足を運んだ。
しばらくすると、僕のような男が一人、また一人と庭園を訪れるようになった。庭園の主人はそのすべてに僕と同じ条件を言い渡した。しかし今度から手伝いは一人ではなくなった。主人が僕たちに告げた次の条件は、僕たちに新しい興奮を与えた。
「その日の働きが最も良かった人から順に、香りの良い花を選んで良いことにしましょう。目指すべきものがあるって素敵なことでしょう?」
それから僕は一段と真剣に仕事をするようになった。他の男たちとの競争に負けないように、より良い花を作ろうとしたし、より多くの花を作ろうとした。そうして庭園はさらに広がり、さらに芳醇な香りに溢れるようになっていった。
しばらくすると、僕ではないある男が一週間以上ものあいだ、ずっと一番に花を選ぶ栄誉を与えられる期間が続いた。その男はみんなの羨望の的になり、歯噛みしながら男を睨みつける者まで見るようになった。
そしてある日、その男は庭園に来なくなった。
手伝いをしているあいだ、男たちは互いに話すことはない。誰一人、お互いの素性を知る者はなく、みんな主人のことと一番花を得ることだけを考えている。男が一人いなくなったことなど、口にする者はいなかった。主人でさえ、元々いなかった男がまたいなくなったことなど、いちいち気に掛けるそぶりはしなかった。
僕もそれから、たまに一番花を獲得できる日が来るようになった。その頃には、一番花は僕が最初にもらった花とは比べ物にならないくらい濃厚な香りを放つようになっていた。しかし、日を追うごとに庭園に来る男の数は、ぽつり、ぽつりと減っていった。
しばらく経ったある日。いつものように主人の庭園へと向かう途中で、僕は道を間違えてしまった。初めての日よりも遠くまで香りが漂っているにも関わらず、その日の僕はまったく別の方向に足を進めていたのだ。歩いている途中にも、目では道が間違っていることに気づいていた。でも僕の鼻は、この道が正しいと言い続けていた。そんなはずはないとわかっていても、僕は足を止めて引き返すことができなかった。
歩き続けた先にあったのは、果たして、僕が毎日通い続けたのとは別の庭園だった。近くまで来ればわかる。あの庭園の何倍も上質な香りがあたり一帯を覆っている。
この庭園でも男たちが汗をかきながら手入れをしていた。よく見ると数日前まであの庭園にいた男の姿もあった。そして庭の中心にいるのは、眩いばかりのドレスを見に纏った女性主人だった。
僕は引き寄せられるようにその人の前に行き、その場に片膝をついた。
「あなたがここでするべきことは、もうわかっているでしょう」
私にそう告げた女性主人の顔は、あの庭園で最初に姿を消した男によく似ていた。
3/17/2025, 2:27:34 AM